ハーブの香りと不思議な人
いらっしゃいませ。本日のお話は、2627文字です。前の二作品でも登場したあの人が出ます。ぜひ読んでいってください。
マリアンを発見し、残るカイを探し歩いて、三十分くらいがさらに経過した。
依然として彼は見つからないが、時折道行く人から、少しずつカイの目撃証言を得られるようになった。
カイは一人でいるらしく、歩いていたと思うと、興味のあるものを見つけでもしたのか、発作的に走り出し、立ち止まったりしている姿が見られているようだ。
彼自身には迷子の自覚が無いらしく、心細さに泣いているという話は一切聞かなかった。
いっそ泣いていたりしてくれた方が探し易いのに、なんて不謹慎な思いが、僕の脳裏を何度か過った。
「ここはどの辺りなんだろうねぇ」
不意にティムが呟く。
僕等は立ち止まり、辺りを眺め回した。周辺の店舗は、主に食料品を扱っている。
おそらく、エミーはこの辺りまで買い物に来ていただろう。さすがに、彼女はもう船に戻っている頃かもしれないが。
ティムも同じようにエミーの事を考えていたらしい。
「そう言えば、エミーって一人で大丈夫だったのかなぁ」
「安全面での話か?」
「いやー、そうじゃなくて。僕達、七人で暮らしてるじゃないかぁ。その七人がしばらく飢えずに食べていけるだけの食材を、買い溜めするって言ったんだよぉ?」
僕はティムの『一人で大丈夫』発言を少し勘違いしていたようだ。
「つまり、持ち運びの問題か? 一人で持ち帰るなんていうのは、さすがに無理だろうな。届けてくれるサービスとかあるんじゃないか?」
「うーん、でもお店の人って、一人しかいない事が多いみたいだよぉ」
「だったら、何回かに分けて持って帰っているとか?」
「それなら、一回くらいエミーとすれ違っている筈だよぉ」
確かにそうかもしれない。
僕は黙り、考え込んだ。しかし、すぐにハッとなって気が付いた。
そんな様子に、答えでも出たのかと、ティムは期待を込めた視線をこちらに向けてきたが、残念ながらそうではなかった。
「こんな事考えている場合じゃないぞ。今は、カイを探さないとだからな」
ティムは少し残念そうにしながらも、納得して頷いた。
二人はまた歩き始めた。
食料品の区画も外れに差し掛かった辺りで、肉や魚の匂いに混じって、鼻に心地よくもつんとくる香りがあった。
足を止めずに目を向けると、スパイスや香草を扱っている店から漂っているらしい。
特別興味のある類いの商品ではなかったのだが、何故か気になる匂いがあった。
僕は吸い寄せられるように、ふらふらとそちらへ足を向けていた。
「あれ? ジェイク、急にどうしたんだい?」
視界には入っていないものの、木の板を踏み叩く音と共に、ティムの声だけが背後から聞こえてきた。
「どうしたのぉ?」
ティムは、僕の後に続いて屋台の商品棚の前に立つ。
「ジェイクって、こういうのに興味があるのぉ?」
僕は答えなかった。というよりも、答える余裕が無かったのだ。
僕の意識は半分に分かれて、片方が身体を抜け出そうとしていたのだ。
しかも、その時は、きっかけのようなものがあった。
こういう事は初めてだった。
僕の意識の半分は、とある匂いに誘われた蜜蜂のように、遠いどこかへ飛んでいった。
匂いはとても爽やかで、ほんの僅かな苦みを鼻の奥に残していった。
目の前の椅子には、虚ろな目をした綺麗な女性が座っていた。
微動だにしない彼女は、まるで、人形のようだった。
後ろには、その女性と少しばかり似た感じの、年配の女の人がいた。
ふと、目の前のそれが鏡だと気が付いた。
女性は不意に何かを口走った。
「え、何?」
後ろから声が聞こえた。
年配の女性は声を聞き逃していたらしいが、僕にははっきりと聞こえていた。
彼女は確かに、「誰?」と呟いたのだった。
だがしかし、どこに向けての「誰」だったのか、僕にはわからなかった。
「うううん、何でもない」
女性は、後ろにいて髪型を整えている年配の女の人へ答えていた。
「そう。アニー、心ここに在らずって感じだけど、どうかしたの?」
僕の視線の先にいる女性は、アニーというらしい。
「大丈夫よ、イネスおばさん。ちょっと、お客さんが来たみたい」
イネスは扉を見て、答えた。
「誰か来た? 気付かなかったけど」
「あっ、うううん、そっちじゃ……ないんだけど」
アニーの声は徐々に小さくなった。
すると、イネスは深い深い溜め息を吐いて、言った。
「またそっち関係なのね……」
「ごめんなさい。少し、一人にしてくれないかしら」
イネスは少し惑いながらも、小さく頷いてから、言った。
「三分で終わらせてくれる? もうすぐ、インスト終わっちゃうからね」
「本当にごめん、おばさん」
イネスはアニーの両肩を同時にパンっと叩き、部屋を出て行った。
僕は何も理解できないまま、その時まで状況を見守っていた。
「さ」
アニーは自身以外人のいない空間で、誰へともなく何かを促した。
沈黙が訪れた。
「もしもしー。私の体の中に入っている誰かさん? あなたは一体誰なのかなー?」
僕は目の前に雷が落ちた位の衝撃を受け、存在しない筈の腰を、危うく抜かすところだった。
「あ、驚いてるー? 大丈夫、大丈夫。怪しい者じゃないから」
僕は俄に信じられない思いのまま、試しに自分の名前を口に出して言った。
「ジェイク」
「なるほど、ジェイク君か」
聞こえた。こちらの声が届いたのだ。
「ジェイク、私に何か用があるんじゃないの?」
「アニーさん」
「さん付け不要」
「……アニー。僕は、この変な能力をコントロールできていない。だから、別にあなたに用があった訳じゃないんだ。多分、偶然なんだ……と思う」
「うーーーん。そうなのか。でも、何かわからないけど、君からは逼迫した雰囲気が伺えるね」
「今、ここにあるのとは別の、もう半分の意識で人探しをしている」
「ほうほう。どんな人? 彼女?」
「違う。その……か、か、いや……訳あって厄介になっているファミリーの子だ」
「特徴は?」
「探してくれるのか?」
「それは無理。今はコンサート中だからね。だけど、見掛けた人がお客さんの中にいるかもよー?」
「本当か?」
「保証は出来ないけど、聞いてみるよ」
「その、ありがとう。名前はカイ、ブロンド髪の五歳の男の子だ。一人で移動しているみたいだ」
「オッケー。おっと、そろそろ三分かな?」
扉が開かれ、厳しい顔をしたイネスが入ってきた。
「アニー、もう時間切れよ」
「あ、おばさん。丁度今終わったところ」
徐々に意識がアニーから抜けていくのがわかった。
「さあ、早く出なさい」
それがアニーの口から発せられたのか、それともイネスが言ったのか、離れゆく意識の中にあった僕には、判然としなかった。
読了ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております。