宵の虚空に響く声
いらっしゃいませ。今回のお話は、3917文字です。ぜひ、読んでいってください。
ふと気が付くと、目の前には心配そうにしたメアリの顔があった。凄く近い。
「あ……えっと」
僕はそう言って、周囲を見回した。海の水に浸かった状況は、何一つ変わっていない。
ただ、僕の体はメアリに支えられる状態で、何とか浮かんでいた。
「あ、気が付いた? もう、さっきから目は虚ろで、何話し掛けても上の空だし、お仕舞いにはロープから手を離して溺れそうになっちゃうし……心配したんだから!」
「ああ、ごめん」
僕はメアリの前に回り込んで、強くロープを握った。そして、切迫感を込めて訴えた。
「これからロープを手繰り寄せて、もっと船に近づこう」
「え? まだ、夕食の時間じゃないけど」
「いいから!」
強い口調に気圧され、メアリはそれ以上何も言わず、僕の言葉に従った。
ロープはピンと張られ、両腕に力を込める度に船が大きくなっていく。後ろからメアリも着いてくるのがわかる。
僕達が数分掛けて船尾の当たりに着いた時、ロープから張りが失われ、力を入れなくてもロープの方からするすると引っ張られてやって来た。
信じられないことだった。二人をここまで支え続けていた、唯一のロープが、舷との摩擦で切れたのだ。
「なっ!」
「ええ!」
僕達は呆然とした。
幸い船は漂っているだけで、どこかへ進んでいる訳ではない。だが、波の加減によっては、船と僕等が違う方へ流される可能性だって大いにある。
船の方に必死で泳ごうとしても、長い間冷たい海水に浸っていた為、体力がかなり奪われていた。
少しずつ離れていくように見え始めた船を見ながら、絶望した。
もう、ただ浮かんでいる事しかできない。
震えるような言葉にならない声が、背後から聞こえた。振り返ると、メアリは目を赤くして瞳を拭っていた。張りつめていた糸が、今、切れたのだ。
何か打つ手は無いかと考えを巡らせるが、もう何の方法も思い付かなかった。
僕自身も、目頭が熱くなってくるのを感じ始めていた。
左手で頭を支えながら涙を堪えていると、目の前で冷たく光る、銀色のバングルに気が付いた。
「そうだ! まだ出来る事がある!」
僕は叫び出し、まだ虚ろに持っていたロープを手繰り寄せた。力など殆ど必要なく、簡単にロープの先端が現れた。
僕はそのロープに、左腕から外したバングルを括り付けた。
「メアリ」
「ふぇ?」
情けない声が返って来た。
「僕の体を少しの間支えていてくれ」
「な……何をするの?」
集中を乱さないために僕が無言でいると、彼女は僕の胴体に両腕を回し、支えてくれた。
僕はロープを適当な長さに握り、バングルを錘りにして、頭上で回し始めた。回転の勢いが増す度に、ロープを少しずつ長くしていく。
そして、ある程度の長さになった頃、投げ縄の要領で、それを思い切り船の壁面目掛けて、投げた。
キンッ。そんな鋭い音がした。
しかし、一度では何の効果もないと僕は考えていた。船内の人にとって、その音は偶然何かがぶつかった音と考える方が自然だからだ。
もう一発。もう一発を当てる事が重要なのだ。
僕は急いでロープを手繰り寄せ、バングルを手に取った。
「メアリ!」
「わかってる!」
その声には、いつもの気丈さが宿っていた。
もう一度同じ事を繰り返す。
さっきよりも多めに回し、バングルを船に向けて飛ばす。
鋭い音は響かなかった。
届かなかったのだ。
頭上で勢いを付けるために回転させる時間が長ければ、それだけ船も遠くなる事を忘れていた。
もう一度……。
僕はロープを手繰り寄せた。けれども、そこにバングルは付いていなかった。ロープには、一旦結ばれた事を示すように、痕が残っていた。
今度こそ、もう何も出来る事は無かった。
しばらく経った。
僕達は、再び力無く海面を漂っていた。
日は沈みかけ、彼らの見上げる空は紫色に染まり、粛々と夜が訪れようとしていた。
船はもう遠くに浮かんでいて、黒いそのシルエットは、徐々に小さくなっていった。
僕は後悔していた。最初に落ちたあの場所に留まっていれば、こんな所を漂流する事などなかったのだ、と。
特にメアリには済まない事をしたと、そう思う。
「メアリ、ごめん。僕の判断ミスだった」
「何を……言ってるの?」
「落ちた場所から外へ出る提案をしたのは僕だ。あのままあそこにいたら、助けが来た筈だ」
「その事なら、わたしも賛成したじゃない。だから……その、ジェイクの所為だけって思ってないよ。それに、助けなんて来なかったかもしれない」
いや、来たのだ。
それを言葉にはしなかったが。
僕が黙っていると、メアリは言葉を続けた。
「それに、私。ちょっと閉所恐怖症の気があって。あの場所に今までいたとしたら、とっくにどうにかなってた」
僕はその言葉を信じていいのだろうか。ただ、彼女の良心がそう言わせているだけの、優しい嘘なのではないだろうか。
そんな疑いを持ってしまう自分の愚かさに、僕は口元だけで笑っているのを感じていた。
