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暮れて惑うは幽霊船  作者: 柚田縁
第一章
6/51

月明かりの下

いらっしゃいませ。今回は1902文字です。ぜひ読んでいってください。

 暗い空間に、時々、しゃくり上げるような声が僅かに響く。

 その人は涙を堪えながら、暗い廊下を歩いていた。

 両手には少し重くて冷たい感触があり、何かを強く握りしめている。


 不意に明るい光が左手の方から差してきた。顔はそちらへ自然と向けられる。

 外へ続く扉の窓から、明るい月の光が差し込んでいたのだ。

 歩みが止まり、両手を顔の前まで持ち上げた。


 その手には、銀色の輪っかが握られていた。その輪っかは、月光を反射してより冷たく輝いた。とても綺麗だった。

 月は厚い雲に覆われ始め、やがて暗闇が戻って来た。窓には、自分の姿が薄っすら映し出された。


 頭の右側に結ばれた青色のリボンが揺れた。その姿は、マリアンだった。

 彼女は再び歩き始めた。


 そうして、もう一度歩みを止めたのは、廊下の行き止まり。そのすぐ脇には、タイスの部屋がある。

 マリアンはすっと膝を曲げて、その場にしゃがんだ。

 乾きかけていた涙が再び涌き上がり、ついには頬を伝い始めた。


「ごめんなさい」


押し殺したような声で呟いた。

 真っ暗な廊下の床に、そっとバングルを置いた。コトッと音がひっそりと響く。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


絞り出すような声で、彼女の呟きは続いた。

 その度に涙は止めどなく溢れ続け、床に雫を落とし始めた。

 一粒一粒の涙が、乾ききった木製の床を叩く音がした。

 それは、バングルなんかよりもずっと重たく感じられた。


 一頻り泣き、謝り続けた彼女は、闇を映してしっとりと光るバングルを残し、来た道を戻り出した。

 厚い雲を払ったのか、月は再び慈しむような優しい光で輝いていた。



 僕はその日、地平線から昇ってくる太陽を、甲板から見た。単なる早起きではない。言うなれば、夜更かしの延長だ。

 左腕には、長年馴染んだ冷たい感触があった。


「さて」


僕は大きく伸びをして、昨日与えられた個室へ戻る事にした。


 早朝だった事もあり、途中で誰かに会ったりする事も無い。

 四人掛かりで掃除をしたこの部屋だったが、さすがにまだ触れる事を躊躇わせるような汚れや塵、埃がある。

 皆が善意で綺麗にするのを手伝ってくれた、そんな部屋だったが、僕は今日限りにしようと思っていた。


 僕は、何気なく本棚に並べられた背表紙を見た。書斎だというこの部屋を、一体誰が使っているのか。あるのは難しそうな本ばかりで、それらの本を読んでいそうな人物が、この船にいるような気がしないのだ。

 だが、徹夜明けの鈍い感じのする頭では、これ以上の事を考えられなかった。


 それに、今日の朝食時の事が気になっていたのもあった。

 無論、献立の話ではない。

 朝食時、みんなが集まるその時に、僕は謝ろうと考えていたのだ。この船のみんなへ、中でも犯人扱いしていたタイスに。


 やけに時の流れが遅く感じられた。それは単に、緊張によるものだ。

 どこにいても落ち着かず、書斎の中をウロウロと歩き回ったり、小窓から外の様子を覗き見たりしていた。


 そして、チャイムが鳴ると、僕は飛び上がるような勢いで、腰を下ろしていたベッドから立ち上がり、耳をそばだてた。


「朝食ですよ〜、食堂に集まってくださいね〜」


ほんわかしたエミーの声。

 船内放送が終わる頃、僕は既にドアノブに手を掛けていた。ただ、すぐにノブを回す動作には移らなかった。


 僕には、これからやらなければならない事が待っていたから。


「よし」


しばらく待って、僕は自分を鼓舞するように声を出して、ようやくノブを回した。


 書斎のある二列目の部屋は、ほとんど使われていないため、道中会う人はまずいない。

 一列目の廊下に来ると、途端に人が多くなる。

 僕は不自然過ぎるくらいの遅い足取りで、ある人の姿を探していた。

 そこへ、丁度すぐ側の部屋から出てきたばかりのティムが話し掛けてきた。


「おや、ジェイクぅ。どうしたんだい? そんな亀みたいに遅く歩いたりなんかしてぇ」


 余計なことを言うな。喉まで出掛かったその言葉を飲み込んで、僕は答える。


「別に意味なんて無い。ただ、何となく」


「まぁ、その気持ちもわからなくはないけどねぇ」


そう言って、ティムは遠い目をしながら、食堂の方へ歩き去った。


 ちなみに、食堂は一度甲板へ出なければ行く事が出来ない。どういう訳か、食堂だけは船首の方にあるのだ。

 食堂の建家は後から作られたらしく、他の設備とは違い、木造で少し新しい。


 僕はティムを見送り、再び亀歩きを続けた。

 探していた人は、一番奥の部屋から出てきた。タイスだ。

 タイスは相変わらずふて腐れたような顔をして、尊大な歩き方をしていた。

 僕は彼の姿を確認すると、柱の陰に隠れた。


 やがて、彼が外へ出て行くと、僕はその後ろ姿に一瞬だけ視線を遣って、足音を立てないように廊下を駆け抜けた。

読んで頂き、ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております。

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