1話 小さな終わりと大きな始まり(1)
いったい、この状況をどこから説明したらいいのか。
今の状況を一言で表現すると、困惑していた。その場にいる彼女を除く全員が。
蒼太は数秒前まで困り果てていた。さらにその十数分前までは、音楽プレイヤーから流れるメロディに耳を傾けなら足早に歩いていた。
そして今、突然現れた妙な女性に全ての視線が集まる。
「あ!」
女性は急に大きな声を上げると、何かを指差した。
蒼太は驚き、指差した方を見ようとすると、体が急に引っ張られる。
「逃げるよ」
そう聞こえたかと思ったら、蒼太は手をつかまれて走り出していた。
それはさかのぼること十数分前。学校からの帰り道、人通りの多い繁華街でのことだった。
すっかり秋の服装に身を包んだ人々は、楽しそうに、また忙しなさそうに歩いて行く。どんよりと空をおおう雲からは、弱々しく日の光が差している。
蒼太もそんな群衆に紛れて、イヤフォンから流れる音楽に耳を傾けながら歩いていた。だから、前から来る制服を着崩し、派手な髪をした彼らに気がつかなかったのも当然で。
彼らの横を通り過ぎようとした時、ふいに声をかけられた。
「おい、お前。丘高の杉山だろ」
蒼太は彼らの言う丘崎高校の生徒もなければ、杉山と言う名前でもない。違いますと言うより早く、肩をつかまれ数人の不良たちに、側の路地へと連れ込まれてしまった。
道行く人々は、そんな蒼太たちを横目で見るだけで、誰一人として助けようとはしない。蒼太も助けを求めることはせず、ただ少し困ったなとだけ思った。
「杉山、この前の借り返させてもらうぞ」
人の気配を感じない薄暗い路地は、少し湿っぽく感じた。両側を高い建物に、前後を威嚇するような不良たちにふさがれる。蒼太と同い年ほどに見える彼らは、何が不満なのか睨みをきかせ凄んで言う。
そんな彼らに、蒼太は少し困ったような表情をする。形のいい眉が少しだけ下げられたが、そこに恐怖の感情は見えなかった。
だから杉山などではなく、自分は山名蒼太で人違いだと言おうとした時、何かを蹴ったような鈍い音がする。
そしてそこにいた全員が呆然とした。
蒼太の背後をふさぐように立っていた一人の不良が、声もなくその場にうずくまっている。その不良の近くには、先ほどまではいなかった一人の女性が立っていた。
突然現れたその女性は、黒髪を短めに切りそろえており、曇りだというのにサングラスをかている。女性にしては背の高い、すらりとしたシルエットだった。
おかっぱ頭にサングラスという、妙な格好の女性の登場に困惑していると、女性は驚いたような声を上げ何かを指差す。不良たちが気を取られた一瞬の隙を突いて、女性は蒼太の手を取ると一気に路地から逃げ出した。
そのことに気がついた不良たちの叫ぶ声が、遠くで聞こえた。
繁華街を抜けて小さな公園までやって来た。公園には遊んでいる子供たちの姿はなく、日は沈みかけている。
体力に自信があるとは言え、十五分ほど全力疾走したので息が上がり苦しい。蒼太は両手を膝に当て、息が整うのを待つ。
そんな蒼太とは対照的に、女性はまったく息が上がっていなかった。涼しい顔をし、隣で苦しそうにしている蒼太に声をかける。
「大丈夫?」
少し高めのよく響く声だった。サングラスで隠れて表情はよく分からないが、口は笑みの形になっている。
「はい、なんとか……」
そう言って、蒼太は再び亜然とする。改めて女性を見ると、その服装もまた妙であった。体のサイズに合っていない大きめのパーカーに、胸元とおへそが見える、ぴったりとしたインナー。デニムのショートパンツと、黒い編み上げのショートブーツを履いていた。女性の服装には詳しくはないが、これがちぐはぐなことくらいは分かる。しかし、女性はそのちぐはぐな服を、不思議と着こなしていた。
蒼太の動揺を気にも留めず、女性はかけていたサングラスを外して言う。
「それならよかった。私は青子ね。青いに子供の子で、青子」
青子、そんな妙なな名前があるのか。そう思いかけて、それ以上は考えないようにする。
サングラスを外すと、猫のような大きな目が現れた。笑ったその顔は、二十代前半ほどに見える。その服装と髪型でなければ、もっと異性からの視線も集まるだろう。しかし、それもまた青子の魅力のように感じた。
「えっと、山名蒼太です。さっきはありがとうございました」
青子につられるように、蒼太も自分の名前を告げる。
「蒼太君か。よろしくね」
そんな蒼太を楽しそうに見つめ、青子が言う。それはまるで、遊び相手と話すようだった。
