1話 小さな終わりと大きな始まり(2)
「秋穂さんが結婚か」
教科書をかばんに仕舞う手を止めて、伊藤豪は感慨深そうに言った。
放課後の教室は、雑談や帰り支度をする生徒で騒がしい。蒼太はかばんを机に置き、近くの椅子に腰掛けて話を続ける。
「そうなんだよ。俺も、昨日聞いたんだけど」
豪は蒼太の顔を覗き込むと、にやりと笑う。笑った口元から白い八重歯がのぞく。
「蒼太、寂しいんだろ。大好きな秋穂さんが結婚するから。蒼太はブラコンだからな」
「ブラコンじゃない」
寂しいというところは否定せずに、そっけなく返す。豪とは中学時代からの付き合いで、同じ高校に進学した今も親しくしている。秋穂とも面識がある豪は、あの秋穂さんがね、などと続ける。
「まあ、兄離れするいい機会かもよ? 蒼太も彼女作ったらどうだよ。もてるんだし」
「別に俺は」
どちらがとは言わずに、短くそう返す。そんな蒼太に、豪は苦笑する。
「まあ、その様子じゃ付き合っても、またすぐに振られそうだけどな」
豪の言葉に、苦いものがよみがえる。初デートで秋穂の話を延々として、その日に振られたのは記憶に新しい。蒼太には振られた理由が分からず、そのことを豪に話したら頭を抱えられた。
「もったいないよな。それとも、誰か好きな子でもいるとか?」
後の方は、声を小さくして豪が言う。その顔はにやにやと笑っている。そんな豪の頭を軽く叩くと、蒼太はかばんを持って立ち上がる。
「ばかなこと言ってないで、さっさと部活行けよ」
「はいはい。蒼太は今日はもう帰るのか?」
日に焼けた肌を隠すかのように、マフラーを首に巻きながら豪が言う。まだ十月だというのに、寒がりの豪にはもう必要らしい。
「帰りにCDショップに寄ってく」
豪が立ち上がってから、二人で昇降口まで歩いて行く。陸上部である豪とは、ここで別れることになる。蒼太が通う高校は部活動に入る義務がないので、蒼太はかれこれ二年間ずっと帰宅部だ。
「じゃあ、また明日な。秋穂さんによろしく」
「ああ、また明日」
そう言葉を交わすと、豪は部室棟へと向かって行く。蒼太はイヤフォンを耳にはめると、帰り道にある大きなCDショップへと歩き出した。
* * *
店内には、流行のJポップが流れていた。国内盤から輸入盤まで幅広く揃えるそのCDショップには、蒼太のような学生から会社帰りのような者まで大勢いた。
蒼太は店内をぐるりと見て歩くと、数多く張られているポスターの中から目的のものを見つける。
yourと書かれた文字に、幻想的な風景画。しなやかで、繊細なタッチの絵からは意志の強さがうかがえる。年明けからメジャーデビューすることとなった、yourことユアのポスターである。
年齢も経歴も不詳で、分かっているのは女性だということだけ。自身が描いたこの絵も、謎めいた彼女を表しているようだった。
もともとは、利用者が音楽プレイヤーに有料ダウンロード出来るインターネットサイトで、顔を隠して音楽を配信していた。その名前のように、誰かに向けたメッセージ性のある歌詞が、今若者の間でちょっとした話題となっている。
蒼太は三年ほど前にユアのことを知り、それ以来彼女の音楽を毎日のように聞いている。思春期に両親の離婚を経験し、しばらくは何も手につかない日々が続いた。そんな時ユアを知り、彼女の歌から前に進む希望をもらったのだ。それ以来、蒼太にとってユアは特別な存在になっていた。
ポスターから目を外し、ゆっくりと歩き出す。それからいくつかCDを視聴して店を出た。
店を出ると、少し乾燥した秋風が蒼太の頬をかすめる。肌寒さを紛らわすように歩き出そうとした時、忘れられない姿を見つけた。
中学生くらいの少女と話していた青子に、相手と別れたのを確認してから声をかける。少女は、ふらふらと覚束ない足取りで人ごみに消えて行った。
「あの、青子さん?」
昨日の今日だが、忘れられているのではと不安に思いながら声をかける。すると青子は振り向き、くだけた笑顔を見せる。
「あれ? 蒼太君。昨日ぶりだね」
覚えてもらえていたことにほっとしつつ、蒼太は言葉を続ける。
「昨日はありがとうございました。青子さんは、この辺はよく来るんですか?」
昨日と同じ妙な格好をしている青子にそう尋ねれれば、否定とも肯定ともつかない曖昧な返事が返ってくる。
「まあ、色々かな。それより、蒼太君これから時間ある?」
「ありますけど」
今日は目的のCDショップにも寄れたし、後は帰るだけだった。そう答えると、青子は蒼太の手を取り歩き出す。蒼太がまた呆気に取られていると、青子がどこか楽しそうに言う。
「じゃあ、ちょっと付き合ってよ」
「ちょっとって、どこに行くんですか?」
「それは秘密」
弾むような声がそう答える。蒼太は困ったように眉を少しだけ下げると、青子に着いていくことにした。
* * *
ちょっと付き合って、そう言われ歩き出してから三十分ほど経っただろうか。周りの景色も繁華街から、小さなビルが建ち並ぶものへと変わる。それにつれ人通りも少なくなってきた。
青子は、他愛もないことを話しつつも、これといった目的地を言わないままである。不思議なことに、道行く人々は誰も青子の不思議な格好に視線を送ることがなかった。不思議に思っているのは、自分だけなのではと蒼太が考え始めた頃、青子の歩みが止まる。
「着いたよ」
目の前にそびえ立つ、廃ビルを指差して青子は言う。コンクリートの壁には、ツタが張り付き、外からでもその古さがうかがえる。
「青子さん、ここは?」
「まあ、いいから。いいから」
四階建ての小さなビルの中に、青子はどんどん進んで行く。まるで自分の家のように入っていく青子に、蒼太は小さくため息をつくと後に続いて行った。
「ずいぶん暗いな……」
廃ビルの中は、当たり前だが電気が通っておらず暗い。外からの光が遮断された暗いビル内は、目が慣れるまでに少し時間がかかりそうだ。
蒼太がぽつりとこぼした言葉に、青子は明るい声で返す。
「まあ、すぐに慣れるよ」
青子は知っているかのように、鼻歌まじりで階段を上って行く。目が慣れくると、所々ひびが入った壁や、何も置かれていない殺風景な部屋などが目に入る。どうやら人がいなくなってから、だいぶ時間が経っているようだ。
最上階に着くと、青子が屋上に続くと思われる扉に手をかける。すると、扉は案外簡単に開く。急に外の光が入って来て、蒼太は眩しさに目を細めた。
「はい、到着~」
外は夕暮れ時で、いつの間にか街を赤く染めるている。赤い街を目を細め眺めていると、青子が手招きをする。
「ほら、ここ見てみてよ」
フェンスの近くから手招きする青子にそう言われ、近づき下を見てみる。四階建てとはいえ結構な高さがあった。落ちたらただではすまないだろうな、などと心の中で思う。
「結構高いですね。それで……」
何があるのか、そう問おうとした時。急に背中を強く押され、蒼太はフェンスの下へ落ちていった。