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暮れて惑うは幽霊船  作者: 柚田縁
第五章
34/51

特別の日常

いらっしゃいませ。本日は、2631文字のお話を用意しております。ぜひ読んでいってください。

「ティムーーー!」


廊下で叫ぶメアリ。ドア越しでも十分聞こえてくる。そうだ、これこそが日常だ。

 僕は一人、書斎から借りてきた本を読みながら、自室でスタルト艇に帰ってきた事を実感していた。

 ちなみに、タイスは朝早くからどこかへ行ってしまって、まだ戻らない。


「なんだよう、メアリぃ」


頼りない声で、ティムが返事をした。


「また頼んでた事放り出してー!」


「ええー? 終わったよぉ、会議室の掃除なら」


「様子を見にいったら、タイスがやってたわよ!」


それでタイスの奴は帰ってこないのかと、合点がいった。多分、彼はぶつくさ言いながらやっているに違いない。


「タイスぅ、まだ終わっていなかったのかぁ。文句言いながらだから、仕事が遅いんだよぉ」


ティムは普段、ヘラヘラ飄々としているくせに、意外と鬼だ。


「とにかく、会議室に行きなさい!」


「わかったよ、もう」


その会話の五分後くらい、タイスがやさぐれた様子で部屋に戻ってきた。


「ああ、ひでーめに遭った」


「お前、なんだかんだでお人好しだよな」


僕がそう言うと、タイスはムキになって返した。


「馬鹿っ、そうじゃねーよ! あいつが副船長の権威を傘にしてきやがったんだ!」


それでも、僕はタイスがお人好しだという印象を変える事は無かった。けれど、これ以上言うと、例えそれが照れ隠しであったとしても、奴は本気で怒るだろう。

 しかし、それはそれで面白そうだと、僕は、「はいはい、わかったわかった」と、宥める振りをして、挑発した。


 それに対してタイスは、意外な反応をした。いつもみたいに悪態を吐く訳でもなく、黙って僕の方を見詰めた。怪訝そうな顔で。


「どうしたんだ?」


僕は眉根を寄せて、タイスに言った。


「いや、お前少し変わったな」


タイスはそう言って、視線を逸らした。

 僕が変わった? 僕自身にその自覚は全く無かった。むしろ、変わったのはタイスの方だと思うくらいだ。

 タイスは溜め息一つ吐いて、ベッドに腰を下ろした。


「俺は寝る。音立てるなよ」


彼は一方的にそう言うと、横になった。


 僕はそのまま本を読み続けるか、部屋を出て船内をぶらぶら歩き回るか、少しばかり悩んで、結局、後者を選んだ。


 廊下に出ると、ちょうど甲板に走り去っていく、マリアンとカイの後ろ姿が見えた。二人以外は見える限り人影もなく、静かなものだった。

 僕は特に目的地も無いまま、廊下をまっすぐ進んでいった。

 途中会議室からティムが、ひょっこりと顔を出した。

 ティムはにへらと笑みを見せて、僕に手招きをした。


「ジェイクぅ、掃除代わってくれない?」


「いやだ」


僕がきっぱりと断ると、ティムは一瞬哀しげに目を伏せた。その後、すぐにいつものように気の抜けるような笑顔を見せて、いけしゃあしゃあと言った。


「副船長命令でも?」


「残念だけど、タイス程お人好しじゃないからな。それに、メアリにまた叱られるんじゃないか?」


「うーーん」


 ティムは口許にまだ笑みを残しつつ、目元だけに寂しさを浮かべた。


「仕方無いか。ジェイクぅ、どうしても手伝いたくなったら、また来てくれよぉ?」


そんな事がある筈は無いと思いながらも、僕は「わかった」と、答えて、また歩き出した。


 目的地は無いつもりだったが、足は自然と屋上へと至る道を辿り出していた。なんだかんだで、よく足を運ぶ場所だと自分でも思っている。

 そう言えば、僕がこの船にいなかった間に、この場所は立ち入り禁止が解かれていた。


 二階への階段を登って、突き当たり。そこにはもう、隠し階段が天井から降ろされていて、誰か先客がいると言葉も無く告げていた。

 僕は少し迷ったが、結局その階段を登った。


 少しずつ、目が慣れていない明るさに細められていく。頭が外に出ると、周囲を青と白に包まれた。


 先客は手摺りに背中を預けて、溜め息を吐いた。そして、こちらに気が付き、顔を向けた。先客は、メアリだった。


「あ、ジェイク」


彼女の口許には優しげな笑みが浮かんだが、瞳はどこか哀しみに暮れていた。


「どうしたんだ、浮かない顔で」


「えっ? 私、浮かない顔をしてるの?」


焦っているのか、メアリはそう言って、僅かに顔を紅潮させた。


「ん? 気の所為だったか」


徐々に、メアリは笑顔を曇らせていった。


「うううん、本当は心当たりがあったの。ねえ、ジェイク。聞いてくれる?」


「ああ」


「ティムの事なんだけど。ティムって、何考えてるかわからないところあるでしょう? いつもヘラヘラ笑って。私が怒っても全然応えてないみたいだし」


 確かにティムには、少し謎な部分があるが、僕がそれより思ったのは、メアリのティムへの対応だ。

 どうも、彼女にとってティムは、特別な存在であるような気がしてならなかった。


「メアリはティムに優しいな」


「どっ! どうしてそうなるの? 私、全然優しくないよ。ティムにだって、嫌われてるわ」


「優しくする事だけが優しいとは限らないんじゃないか? 相手の事を思って何かをしたのなら、それは十分優しさだと思う。本当に憎しみを持って相手を罵るのは、叱るってことじゃないぞ、多分」


「そうなの、かな?」


 メアリは、まだ納得のいかないような表情を浮かべて、首を傾げてみせた。


「少なくとも、ティムはメアリを嫌ってはいない。さっきも見たけど、会議室の掃除、やってたぞ」


「渋々?」


僕はそれを否定する事が出来ず、せめてうやむやにしようと、口を開いたが言葉は出なかった。


「やっぱり……ティムってば!」


メアリの中に、また沸々と怒りが湧いてきているらしい。

 すまない、ティム。僕は心の中で謝った。


 その時、館内放送が聞こえてきた。僕は階段を下りて、繰り返される放送に耳を傾けた。


『繰り返すわね。メアリ、食堂に来てくださーい』


僕はそれを受けて、メアリに伝えた。


「メアリ、エミーが呼んでるぞ。食堂に来いって」


「あ、いけない。お昼ご飯の当番だった!」


彼女は体を預けていた手摺りから離れ、両手で背中をパタパタと器用に叩いた。剥げて衣服に付いた白い塗料が、ぱらぱらと落ちた。


 僕はメアリが通れるように、階段を登り切って屋上の隅の方で体を縮めた。


「ジェイク、ありがとう」


そう言い残すと、彼女は急いで階段を駆け下りていった。


 僕は手摺りに両手を着いて、遠くの空と海を見渡した。

 ずっと遠くの空の端には、白い雲が斑に浮かんでいた。この海域は、もうすぐ涼しい季節になろうとしていた。

 不意に、冷たい風が吹き抜けていった。その風に、髪や衣服がなびいたかと思うと、急に僕は孤独を痛いくらい感じた。

 何だか堪らなくなった僕は、屋上を後にした。

読んで頂き、ありがとうございました。またのお越しを、心よりお待ちしております。

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