7話 前に進むため
世界が一瞬にしてに色を失ったようだった。蒼太に、真紀を助ける道はなくなった。頭の内側に、誰かがあざ笑うような声がにぶく響く。
蒼太は力の入らない体を動かし、何とか自宅まで帰って来た。電気の点いていない部屋は暗く、窓からの月明かりだけが蒼太を照らす。そんなわずかな光も眩しいというように、蒼太は目を細めた。
「俺は、ばかだ」
乾いた言葉に反応を返す者は誰もいない。それがおかしくて、蒼太は笑いをこぼす。その様は機械のようで、感情のこもっていない笑いだった。
これが、どうして笑わずにいられる。蒼太はひとしきり笑うと、その場に崩れる落ちるように膝を着く。
こんなにも自分の無力さを感じたことはなかった。特別だという感情に酔っていた自分が恥ずかしい。もっと早くに気づくべきだった。ちっとも特別なんかじゃないと。
蒼太は、自嘲するような笑みを浮かべる。
「本当に、ばかだ」
蒼太の脳裏に、青子の歪んだ笑みがずっと残って離れなかった。
* * *
「行ってきます……」
こんな状況でも人間は眠れるらしい。浅い眠りのまま朝を迎えた蒼太は、朝食を取らずに家を出た。
足は鉛のように重く、脳は考えることを止めた。空は憎らしいほどに晴れわたっている。
いつもより時間をかけてゆっくりと登校すると、教室にはほとんどの生徒が着いていた。その中から、豪が心配そうな声をかける。
「蒼太、大丈夫か?」
豪にはあれから、メールで真紀が事故に遭ったと伝えた。ぼんやりとした頭でメールを打ったので、他にも何か書いたかもしれないが覚えていない。その後着信を告げるランプが点滅したが、ずっとそれを眺めていると携帯は静かになった。
「大丈夫、あき兄も心配いらないって言ってたし」
蒼太は無理やりに笑顔を作って言う。唇の端が引きつって震えそうだった。そんな蒼太を、豪が痛々しそうに見る。
「でも、顔色もよくないぞ」
豪が慎重に言葉を選んでくれているのが分かる。蒼太は席に座り、出来るだけ明るい声を出して言う。
「母さんも学校に行けって言うしさ。それに、俺がいても何も出来ないし」
それを聞いた豪の顔が、怒りに歪められる。普段とは違う、低い声で呟くように言う。
「ふざけんなよ」
「豪?」
「いつまで、物分りのいい子でいるんだよ。秋穂さんが言うから? 蒼太はどうしたいんだよ!」
突然発せられた怒声に、クラス中の生徒が注目する。蒼太は目を丸くして豪を見る。普段怒りを露にすることがない豪が、ここまで怒るのは初めてではないだろうか。
「蒼太はいつもそうだ。昔から嫌な役を押し付けられても、困った顔ひとつ見せないで」
「嫌な役だなんて思ってない」
豪の言葉に強く反論する。確かに自分は、人がよいと称されることが多い。しかし、それを嫌なことだとは思ったことはなかった。
「じゃあ、このままでいいのか? 本当は違うんじゃないのか」
「それは……」
蒼太は言葉を詰まらせる。そんな蒼太に、豪がたたみ掛けるように言う。
「蒼太は優しすぎるんだよ。でも、それは逃げてるだけだ。傷つきたくないから、自分の気持ちから目をそらしてったて、何の解決にもならないだろ」
豪の顔からはもう怒りは感じられず、純粋に蒼太を案じているようだった。
「自分のことだろ。しっかりしろ。逃げるな。駄目だったら、その時は俺を頼れ」
しばしの沈黙の後、蒼太がやっと口を開く。その顔に、もう迷いはなかった。思考を拒絶していた頭が活動を開始し、クリアになるのを感じる。
「ありがとう、豪。俺、行って来る。後のこと頼んだ」
「ああ、任せとけ!」
そう言うと、蒼太はそのまま教室から飛び出す。途中で教師に呼び止められた気がしたが、無視して走り続ける。下駄箱で靴を急いで履き替えると、わずかな時間を惜しむように外に飛び出した。
* * *
肺に澄んだ冷たい空気が送り込まれる度、体に力がみなぎるようだった。先ほどまでの体の重さが嘘のように、足は力強く動いてくれる。
このままでいいはずなんてない。まだ納得していないのだから。そのためにも行かなくてはいけない。そう自分を叱咤し、蒼太は走り続けた。
いつもより人が少ない繁華街を抜け、古びた廃ビルの前にやって来る。夢中に動かし続けていた足をやっと止めると、蒼太は廃ビルを見上げ大きく息を吐く。そこは何度か青子と共に来た場所だった。
青子は、きっとあの空間にいる。恨みの根源である、運命の番人のところに。根拠はないがそんな予感があった。
それに青子を止めるには、みどりの助けも必要だろう。蒼太は運命の管理者について、あまりにも知らなさすぎる。だったら、同じ運命の管理者であるみどりがいた方が心強い。察しのいいみどりのことだろう、もうすでに行動を起こしているかもしれないが。
あの不思議な空間への入り口があるとしたら、この廃ビルの屋上しかない。蒼太は迷うことなく中に入り、屋上へと続く階段を上った。
暗いビル内を、階段を踏み外さないように進んで行く。蒼太が階段を上る音と、荒い呼吸音だけが内部に反響する。それは、一定のリズムを刻むように続き、最上階に着くと一瞬止んだ。蒼太は、鉄の扉に手を伸ばす。さびた音をさせ、扉が外へと開いた。