よろしくと言われ、蒼太は少し考えた後、よろしくお願いしますと返事をする。
「君は自分の運命を知った時、どうするんだろうね」
突然大きな瞳がすっと細められ、独り言のように青子が言う。その視線は蒼太に向けられているのに、どこか別の場所を見つめているようでもあった。
蒼太がその言葉の意味を考えていると、青子が先ほどの笑顔に戻る。
「じゃあ、またね」
青子は満足そうに言うと、来た方とは逆方向へと歩いて行った。その言葉は、まるで次があるかのようで、形式的な言葉だとは分かっていても、なぜか引っかかった。
蒼太はその場に、夢でも見ているかのように立ち尽くす。しばらくして、我に返ったかのように公園の時計を見て声を上げた。
「まずい、遅れる!」
自分が急いでいたことを思い出した蒼太は、暗くなり始めた道をまた走り出した。
* * *
「よう、蒼太。遅かったな」
顔をほんのり赤らめた男性が、ビールを片手にそう声をかける。テーブルには、つまみだろうか、ソーセージが乗せられた皿があった。
「ごめん、色々あって」
蒼太は、息を弾ませながらそう答える。結局、待ち合わせ場所であるファミリーレストランまで、再び全力疾走することとなった。席に座り、出されたグラスの水を一気に飲み干すと、やっと一息つく。
ファミレスの中でも安価なこの店は、学生などの若い客で込み合っていた。店内には軽快な音楽が流れている。人が多い室内は、走ってきた蒼太は少し暑く感じられた。少し悩んだ後、制服のブレザーを脱ぎ脇に置く。
「まあ、高校生にもなれば色々とあるよな。で、何食べる?」
男性は深くは聞かず、立てかけてあったメニューを手渡す。メニューを受け取りページをめくると、和洋中さまざまな料理の写真が載っていた。
「じゃあ、豚キムチ炒め定食」
そう蒼太が言えば、それを聞いた男性が手早く注文をすませる。
「相変わらず、辛いもの好きだよな」
「あき兄もビール、相変わらず」
兄である山名秋穂にそう言われ、蒼太も秋穂が手にしているビールを指差して言う。
六つ歳の離れた蒼太と秋穂は全てが対照的で、容姿を見ても細身な蒼太に比べ秋穂はがっちりとした体格である。髪も蒼太が茶色いふわふわとした癖っ毛なのに、秋穂は黒い直毛を短く切りそろえていた。端整な顔立ちをした蒼太と、男らしい骨格のいい秋穂は兄弟に見られることはあまりない。
「仕事終わりの楽しみを取るなよ。それにしても相変わらず、蒼太は俺とは違ってイケメンだな。いいことだ」
ビールをあおり、秋穂が嬉しそうに言う。少し酔っているのか上機嫌だった。笑うと小さな目がさらに小さくなって、とても愛嬌がある。
「俺はあき兄みたいになりたかった」
男らしい秋穂に幼い頃から憧れ、目標としてきた蒼太は少し寂しそうにぽつりと呟く。
その太く大きな指からは、繊細な物を器用に生み出すことを知っている。蒼太は自分の細く長い指を見て、秋穂に分からないようにため息をついた。
そんなことを考えていると、注文した料理が運ばれて来る。
「そんなこと言うな。お前は俺の自慢の弟なんだから」
秋穂が嬉しそうに言う。その言葉はいつも真っ直ぐで、蒼太の心をほぐしていく。
「で、今日はどうしたの?」
秋穂にそう言われ、照れ隠しのように料理を口へ運ぶ。
離れて暮らす秋穂は、会うといつも恥ずかしげもなく蒼太が欲しい言葉をくれる。それが、照れくさくも嬉しくもあった。
「ああ、実はな。その、ちょっと話があってな」
秋穂の顔から急に笑みが消え、戸惑ったような表情をする。
「何かあった?」
「あったと言えば、あった」
妙に歯切れが悪い秋穂に、蒼太は怪訝そうな顔をする。何か悪いことでもあったのか心配になるが、しだいに秋穂の顔に照れたような笑みが浮かぶ。
「俺、結婚することになった」
「え?」
「だから、結婚! 結婚するんだよ!」
蒼太の中に、兄が結婚するという言葉が徐々にしみこんでいく。秋穂は照れているのか、赤い顔がさらに赤くなっている。
「おめでとう」
「ありがとう」
蒼太の言葉に、秋穂はさらに表情を崩す。グラスのビールを飲み干すと、追加注文をする。
「相手は、真紀さん?」
「ばか、他に誰がいるんだよ」
田中真紀は秋穂の以前からの恋人で、職場恋愛だそうだ。共通の趣味である映画を通じて親しくなり、秋穂が惚れ込んでいる女性だった。
「おめでとう。幸せにしてあげてよ」
「当たり前だろ」
蒼太がそう言えば、秋穂はとても嬉しそうに、幸せそうに笑う。そんな秋穂を見て喜ぶ気持ちと、寂しい気持ちの両方が蒼太の中で入り混じる。素直に喜べない自分が嫌で、蒼太は無理やりに笑顔を作った。