声には何も出ていないし、誰からも見えない。なのに、メアリには何故か伝わってしまったらしい。
「どうして笑ってるの?」
「いや……。ぅん?」
僕はこんな時に、今とはなってはどうでもいい事に気が付いた。
「メアリ。敬語が無くなったな」
「あ、そう言えば……って、少し前に気が付いてたけどね。名前を呼び捨てにしようとした時。元に戻した方がいい?」
「このままがいいな」
メアリはそれに直接応える事無く、全く別の話をする事で、了解の意思を伝えた。
「さっきの昔話の続き、聞きたい? って聞きたくないって言っても、勝手に話すけどね」
自棄になったみたいに、小さな笑い声を伴って、彼女は話を始めた。
「私が誰かに連れられて、あの船に乗った時、既にいたのはタイスとティム……だから、エミーも合わせて三人だった。男の二人はあんなだから、家事はエミー一人でやっていたみたい」
メアリはそこまで言うと、急に咳き込んだ。海水が喉に入ったのかもしれない。
咳が収まると、彼女は続けた。
「私は役立たずで、何もしないどころか、迷惑ばかり掛けてたんだと思う。何せ、ご飯だって自分から食べようとはしなかったんだから。
ただもう、一日中ぼんやりとして過ごしていたの。そんな私に、エミーは根気強く接してくれてた。応えない私に話し掛けてくれたり、後ろからギュッて抱きしめてくれたり。
その頃の事はあんまり覚えてないんだけど、エミーがしてくれた事はよく覚えてる。多分、その時の私に一番必要な事だったからだと思うな。
私は少しずつだけど、様々な事に反応しようと努力した。でも、最初はうまくいかなくて……。でも、言葉だなんて到底言えないような声をちょっと口にしただけで、エミーはとても喜んでくれたんだ。そして、頭をなでてくれたり、抱き付いてきたりして。スキンシップって言うのかな? とにかく、私はそれで自分を取り戻す事が出来たんだ」
メアリの『自分を取り戻す』という言葉が、乾いたモップに染み込んでくる水のように、僕の中にじわじわと入ってくる。
自分を不幸だと思っていたけど、こういう話を聞くと、僕なんかはまだ幸せだ。
「多分スタルト艇に来て一ヶ月くらいしてからだと思う、急にエミーからその日の昼食をまかされたの。もう何を作ったのか覚えていないんだけど、皆があんまり料理を褒めてくれるから、その時からエミーと私が当番制で食事の用意をするようになった。
だけど、それは私にとって大きなプレッシャーだったわ。自分が作らなければ、皆が食事をとる事ができない。強迫観念だった。
ある時、私は料理を失敗してしまった。うっかり焦がしてしまったのよ。
真っ黒になったおかずに目を奪われるみんなの前で、私は泣きながら謝ったわ。そして、エミーが私の涙をハンカチで拭いながら、言った」
「真剣に謝っている人を許せないような、器の小さい人、この船にはいない……?」
僕はメアリに先んじて、自分が言われた言葉を言った。
「凄い凄い、正解。一字一句同じじゃなかったかもしれないけど。
まあその後、作り直したんだけどね。そんな事があってから、一つ一つ出来る事を増やしていった。そして、今があるの」
辺りはもう、まっ暗で何も見えない状態だった。それでも、空の半分はまだ青と紫で彩られていた。
不意に、メアリが口を開いた。
「不思議。あの船に来てすぐの頃は、何かをしようなんて気、少しも起きなかった。
だけど、誰かが見ていてくれるって思うと、やらなくちゃって思うし、色々やっていると、考え込む事も少なくなっていった。
気が付くと、もう家族の一員っていうまで溶け込んでいた。多分、家族って、なるものじゃないんだね。なってるものなんだよ。
今のみんなも、そうやって、今の状態を作り上げたんじゃないかな」
本当に不思議なものだった。決して楽観できるような状態ではないにも関わらず、どういう訳か和やかな空気感が生まれていた。
諦めなんかではない。それだけは確かな事だった。
僕を縛り付けていた緊張感も、今はどこへか去ってしまい、自然な風に言葉を紡ぐ事が出来た。
「それじゃあ、今まで作り上げてきたものを壊す訳にはいかないな」
「それ、どういうこと?」
僕は直接メアリに言葉を返すのではなく、ありったけの力をお腹の筋肉に集わせて、大きく息を吸い込んでから勢い良く声と共に吐き出した。
「ティムーっ! ここだーっっっ!」
潮風を一日中吸い込んでいた所為で、喉は鬱血しているみたいにヒリヒリと疼き、声もガラガラに嗄れていた。
「ど、どうしてティムなの?」
「いいから、メアリも!」
僕は再び叫んだ。
「まだ生きてるぞーっっ!」
メアリの息を吸い込む音が聞こえた。
「ティムーっっ! 助けてーっっっっ!」
虚空を響く二人の叫び声。
それから少し経って、遠い船の船尾に赤い光が灯ったのを、二人は見た。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております。