6話 思考の渦
青子に目をつむるように言われたかと思えば、次の瞬間、蒼太は青子と繁華街に立っていた。青子と会った時はまだ昇っていた日も、とっくに暮れて辺りは暗くなっている。
一瞬のことに驚いたが、今までのことを思えばそれくらい何ともない。何より帰って来た安堵の方が大きかった。
「三日後、また会いに行くから。その時答えを聞かせてね」
蒼太と向かい合い、いつもの笑顔で青子が言う。大きな口が弧を描いて、三日月のようだとぼんやりと思った。
「いい返事を期待してるね」
そう言い残し、青子は雑踏の中に消えていった。その場に立ち尽くす蒼太を、避けるように人々が過ぎ去って行く。
全ての物の動きが、スローモーション映像のように映る。
恋人と楽しそうに腕を組んで歩く女性も、上着の前を合わせ足早に歩くサラリーマンも、ライトを点け走る乗用車さえも。疲れと許容量を超える出来事に疲れ、脳が考えることを放棄したかのようだった。
それからは、どのようにして家まで帰ったか覚えていない。ただ、街の明かりがやけに眩しかった。
「三日後……」
ベッドで横になりながら、蒼太はそう呟く。疲れているはずなのに、神経が高ぶって眠れそうにない。
写真のように、様々な記憶がよみがえる。ガラス細工のような大樹。青い光を湛える泉。真っ白い部屋。運命の番人。大きな口に笑みを浮かべた青子。澄ました表情でたんたんと話すみどり。
どれもこれも忘れられるはずもなく、蒼太の心に強く焼き付いている。痛いほどに焼きついて、消そうにも簡単に消えてはくれない。
運命の管理者になれば、その光景を無理に消すこともない。ずっと見ていられる。それは、とても魅惑的な誘惑だった。
しかしすぐに、豪快に笑う秋穂や、八重歯をのぞかせた豪の顔が浮かぶ。運命の管理者になると言うことは、それらのことを忘れると言うことだ。それだけではなく、彼らの中から蒼太のことだけが消えてしまう。
けんかをしたり、笑いあったり。そんな当たり前の日常が全て消えてる。その覚悟が自分にはあるのだろうか。
頭が考えることに悲鳴を上げ、蒼太は寝返りを打つ。
その時、ベッド脇に放り投げていた携帯が着信を告げた。早くしろと急かすように、ランプがちかちかと光る。ゆっくりとした動作で携帯を開くと、秋穂からの電話だった。通話ボタンを押すと、秋穂の荒い呼吸が聞こえる。声には嗚咽がまじり、蒼太は携帯を耳に強く押し当てた。
「あき兄? どうしたの?」
取り乱したような秋穂に、蒼太の中に嫌なものが走る。その声には答えず、鼻をすするような音と涙をこらえようとする声だけがする。
「真紀が……」
「真紀さんがどうしたの?」
やっとそれだけ言った秋穂に、蒼太は落ち着かせるように優しく聞く。携帯を握る手が汗で滑りそうになる。
「真紀が、交通事故に遭った……」
絞り出すようなその声は、今にも消えてしまいそうだった。あんなに、強い兄がこんなにも弱々しく泣いている。なぜだ。どうして、泣いている?
耳は音を聞き取っているのに、脳は言葉として理解をしてくれない。
「蒼太、俺どうしたら」
その言葉で現実に引き戻された蒼太は、はっきりとした口調で言う。
「今から行く。どこの病院?」
秋穂から病院名を聞くと通話を切り、財布を制服のポケットにねじ込むと家を飛び出した。
* * *
教えられた病院に着くと、そこには憔悴しきった秋穂の姿があった。近くには、真紀の両親だろうか、壮年の男性と彼に寄りそう女性がいた。
「あき兄、何があったの?」
長椅子に腰掛けうつむく秋穂は、ゆっくりとした動作で顔を上げる。その動作はあまりに遅く、まるで壊れた人形のようだった。
「結婚式の打ち合わせで、真紀と出かけた。家まで送るって言ったけど、真紀は途中まででいいって。嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑って。俺、本当に幸せだな、そう思った。でも、真紀は……」
秋穂が両手を強く握り、額を打ち付ける。蒼太が秋穂の手を強く掴み、それ以上殴りつけるのを止めると、秋穂の手が小さく震え出す。
「あき兄のせいじゃない」
秋穂を悲しそうに見つめ、蒼太が言う。秋穂の手を握る蒼太の手も震えていた。
「一命は取りとめたけど、意識まで戻るか分からないらしい」
祈るように両手を組み、か細く秋穂が言う。その秋穂の姿を見た瞬間、蒼太は無意識にその言葉を口にした。
「大丈夫。大丈夫だから。俺に任せて」
噛み締めるように、一言一言ゆっくりとつむぐ。
「蒼太……?」
顔を上げ、何かにすがるように、不安そうに見つめる秋穂にもう一度言う。
「大丈夫だから。心配しないで」
そう言い残すと、蒼太はその場を足早に後にした。後ろを振り返ることなく、病院を出た。
そう、自分なら何とか出来る。そのためにすることは分かっていた。蒼太は歩くスピードを徐々に上げ、夜の街をひたすらに走った。
* * *
濃い紫色の闇が、行く手を遮るように広がっていた。見えない何かを切り裂くように、蒼太は走るスピードを上げる。
走って、走って、走って。まるで呼吸が止まったかのように息が苦しい。肺がもっと息を吸えと叫ぶ。それでも、蒼太は走り続ける。
そして、人気のない場所まで来るとやっと止まった。
息を整えることもせず、大声で叫ぶ。
「青子さん! 来てください! 聞きたいことがあるんです!」
すると、深い闇から青子が場違いな笑みを浮かべて現れた。
「こんな夜更けにどうしたの?」
焦る蒼太とは対照的に、のんびりと落ち着いた口調で青子が言う。その言い方に焦れたように、蒼太が口を聞く。
「運命の管理者になったら、運命を変えられるんですか」
「駄目だね」
その問いに、今度は間を空けずに返す。
「運命の管理者は、人の運命を意図的に変えてはいけないの」
青子は、まるで子供をあやすように言う。その言葉に、蒼太が確信めいた強い眼差しを返す。
「いけないっていうことは、可能なんですね」
「蒼太君はするどいな。うん、可能ではあるよ」
どこまでも明るく言う青子に、蒼太は次第に苛立ちを感じる。
「だったら……!」
「運命の管理者になる? でも、それも無理なんだな」
「どうして!」
焦りと苛立ちから、詰問するような言い方になる。そんな蒼太に、青子は当たり前のように言う。その表情は変わらないのに、声のトーンだけが落ちる。
「だって、君にはもうその資格がないから」
「え?」
予想外の言葉に、そんな声が漏れた。青子は腰に手を当て、夜空を仰ぎ見る。蒼太は、ただ言葉の意味を理解出来ずに、呆然とその様子を眺めていた。
「ちょっと昔話でもしようか」
視線を夜空に向けたまま、青子が息を一つ吐く。普段と様子が違う青子に、蒼太の中で戸惑いと不安が入り混じる。のどがからからに渇き、引っ付いて声が出ない。
そして、青子はこんな言葉から始めた。
「私には、恋人がいたの」
それは昔を懐かしむような、とても優しい声音だった。
「私は彼のことが大好きだった。運命の管理者になった今では、何も覚えてないけど。でもこれだけははっきりと言える。私は彼を愛してた。幸せだった。そうじゃなきゃ、私はこんなことを覚えていようとは思わなかったから」
「青子さん?」
感情的に言う青子は、まるで別人のようだった。頭の中で警笛が鳴っている。何かがおかしい。蒼太の頬を、冷たい汗が流れる。
「私は、交通事故に遭ったの。何が原因だなんてもう忘れた。ただ病院の簡素なベッドでもうろうとしている時、みどりちゃんに会ったの」
みどりと言う単語が出てきた時、その先が分かったような気がした。
「みどりちゃんは、いつもの澄ました表情で言った。運命の管理者になりなさいってね」
予想していた言葉に、蒼太は無意識に唇を噛む。
「ただ死ぬのと、運命の管理者になって彼を見守るのをどちらかを選べ。そう言われて私は、迷わず選んだ」
そこまで言うと、青子は顔を下に向け息を大きく吐く。蒼太は、おぼれたかのように息がうまく出来ない。
「私はその決意を忘れないために、病室でのやり取りを唯一の記憶とした。こうして、私は運命の管理者になりました」
ゆっくりと顔が蒼太に向けられる。その表情は笑顔なのに、少しも感情がこもっていなかった。貼り付けられたような笑顔に、蒼太は寒気を感じる。それでも、何とか口を開き言う。
「時間がないんだ。早くしないと、真紀さんは」
「でもね、私が管理者になった本当の理由は、復讐するためなの」
ぽつりと、青子が言葉をこぼす。すると、堰を切ったかのように言葉が流れ出る。
「どうして私は死ななきゃならなかったの? 運命だから? だったら、運命ってなに?」
青子は大きな目を見開き、悲痛に顔を歪める。蒼太は、少しだけ後ずさりをして呟く。
「青子さん……?」
「だからさ、運命を捻じ曲げて消してやるの。そんな風に仕向けた神様を。運命を変えたのは私だよ」
今にも声を上げて笑い出しそうなのに、その声は少しも楽しそうではなかった。
「女の子って、本当に占いが好きだよね~ ちょっと運命を教えてあげたら信じちゃってさ。素直にこっちが思った通りに動いてくれて助かったよ。そのおかげで、ずいぶん運命を捻じ曲げることが出来たけど」
その言葉で、豪から聞いた噂話を思い出す。正体不明の占い師。姿は誰も覚えていないが、不思議と占いの結果だけは感覚で残っている。その通りに行動すると、いいことがあると。
「じゃあ、あれは青子さんが」
やっと発することが出来た言葉はかすれていた。そんな蒼太の言葉に、青子は満足そうに笑う。
「そう、私だよ。運命の管理者は、手で相手に触れることで詳しい運命を知ることが出来るの。そうして知った運命を占いと称して教えて、避けさせることで運命を意図的に変えたの」
「でも、普通の人には青子さんと関わった記憶が残らないんじゃ……」
確かに、そうみどりが言っていた。事実、豪は青子と話た記憶がなくなっている。
青子は首をかしげてきょとんとした後、大したことではないように言う。
「例外として強いインパクトを与えることが出来れば、そのことは感覚として覚えていられるんだよ。言ってなかったっけ? それにもし覚えていなくとも、悪い運命を知ることによって、無意識に回避しようとするからね。人間の防衛本能ってやつ?」
「そん、な」
急に体の力が抜け落ちる。立っているのがやっとの蒼太に、青子が追い討ちをかけるように言う。
「蒼太君。君の運命は変わったの。もう、運命の管理者になる可能性はなくなったんだよ」
膝ががくがくする。頭が回らない。出来るなら、耳をふさいでしまいたい。しかし、その力も残っていない。
「例えば、君に運命の管理者になる可能性が残されていたとする。その力を使って、君は運命を変えるだろうね。でも、それは更なる運命の歪みを生むだけ」
聞きたくない。蒼太にとどめを刺すように、青子が言う。
「さあ、どうするかは君次第だよ?」
目の前のピエロは、大きな口をきれいに歪めて笑った。