分かれ目の日
いらっしゃいませ。今日は、3183文字の少し長めのお話です。ぜひ、読んでいってください。
僕は屋上にいた。以前、メアリに教わって行った、あの屋上だ。
立ち入りが制限されている場所だけに、もちろん誰もいない。
ここを訪れたのは、一人になって考えたい事があったからに他ならない。
僕はまず、中央で仰向けになって寝転がった。そうすると、空しか見えなくなる。太陽はまだ高くなく、視界には入ってこなかった。
目を閉じると、様々な光景が去来する。そのほとんどが、ここにやって来てからの記憶だった。
これからこの船を降りる身としては、あまり必要性の無いものばかりだが、一つ一つを愛しんでいる自分がいる事にも気が付いていた。
だが、最後には頭に止めないように、苦労して記憶の片隅に追い遣った。残したままにしてしまうと苦しくなるから。
僕はやっぱり、このままでいる事をどこかで願っているのだろう。
遠くの海鳥の声が、不意に僕の考えを遮った。自然と目が開き、それが本能であるかのように、声の主を探そうとするが、見つからなかった。
僕はまた目を閉じた。
再び去来する記憶達。
流れ込んでくる奔流から逃れようとするも、結局は不毛な行為だった。
あっさりと流れに追いつかれ、僕はそのまま流れに飲み込まれるように、自我を手放した。
次に目を開くと、強烈な眩しさに襲われた。太陽は既に昇っていて、自分が一、二時間くらい眠っていたらしい事に気が付く。
右手で目の上に庇を作り、ゆっくりと起き上がった。
「やっと起きやがったのか」
突然掛けられた声に、僕は驚くと同時に、誰が発したものかすぐに理解した。
「タイス、なんでここにいるのがわかったんだ」
「どうでもいいだろ。エミーが呼んでたぜ」
それだけ伝えると、タイスは船内へ戻っていった。
エミーが呼んでいる理由は、考えるまでもない。答えが迫られているのだ。
僕は、「考え事は捗らなかったな」と言い残すと、屋上を去った。その時は何故か、何でもいいから言葉にしておきたいと思った。
エミーの部屋に行くと、既に彼女はお茶を用意して待っていた。
「来たわね」
「呼ばれたからな」
両者とも、いつもの場所に腰掛けた。
エミーは自分で淹れたお茶に口をつけ、音も立たない程ほんの少し啜ると、カップをソーサーに乗せた。茶器同士の立てる音が、静けさの中に響く。
エミーはその音を合図としたように、言葉を発した。
「それで、決めたの?」
僕はお茶の表面をじっと見ていた。船が揺れる度に傾く水面。
もちろん、エミーの言葉が耳に届かない訳が無い。だから僕は、短く返事をした。
「ああ」
エミーは、厳しい顔をしてもう一度尋ねた。
「本当に、出て行くの?」
僕は顔を上げ、まっすぐ彼女を見据えながら、今度は首を縦に振って応じた。
「何か、私達かこの船に不満があったの?」
「そんなもの、ある訳が無い」
「だったら、どうして?」
「最初から、そういうつもりだったのは、エミーがよく知ってるだろ?」
この船に救助されてすぐの頃、エミーはこんな事を言った。
『この船に残るか、それともそういう施設に行きたいか、っていうこと』。
それに対して僕は、『じゃあ、施設に巡り会うまで、世話になる』と、答えていた。
何も特別な事は無い。ただの約束だったのだ。
「そう……だったわね」
エミーの表情から険しさが消えた。何か諦めたような、悟ったような。そんな顔だった。
「わかった。ジョシュアさんに、正式な手続きをしてもらうわ」
エミーはそう言うと、いつもの柔和な笑みを浮かべた。
その知らせを僕は、自室のベッドの上で、エミーから直接聞いた。頭はまだ半分夢の中で、無理に眠たい目を開きながらだった為、一時は夢の話かと訝ったくらいだ。
別れの日がやって来た。
エミーの言葉が切れると、急速に目覚めがやって来て、眠気ははらはらと剥がれ落ちるように、消えて無くなった。
彼女が退室した後、僕は荷造りをしようと棚を見たが、何も無かった。そういえば、ここに来る時唯一持っていたバングルも、今はどこかの海の底だ。
