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暮れて惑うは幽霊船  作者: 柚田縁
第二章
13/51

宵の虚空に響く声

いらっしゃいませ。今回のお話は、3917文字です。ぜひ、読んでいってください。

 ふと気が付くと、目の前には心配そうにしたメアリの顔があった。凄く近い。


「あ……えっと」


僕はそう言って、周囲を見回した。海の水に浸かった状況は、何一つ変わっていない。

 ただ、僕の体はメアリに支えられる状態で、何とか浮かんでいた。


「あ、気が付いた? もう、さっきから目は虚ろで、何話し掛けても上の空だし、お仕舞いにはロープから手を離して溺れそうになっちゃうし……心配したんだから!」


「ああ、ごめん」


僕はメアリの前に回り込んで、強くロープを握った。そして、切迫感を込めて訴えた。


「これからロープを手繰り寄せて、もっと船に近づこう」


「え? まだ、夕食の時間じゃないけど」


「いいから!」


強い口調に気圧され、メアリはそれ以上何も言わず、僕の言葉に従った。

 ロープはピンと張られ、両腕に力を込める度に船が大きくなっていく。後ろからメアリも着いてくるのがわかる。


 僕達が数分掛けて船尾の当たりに着いた時、ロープから張りが失われ、力を入れなくてもロープの方からするすると引っ張られてやって来た。

 信じられないことだった。二人をここまで支え続けていた、唯一のロープが、舷との摩擦で切れたのだ。


「なっ!」


「ええ!」


 僕達は呆然とした。

 幸い船は漂っているだけで、どこかへ進んでいる訳ではない。だが、波の加減によっては、船と僕等が違う方へ流される可能性だって大いにある。


 船の方に必死で泳ごうとしても、長い間冷たい海水に浸っていた為、体力がかなり奪われていた。

 少しずつ離れていくように見え始めた船を見ながら、絶望した。

 もう、ただ浮かんでいる事しかできない。


 震えるような言葉にならない声が、背後から聞こえた。振り返ると、メアリは目を赤くして瞳を拭っていた。張りつめていた糸が、今、切れたのだ。

 何か打つ手は無いかと考えを巡らせるが、もう何の方法も思い付かなかった。

 僕自身も、目頭が熱くなってくるのを感じ始めていた。

 左手で頭を支えながら涙を堪えていると、目の前で冷たく光る、銀色のバングルに気が付いた。


「そうだ! まだ出来る事がある!」


僕は叫び出し、まだ虚ろに持っていたロープを手繰り寄せた。力など殆ど必要なく、簡単にロープの先端が現れた。

 僕はそのロープに、左腕から外したバングルを括り付けた。


「メアリ」


「ふぇ?」


情けない声が返って来た。


「僕の体を少しの間支えていてくれ」


「な……何をするの?」


集中を乱さないために僕が無言でいると、彼女は僕の胴体に両腕を回し、支えてくれた。

 僕はロープを適当な長さに握り、バングルを錘りにして、頭上で回し始めた。回転の勢いが増す度に、ロープを少しずつ長くしていく。

 そして、ある程度の長さになった頃、投げ縄の要領で、それを思い切り船の壁面目掛けて、投げた。

 キンッ。そんな鋭い音がした。

 しかし、一度では何の効果もないと僕は考えていた。船内の人にとって、その音は偶然何かがぶつかった音と考える方が自然だからだ。


 もう一発。もう一発を当てる事が重要なのだ。

 僕は急いでロープを手繰り寄せ、バングルを手に取った。


「メアリ!」


「わかってる!」


その声には、いつもの気丈さが宿っていた。

 もう一度同じ事を繰り返す。

 さっきよりも多めに回し、バングルを船に向けて飛ばす。

 鋭い音は響かなかった。

 届かなかったのだ。

 頭上で勢いを付けるために回転させる時間が長ければ、それだけ船も遠くなる事を忘れていた。


 もう一度……。

 僕はロープを手繰り寄せた。けれども、そこにバングルは付いていなかった。ロープには、一旦結ばれた事を示すように、痕が残っていた。

 今度こそ、もう何も出来る事は無かった。



 しばらく経った。

 僕達は、再び力無く海面を漂っていた。

 日は沈みかけ、彼らの見上げる空は紫色に染まり、粛々と夜が訪れようとしていた。

 船はもう遠くに浮かんでいて、黒いそのシルエットは、徐々に小さくなっていった。



 僕は後悔していた。最初に落ちたあの場所に留まっていれば、こんな所を漂流する事などなかったのだ、と。

 特にメアリには済まない事をしたと、そう思う。


「メアリ、ごめん。僕の判断ミスだった」


「何を……言ってるの?」


「落ちた場所から外へ出る提案をしたのは僕だ。あのままあそこにいたら、助けが来た筈だ」


「その事なら、わたしも賛成したじゃない。だから……その、ジェイクの所為だけって思ってないよ。それに、助けなんて来なかったかもしれない」


 いや、来たのだ。

 それを言葉にはしなかったが。

 僕が黙っていると、メアリは言葉を続けた。


「それに、私。ちょっと閉所恐怖症の気があって。あの場所に今までいたとしたら、とっくにどうにかなってた」


 僕はその言葉を信じていいのだろうか。ただ、彼女の良心がそう言わせているだけの、優しい嘘なのではないだろうか。

 そんな疑いを持ってしまう自分の愚かさに、僕は口元だけで笑っているのを感じていた。

 声には何も出ていないし、誰からも見えない。なのに、メアリには何故か伝わってしまったらしい。


「どうして笑ってるの?」


「いや……。ぅん?」


僕はこんな時に、今とはなってはどうでもいい事に気が付いた。


「メアリ。敬語が無くなったな」


「あ、そう言えば……って、少し前に気が付いてたけどね。名前を呼び捨てにしようとした時。元に戻した方がいい?」


「このままがいいな」


メアリはそれに直接応える事無く、全く別の話をする事で、了解の意思を伝えた。


「さっきの昔話の続き、聞きたい? って聞きたくないって言っても、勝手に話すけどね」


自棄になったみたいに、小さな笑い声を伴って、彼女は話を始めた。


「私が誰かに連れられて、あの船に乗った時、既にいたのはタイスとティム……だから、エミーも合わせて三人だった。男の二人はあんなだから、家事はエミー一人でやっていたみたい」


メアリはそこまで言うと、急に咳き込んだ。海水が喉に入ったのかもしれない。

 咳が収まると、彼女は続けた。


「私は役立たずで、何もしないどころか、迷惑ばかり掛けてたんだと思う。何せ、ご飯だって自分から食べようとはしなかったんだから。

 ただもう、一日中ぼんやりとして過ごしていたの。そんな私に、エミーは根気強く接してくれてた。応えない私に話し掛けてくれたり、後ろからギュッて抱きしめてくれたり。

 その頃の事はあんまり覚えてないんだけど、エミーがしてくれた事はよく覚えてる。多分、その時の私に一番必要な事だったからだと思うな。

 私は少しずつだけど、様々な事に反応しようと努力した。でも、最初はうまくいかなくて……。でも、言葉だなんて到底言えないような声をちょっと口にしただけで、エミーはとても喜んでくれたんだ。そして、頭をなでてくれたり、抱き付いてきたりして。スキンシップって言うのかな? とにかく、私はそれで自分を取り戻す事が出来たんだ」


 メアリの『自分を取り戻す』という言葉が、乾いたモップに染み込んでくる水のように、僕の中にじわじわと入ってくる。

 自分を不幸だと思っていたけど、こういう話を聞くと、僕なんかはまだ幸せだ。


「多分スタルト艇に来て一ヶ月くらいしてからだと思う、急にエミーからその日の昼食をまかされたの。もう何を作ったのか覚えていないんだけど、皆があんまり料理を褒めてくれるから、その時からエミーと私が当番制で食事の用意をするようになった。

 だけど、それは私にとって大きなプレッシャーだったわ。自分が作らなければ、皆が食事をとる事ができない。強迫観念だった。

 ある時、私は料理を失敗してしまった。うっかり焦がしてしまったのよ。

 真っ黒になったおかずに目を奪われるみんなの前で、私は泣きながら謝ったわ。そして、エミーが私の涙をハンカチで拭いながら、言った」


「真剣に謝っている人を許せないような、器の小さい人、この船にはいない……?」


僕はメアリに先んじて、自分が言われた言葉を言った。


「凄い凄い、正解。一字一句同じじゃなかったかもしれないけど。

 まあその後、作り直したんだけどね。そんな事があってから、一つ一つ出来る事を増やしていった。そして、今があるの」


 辺りはもう、まっ暗で何も見えない状態だった。それでも、空の半分はまだ青と紫で彩られていた。

 不意に、メアリが口を開いた。


「不思議。あの船に来てすぐの頃は、何かをしようなんて気、少しも起きなかった。

 だけど、誰かが見ていてくれるって思うと、やらなくちゃって思うし、色々やっていると、考え込む事も少なくなっていった。

 気が付くと、もう家族の一員っていうまで溶け込んでいた。多分、家族って、なるものじゃないんだね。なってるものなんだよ。

 今のみんなも、そうやって、今の状態を作り上げたんじゃないかな」


 本当に不思議なものだった。決して楽観できるような状態ではないにも関わらず、どういう訳か和やかな空気感が生まれていた。

 諦めなんかではない。それだけは確かな事だった。


 僕を縛り付けていた緊張感も、今はどこへか去ってしまい、自然な風に言葉を紡ぐ事が出来た。


「それじゃあ、今まで作り上げてきたものを壊す訳にはいかないな」


「それ、どういうこと?」


僕は直接メアリに言葉を返すのではなく、ありったけの力をお腹の筋肉に集わせて、大きく息を吸い込んでから勢い良く声と共に吐き出した。


「ティムーっ! ここだーっっっ!」


潮風を一日中吸い込んでいた所為で、喉は鬱血しているみたいにヒリヒリと疼き、声もガラガラに嗄れていた。


「ど、どうしてティムなの?」


「いいから、メアリも!」


僕は再び叫んだ。


「まだ生きてるぞーっっ!」


 メアリの息を吸い込む音が聞こえた。


「ティムーっっ! 助けてーっっっっ!」


 虚空を響く二人の叫び声。

 それから少し経って、遠い船の船尾に赤い光が灯ったのを、二人は見た。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております。

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