視界に青空が入ってくる。目がくらみそうな澄み切った青空に、蒼太はつばを飲み込む。ゆっくり前へ進むと、フェンスの一メートルほど手前で止まった。
いざこの高さから飛び降りようとすると、やはり足がすくみそうになる。大きく深呼吸をして、蒼太がフェンスへと走り出そうとした時。
「何をしようとしてるかは知らないけど、そんなところに突っ込んだら怪我じゃすまないわよ」
背後から、あきれたような声がした。
「みどり」
蒼太は後ろを振り向き、その声の主に声をかける。そこには長い髪を風に揺らし、歳に似合わぬ冷たい表情をしたみどりがいた。
「思ったより、厄介なことになってるみたいね」
顔をしかめて言うみどりは、いつもと変わらない様子に見えた。しかし、その言葉からすると、何が起こっているか知っているのだろう。
「青子さんは」
「分からない。昨日から姿を消しているの」
その問いかけに、みどりは首を横に振って答える。蒼太の頭の中に、昨夜の青子の姿が浮かぶ。
「あの子のところだ」
「え?」
「青子さんは、あの子に復讐するって言ってたんだ。そのために、運命を捻じ曲げたって。早く止めなくちゃ!」
そう、青子は確かに言っていた。神様に復讐すると。予感が確信に変わった瞬間、蒼太の全身が粟立つ。
「落ち着いて、詳しく教えて」
その異変を感じ取ってか、みどりの表情が険しくなる。蒼太は昨夜の話を、要約して伝えた。
青子が運命の番人になったのは、神様に復讐をするため。それを実行するために、占いと称して少女たちに悪い運命を教えた。聞いた少女たちはそれを回避しようとして、結果的に運命が捻じ曲がっている。
蒼太が話終わると、みどりは険しい表情のまま言った。
「なるほどね。確かにその方法だったら可能だわ。青子と接触した記憶は相手には残らない。それにこちらから話しかけたりしない限り、他の人間には認識されないから邪魔も入らない。青子にしては考えたわね」
落ち着いた口調とは裏腹に、みどりからは少しの焦りが感じられた。
「みどり、急がないと」
「それだけ聞ければ十分だわ。後は私がなんとかする」
蒼太を拒絶するように言うみどりに、蒼太は食い下がる。
「何とかって、どうするんだよ」
焦れたように、蒼太が声を上げる。じっとなんてしていられなかった。もう逃げないと決めたのだから。
すると背後から、聞きなれない声がした。
「彼の言うとおりです。後は我々が対処します」
単調な声が聞こえ、蒼太は振り返る。そこにはいつの間にか、黒いスーツの男とにこにこと笑う子供がいた。
「タイムキーパーとレコーダー」
みどりが、顔をしかめて呟く。その顔には、焦りのような感情が見られた。
「久しぶりだね、みどりちゃん。今日は青子さんがいないみたいだけど、どこにいるか知らない?」
にこにこと笑いながら、子供が言う。それはいつか見た、青子のことをつけ回してしているという子供だった。その側らにいる男もそうだろう。
二人を改めて見ると、とても不思議な組み合わせだった。
中学生くらいの子供は、やはり見た目からは性別は分からない。くっりきとした大きな瞳は、楽しそうに輝いている。カーキ色の膝丈のオーバーオールは、前に見た時と同じだ。少し長めのショートカットはつややかな黒色で、風にさらさらと揺れている。
男の方は、生真面目そうな顔をしており、先ほどから微動だにしない。背が高く、細身の体を以前と同じ黒いスーツで包んでいる。黒い半フレームの眼鏡も合わさって、神経質そうな印象を受けた。仕立てがよさそうなスーツは、男がサラリーマンではないことを表している。
「悪いけど、こっちも知らないのよ」
警戒しているのか、言葉を選ぶようにしてみどりが言う。
「そうですか」
その言葉を聞くと、男が視線を蒼太に向ける。
「あなたは?」
その口調はとても事務的で、蒼太は嫌なものを感じた。蒼太がその問いに答えるより早く、みどりが口を開く。
「こいつは関係ないわ」
その声は、緊張しているのか強張っていた。みどりが緊張する相手とは、何者なのだろうか。
「まあ、いいでしょう。しかし、先ほど興味深い話を聞きましてね」
視線を蒼太に向けたまま男が言う。子供の方は、つまらなそうにあくびをしている。
「彼の言うところによると、青子さんは‘あの子’のところにいる。あの子とは誰です」
「お前らは、青子さんをどうするつもりだ」
その言葉に、蒼太が口を開く。何か嫌な予感がして、背中に冷たい汗が流れる。
「どうって、それはお兄さんには関係のないことだよ。まあ、楽しいことではないけどね」
そんな蒼太とは対象的に、楽しそうに子供が言った。男は眼鏡を左手で押し上げると、口を開く。そんな動作でさえ、辺りに緊張が走る。
「申し遅れました。私はタイムキーパーの片瀬。こっちは」
「レコーダーの弥生だよ!」
黒いスーツの男、片瀬はとても丁寧に。活発そうな子供、弥生は元気よくそう言った。