感覚の獲得
いらっしゃいませ。今回は、2568文字のお話です。第六章始まります。ぜひ読んでいってください。
空は青く高い。筋状の雲が幾重も重なり合って、空の至る所に浮かんで、流れている。
僕はスタルト艇の甲板よりずっと上空で、そんな雲の一つにでもなったかのように、フワフワと漂っていた。と、今の自分の状態を、雲に例えてみたが、どうもしっくり来ない。
雲のように、風に吹かれて飛んでいくと言う事が無いし、それどころか、風を感じる事すら無い。
意識体には、嗅覚も存在していないらしく、潮の香りも感じない。
そもそも、感覚器官というものが存在していないのだから、仕方ない。
二、三羽の海鳥が僕の下を、風に乗って滑空していった。
太陽が早回しのビデオを見ているように、少しずつ昇っていく。
その時、僕はそれがおかしい事に気が付いた。
どうしてそれらの光景が、僕に見えたのだろうか。こうして海、空だって見えているし、音だって遠くから波音が聞こえている。
不意に、投げ出した疑問の答えに触れた気がした。
僕は、目や耳といった感覚器官で映像や音を感じていたのではなかった。
この精神体は、形があるものではない。巧い言葉が見つからないが、僕は多分、感覚そのものになっている。
だとしたら、感じる事の出来なかった、触覚や嗅覚も、感じられるようになるのかもしれない。
僕は、見る、聞くの感覚を一旦閉じるよう強く意識して、風に触れる事を思い描いた。
すると、真っ暗で途方もなく静かな中、風が自分の中を通り過ぎていく感じを覚えた。まるで、嵐並みの強い風に向かい、立っているように思われた。
次は嗅覚だ。風の通り抜ける感じをそのままに、今度はその風に乗せて運ばれる、潮の香りを強く想像する。
思った通り、吹き抜ける風は、潮の匂いを連れてきた。
視覚、聴覚を開くと、四つの感覚が共存し、混ざり合う事で、僕はこの世界に繋ぎ止められたような気がした。
僕は自分の能力を、僅かばかりではあるが、またコントロールする術を手にしたのだった。
今なら、自分の体に戻れるかもしれない。そう考え、僕は、一足飛びに自室へ跳んだ。
その場にいたのは、メアリとティムの二人だけだった。他のみんなは、与えられた仕事をする為、各々の場所に点在していた。
二人は何か話をしているらしいが、僕はそれに耳を傾けず、気持ちばかりが急くまま、自分の体に重なるよう意識した。
だが、結果はさっきと同じで、気が付くと船底の真っ暗闇に包まれていた。嗅覚が戻ってきた所為もあり、酷くその場所はカビ臭かった。
僕は嗅覚だけを閉じ、そのまま船底に居座って考えた。一体、何が足りないのだろうか、と。
簡単には答えの出そうにない疑問だった。
「エミー、本当に大丈夫なの?」
メアリはもう一度しっかりと確かめるように、そう尋ねた。
「大丈夫よ。私、ちょっと用事があるから」
エミーは素早く踵を返し、僕の体が眠る部屋から出て行ってしまった。
残されたエミーとティムは、顔を見合わせた。
「ちょっとエミー、酷くない?」
「そうだね、僕もそう思った」
ティムは怒ったように答えた。
二人が何の話をしているのかと言えば、倒れて目が覚めない僕の為に、医者を呼ぶかどうかという件で、エミーが必要無いと言い張っている事についてだった。
無論、この今の状態を医者に見せたところで、僕が目を覚ますという事は無いと、僕自身思っている。
だから、エミーの判断を僕は支持する。無駄に運営費を減らす事になるだけだ。
しかし、エミーや僕のように、そう考える事が出来るのは、僕が異能力者であると知っているからだ。
メアリやティムだけでなく、タイスや双子の姉弟はその事を知らないのだから、エミーが下した判断を、納得できないのも無理はない。
僕がすぐにでも目を覚ます事が出来たら、一番いいのだけど。
思い通りにならない自分自身の能力に、僕は苛立った。
静かだった部屋に、扉が開かれる音が響く。二人の視線が自然とそちらへ向いた。入ってきたのは、タイスだった。
「なんだ、タイスか」
ティムは彼が視界に入ると、すぐに目を背けてしまった。
「なんだとはなんだ!」
そう声を荒げながら、タイスは自分のベッドに腰を下ろした。
「それにしても、お前ら、まだいたのか?」
答えたのはメアリ。
「誰かはジェイクの事、見てないとダメでしょう?」
「そいつは、こんな事でくたばるような奴じゃねーと思うけどな」
同意したい思いはあれど、何となく癪に障る。
「ああっ、タイスも『大丈夫』派なの?」
「何だ? その派ってのは」
「エミーも、ジェイクが大丈夫だって言ってるんだ」
ティムの言葉に疑問符を浮かべるタイスへ、メアリが詳しく説明をした。
それを受けてタイスは、抑揚のない声で呟いた。
「ふーん。そうなのか」
再び、部屋が静かになった。そんな中、メアリがぽつんと独り言のように言った。
「倒れて意識が無いのって、私と同じじゃない。私の時は大騒ぎしてお医者さんまで呼んだのに、ジェイクの時は……。これじゃあ、あんまりよ」
メアリは深く落ち込んで、頭を垂れた。
「そう言えば」と、ティムがタイスに目を向けて、次のように尋ねた。
「エミーって、どうしてるの? 何か用事があるって言ってたんだけど」
「エミーならさっき、操舵室に入っていくのを見たぞ」
メアリは顔を上げて発言した。
「船を動かすのかな?」
エミーが操舵室に……。
僕がそう考えると、目の前が突然、白く明るくなった。
次の瞬間、僕は操舵室の中を漂っていた。
エミーは椅子に腰掛けて、もの憂げに深い溜め息を吐いた。
「お医者さんを呼びたいのは私も同じ。だけど、これ以上……あの人にお願いする訳にはいかないのよ」
もう一度、溜め息を吐くエミー。
「もう、縁を切るって決めたんだから」
そう呟いた彼女の目は、ギラギラと光って、意志の強さを感じさせた。
あの人とは? 縁を切る?
僕は、ジョシュアの顔を考えていた。
無許可の孤児院を資金面で裏から支え、誰かが病気になれば、医者を派遣してくれる。
そんな、ジョシュアと、縁を切らなければならない理由は何なのか。
「ジェイクー、いるの?」
唐突にエミーは僕の事を呼んだ。
僕はドキッとした。ここに僕がいる事が、彼女にはわかっているのだろうか。本気でそう思った。
「なんてね……。今頃、誰の中に入っているんだろうなぁ」
そう言って、彼女は寂しそうに笑った。
どうやら、さっきのはただの冗談だったらしい。
僕は何故かホッとして、存在しない筈の胸を撫で下ろした。
読んで頂き、ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております。




