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1.二月の側溝

 耐えるしかない、服と身を透かすような冷気の中を私は歩く。

 古い一戸建て住宅が並ぶ路地。早朝の家々の石塀は、白い空の下、霜に黒く身を染めていた。


 今年はまだ二月だというのに、春並みと例年並みの、もう三寒四温な日々に入りつつある。だが目覚めは未だ、髪が凍りついたような感覚とともにあり、隙間風に起こされる夜明けが無いわけではない。

 灯油を買い足すべきか、もう今年は我慢を押し通すべきか、悩ましい、悩みどころだった。


「おっと」


 一台の水色の軽自動車が、路地の向こうから現れた。一台分しか無い道幅に、私は車をやりすごそうと側溝のへりに立ち、肩に掛けたカバンをはみ出ないように押さえる。通勤、通学を少し外れたこの時間でなければ、路地を渡りきるまでに三度はやらなければならない、とうに慣れてしまった運動だった。

 私の爪先すれすれを、軽自動車が通り抜けていく。あの車がなんという名前なのかは、縁のない私にはわからない。乗れば楽だろうこと、これかも縁が無いだろうことくらいは、私にもわかる。


 一つ、ため息を吐き、足をアスファルトに戻そうと下を向いた。

 側溝の中には、握りつぶされたあとに捨てられた、金の空き缶。赤地に白の文字の空き缶。そして――


(……? カエル?)


 冬越しに失敗したのだろうか。白い腹を見せ、不格好に足を伸び切らせた、一匹の小さなカエルが力尽きていた。


(カエルか…… 昔どこかで聞いた、カエルの話が何かあったな……)


 いつ聞いた話なのだろうか、どんな話だっただろうか。たしかにあったはずなのに、あったということ以上はたどれない。知っているはずの歌の歌詞が思い出せない、それとそっくり似たような、もどかしい感覚だった。


(なんだったかな……)


 ぼんやりとしたまま側溝から離れた私の右腕に、ドンっと何かが当たった。

 見ると青いブレザータイプの制服を着た少年が、視線を上げてこちらを睨んでいた。こんな時間にこの場所を歩いていて、髪の色も結構派手に染めている――


「あっ、すみません……」


 素直に怖く、自分が悪かったので謝っておく。

 髪を染めた学生は目を逸らすと、舌打ちを一つ私を通り過ぎて行った。


(怖いな、最近の学生は……)


 私は気は弱いが、家系のせいか身長だけは百九十近くあった。面倒にも感じる高さだが、こういった時だけは本当にありがたくも感じる。私の身長が低ければ、押し問答の末にコテンパンにされたのかもしれない。殴られるのはいいが、財布を取られるのだけは勘弁して欲しいところだ。


(高校生…… なのかな? ()(えり)じゃないと、後ろ姿はサラリーマンと区別がつきにくいな)


 ブレザーの学生の背中が、小さくなっていく。私も背を向け、留まっていた足を踏み出した。


 高校生とは、どんな気分なのだろう、毎日どんな感じなのだろう。中学と同じような感じ、なのだろうか。それさえも三十年と昔の話で、今更私にはわからない。


(もう、三十年も経つのか……)


 ――「実家の工場が潰れて、それだけの時間が経った」。

 わからない高校生の気分。考えた末のその答えは、まったく関係の無い、自分の歩んで来た時間の経過だった。


「あっ……」


 はたと足を止め、後方を振り返る。さっきの側溝が、遠くに見えた。


(思い出した…… 寓話(ぐうわ)かなんかだ……)


 再び歩みを始めつつ、記憶を巡らせる。当たり所がよかったのか、一度思考がとんだおかげなのか、なぜか思い出していた。


 二匹のカエルが、ミルクの入った壺の上で遊んでいて、中に落ちる話だ。

 片っぽは落ちたことを嘆いて、諦めて、そのまま溺れて力尽きた。もう片っぽは、足掻いて足掻いて、ミルクをかき混ぜてバターにして、それを踏み台に壺を脱出した。それだけの内容だったように思う。

 誰に聞いたのか、どこで聞いたのかは、はっきりとは思い出せない。

 ただ、とにかく小さい頃に聞いて、ガーガーと泣いて溺れたカエルが可哀想で、ひどく哀しくなったことを憶えている。


 思いだし、私はまた一つ、ため息を吐くはめになった。首元に重く、苦しいような感覚を覚える。


 あのカエルも、寒い中でガーガー泣きながら力尽きたんだろうか。

 そして私も、そのうちには、ガーガー泣くことになるんだろうか。


 それはそう遠くない将来、確実にも思える。


 ついと下を向き、沈んでいた私の横目に、路地の最後の一軒、(つた)の這った石塀が映った。私は下を向いたまま、いつもの習いで路地を右へと曲がり――



 ブレーキの音を、聞いた――


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