何だか落ち着かない僕は、ベッドから立ち上がり、部屋を出て行こうとした。
隣のベッドで眠っていると思っていたタイスが、急に言葉を発した。
「行くのか」
初め、僕はそれが寝言の一種かと勘違いしてしまったが、脈絡のある言葉だったので、彼が密かに目覚めていたのだと思うに至り、遅れて返答した。
「ああ。部屋が広くなるだろ」
彼ならそのくらいの事を、いつもの憎まれ口で言ってくるのではないかと予想し、先回りしてそう言ってやった。
しかし、彼の口からは何も出て来ないまま、長いと思えるほどの時間が経過した。
少し言い過ぎたのかもしれないと、僕はこう付け加えてみた。
「寂しくなるか?」
「ば、馬鹿野郎! 元に戻るだけだよ」
「元に戻るだけか……」
確かにその通りだ。彼の部屋が広くなるのは、元の状態に戻る事に他ならない。
僕と同じ部屋に眠るようになってからの時間など、彼が一人この部屋で眠るようになってからの時間と比べれば、ほんの僅かでしかないのだから。
「タイス、お前は変な奴だったが、楽しかったよ。じゃあな」
彼は、またしても黙りだった。変な奴なんて言ったら、確実に噛み付いてくるだろうと想像していたのだが。
僕はドアノブを軽く握り、慎重に戸を開けた。蝶番は落ちなかった。
部屋を出ると、窓に無数の水滴が付いているのが見えた。雨粒が触れる度、雫は徐々に肥大化して、その度自重に耐えきれずに流れていく。
その当たり前の現象は、実は自然の摂理であり、もっと別の何かにも言えるような気がしたが、具体的には何も思い付かなかった。
僕は歩き出し、外へ出た。それから、船長室へ向かった。エミーに会う為に。
ついさっきも会ったが、どうしても今、彼女に聞いておきたい事と、言っておきたい事があったのだ。
ノックをして返事を待つ。返事も無いまま、扉は内側から開いた。
「ジェイク」
「エミー、今時間あるか?」
「ええ」
何度かこの部屋にも来たが、もう、この部屋に入る事は無いだろう。
エミーは奥の椅子に腰掛けたが、僕は立ったまま話を進めた。
「聞きたい事がある」
エミーは立ち上がって歩み寄って来た。そして、「どうしたの?」と、首を傾げた。
「どうして、正規の孤児院に入所しないんだ?」
エミーは一瞬凍り付いたように固まった後、戸惑いを隠すように答えた。
「どうしてって……その必要が無いと思っているからよ。今のままで不満は無いわ」
「必要無い? 不満が無い? 本当にそう思っているのか?」
「一体どうしたの? ジェイク」
「僕はこの前、マリアンとカイが怪我した時に思ったんだ。もし、病気や怪我で、きちんとした処置が必要な場合はどうするんだ? 医療船なんかに行ったら、一発で連合に情報が入る。ここにいるみんなが、その後も一緒に暮らせる可能性は低い。だけど、今のうちなら、まだ可能性はある」
辺りには、重い空気が立ち込めている。そうなる事はもちろんわかっていた。しかし、ここのみんなの本当の幸福の事を思うと、言わざるを得なかった。
僕は最後に、言いたかった事を口にした。
「みんなと来ないか? 僕と同じ施設へ」
エミーは珍しく動揺している様子だった。
僕は彼女の選択を待った。
が、彼女は目を閉じて深呼吸すると、「ちょっと、ごめんなさい」と、僕への返答をする事無く、逃げるように部屋を出ていった。
しかし、これで終わりではない。エミーは僕の言葉を何度も反芻し、頭の中で議論するだろう。僕の狙いはそれなのだ。
今すぐ決める事など出来はしないし、出来たらそれはそれで熟慮が足りないという事で、良い結果は得られないだろう。
ただ、起こり得る最悪のケースを考える事で、今後の役に立てればと、僕は思って言ってやったのだ。
嫌われるなら嫌われてやろうじゃないか。僕と彼らの道はここで別れる。もう、会う事も無いだろう。
そんな風に心の中で一人強がっていたが、やはり慣れない事をした所為で、僕は高鳴る鼓動を抑える事が出来なかった。
読んで頂き、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。




