2話 仮想と現実
落ちた、四階建てのビルの屋上からフェンスを突き抜けて。転落を防ぐはずのフェンスは、その役割を果たさなかった。
突然の出来事に、蒼太は目をきつく閉じる。声を上げることも出来ず、体を浮遊感と抵抗する空気が包む。そして、体を壊す衝撃がやって来るはずだった。
しかし、来るはずの衝撃はいつまで待ってもなく、どこも痛くない。手のひらの下から、硬くひんやりとした感覚が伝わってくるだけだった。
もしかして、痛みを感じる前に死んでしまったのか。そう思いゆっくりと目を開けると、そこは真っ白い部屋だった。
「大丈夫、死んでないよ」
蒼太の心を読んだかのように、場違いな明るい声が響く。視線を動かすと、口元に笑みを作った青子と視線が合った。青子に見下ろされ、自分がしりもちをついていることに気がつく。
蒼太は立ち上がると、自分の体に視線を移した。
「何ともない……」
手で体を触ってみても、ちゃんと触れられるし感覚もある。服も破れたりしておらず、きれいなままだった。
恐る恐る頬をつねろうとした時、またタイミングよく青子が言う。
「あ、夢でもないから。つねったら痛いと思うよ?」
その声は若干のからかいを含んでおり、蒼太は無言で手を下ろす。
大きく息を吸い込むと、少し乾燥した空気が胸いっぱいに入り込む。落ち着けるように、ゆっくりと息を吐く。それを何度か繰り返すと、少し落ち着いてきた。
とりあえず生きているようだ。そのことに心から安堵する。
突き落とされたことを追及しようとしたが、にこにこと笑う青子を見たらその気が失せ、蒼太は黙り込む。言葉にする代わりに、小さくため息を吐く。
周囲を見回してみると、とても殺風景な部屋だった。それほど広くはないが、人一人が暮らすには十分そうな広さがある。
真っ白な床に、真っ白な壁。正面の壁には、大きな木の絵が描かれている。床から天井まで届くほど大きなその木には、青々とした葉が茂っている。
平面的な、色も影もない紺色の線だけで描かれた絵。その絵は設計図のように無駄な線が何もない。
天井を見ると照明はないのに、なぜか部屋は明るい。家具はベッドやテーブルといった生活必需品だけ。置かれた家具は、どれも色や作りがシンプルな物である。そこには人が住む物が揃っているのに、何故か人が住んでいる感じがしなかった。
蒼太はふと、自分がドールハウスの中にいるような感覚になる。いや、ドールハウスの方が、ここより家具や生活感があるだろう。
「ここは、私の仕事部屋なんだ」
「青子さんの?」
そんな思考を遮断させるように、青子のよく通る声がする。青子はにこやかな笑みを浮かべるだけで、その表情からは何も読み取れなかった。
視界の端で何かが動く気配がし、蒼太は視線を動かす。すると、壁に描かれていた木の絵が微かに揺れる。一枚の葉が枝から離れると、すっと壁から消えていった。
「今、絵が動いた」
驚いてそう口にすると、青子は当たり前のように言う。
「そりゃ、成長してるからね。まあ、詳しくはこっちを見せてから話すよ」
青子はそれだけ言うと、部屋の奥にあった扉のないアーチのようなものへ近づく。
「着いて来て」
青子がアーチの前で手招きする。一瞬迷った後、蒼太も青子に続いた。
* * *
アーチをくぐると、急に視界が暗くなる。そして、目の前に現れた光景に蒼太は言葉をなくす。
「どう? 驚いた?」
青子の言葉に返事をすることも出来ず、ただその光景に目を奪われる。
そこは、だだっ広い空間だった。夜空のような空間に、青白い光があふれている。その光は泉のように地面から湧き出しており、その光の中心には一本の大木が生えていた。
ごつごつとした凹凸がある幹は、ガラスのような透明感がある。視線を上へ向けると、無数に生い茂る葉からも青白い光が発せられていた。見上げるほど大きなその木は、風がないのに時々葉を揺らす。
「私たちは、この木を運命の大樹って呼んでいるの」
「運命の大樹?」
青子の言葉をそのまま聞き返す。青子の横顔が、あふれた青白い光に照らされる。
「そう、全ての可能性を吸い上げ成長する大樹。この青白く見える光は可能性で、その可能性が集まって出来たのが、あの泉のようなもの」
青子が、光が湧き出す場所を指差し言う。蒼太は、その光景に目を奪われ言葉を発することが出来ない。
「運命の大樹が光って見えるのは、この泉の光を吸い上げているから。そして、運命の番人が運命を生み出すと、一枚葉が生える。その生み出された運命が機能すると葉が落ちるの。ほら、ああやってね」
青子が指差す方を見ると、青白く光っていた葉がその光を失い、ひらりと落ちて消えていった。
「すごい……」
それだけを言うのがやっとだった。それほど目の前の光景は壮大で幻想的だった。圧倒されるような光景に見入っていると、視界の端で白がふわりと揺れた。
「女の子……?」
視線を動かすと、木の枝に一人の少女が腰掛けているのが見える。白いワンピースを着た、髪の長い少女。歳は蒼太と同じくらいだろうか。その瞳は何も映していないかのように、虚空を見つめている。口は結ばれ、人ならばあるはずの表情が全くなかった。その様は、よく出来た人形のようであった。
その少女を見た瞬間、なぜかユアだと思った。その少女は蒼太がイメージするユアそのもので驚く。
「蒼太君には、あの人が女の子に見えるんだね」
青子のその言葉に違和感を感じ、疑問を投げかける。
「俺にはってことは、青子さんには別の姿に見えてるんですか?」
蒼太の言葉に、青子は驚いたように目を大きく見開いて頷く。
「するどいね。あの人は運命の番人って言って、見る人によって姿を変えるんだ。人の思念が見せる幻で実体はない。簡単に言うと運命の神様だね」
「あの子が、神様」
視線を少女から離すことなく小さく呟く。あの少女が神様と言われて、不思議と納得している自分に少し戸惑う。分からないないことばかりなのに、なぜこんな風に落ち着いていられるのか。心はざわついているのに、思考はクリアだった。
そんな蒼太の動揺を感じ取ってか、青子が言う。
「まあ、戸惑うよね。いきなり神様だって言われたら。信じるのも、信じないのも蒼太君の自由だけど、君はもう答えが出ているようだね」
そう、分かっている。なんの根拠もないが、あの少女が神様だと。それは確信に近かった。
「運命の番人は、運命の大樹を通して運命を生み出す。つまり、運命は可能性ってことなんだよね」
「どういうことですか?」
青子の説明に、蒼太は視線を少女から外し聞く。青子は、視線を少女に向けたまま続ける。
「数ある選択肢の中から一つを選ぶ。その選ばれたものを運命と呼ぶだけで、その他のものを選んでいたら別の運命が待っている。そう考えると、運命は可能性の集まりだって納得出来ない?」
青子の言葉を少し考える。運命は可能性の集まり。もしそれが本当だとしたら。
「運命は、変えられるってことですか?」
「さすが蒼太君。そう、運命は変えられるんだよ。他人が意図的にどうこう出来るものでもないけどね」
青子が子供をほめるように大きく笑う。その笑顔に、蒼太は照れくさいような、気恥ずかしいような気分になる。
「さて、そろそろ行こうか。会わせたい人がいるの」
「まだ誰かいるんですか?」
少し身構える蒼太に、青子はいたずらっぽい笑みで答える。
「それは、会ってからのお楽しみ。さあ、行こう」
そう言うと、青子はまた歩きだす。まだ引かれるものはあったが、蒼太もそれに続いて行った。
* * *
青子の部屋にあったような、扉のないアーチ状のものをくぐるとまた白い部屋に着く。クッションやジグソーパズルなどが置かれている部屋に、一人の女の子がいた。
青子の部屋より家具が多いせいか生活感がある。この部屋にも青子の部屋にあったのと同じ木の絵が、床一面を覆いつくすように描かれていた。
女の子は床に座り込み、下を向き何かを考え込んでいるようだった。よく見ると、床にはジグソーパズルが広げられている。
「みどりちゃん、ただいま~」
みどりと呼ばれた女の子が、ゆっくりと顔を上げる。その顔にはまだ幼さが残っていて、大きな瞳と小さな鼻がかわいらしい。
みどりは、大きなリボンと裾にレースがついたワンピースを着ていた。暗い茶色の髪は、ゆったりと下ろされている。
みどりは、手に持っていたジグソーパズルのピースを床に置くと、不満そうに顔をしかめる。
「青子、あんた今まで何してたのよ」
その見た目からは、想像もつかないような言葉遣いに蒼太は唖然とする。青子は慣れているのか、そのまま言葉を返す。
「何って……勧誘?」
「仕事もしないで、ずいぶんと偉くなったじゃない?」
怒りを露にするみどりは迫力があった。そんなみどりに、青子は慌てたように言う。
「み、みどりちゃん? お、落ち着いて!」
「私は落ち着いてるわよ。青子については後で考えるとして……そいつは誰?」
慌てて言う青子を無視して、みどりの視線が蒼太に向けられる。その目は、何かを探るかのようだった。
「山名蒼太って言うんだ。よろしくね。君は?」
蒼太は出来るだけ優しく言う。その横では、青子が叱られた子供のように大人しくしている。いったい、この二人はどのような関係なのだろうか。
「私は、みどりよ」
みどりはそっけなくそう返すと、興味がないかのように視線をまた青子に戻す。
「青子、あんたどういうつもり?」
「蒼太君には、特別な運命があるんだよ」
怒りを含んだみどりの言葉に、青子は笑顔で言う。その言葉に、みどりは蒼太に顔を向けた。驚いたように大きく見開かれた瞳が、蒼太を映す。
「青子さん、どういうことですか? そろそろ、説明してください」
全く意味が分からない蒼太が問えば、意味深な笑みが返ってくる。
「蒼太君には、運命の管理者になってもらいたいの」
その言葉を理解する前に、蒼太の意識はぶつりと途切れた。