メアリの過去
いらっしゃいませ。今日のお話は、3724文字です。普段より少し長くなりましたが、ぜひ、読んでいってください。
「私」
お互いもう話す事も無いくらい、無理矢理会話を続けて小一時間、メアリは突然そんな風に話を切り出した。
交互に話をするというルールも、とうに崩壊してしまっており、彼女の話が連続する事となったが、僕はそれを無条件に受け入れた。
相変わらず、僕等はスタルト艇から伸びたロープを、その手に握りしめたままだ。メアリが前、僕が後ろという構図にも変化は無い。
メアリはこちらを向く事無く、話を続けた。
「ホントは不幸を競い合ってるみたいで、こんな話をしたくはないんですけど」
その言葉の続きが、僕には何となくわかったけれど、黙って彼女の言葉を聞き続ける事を選んだ。
「この船に来る前の事、話しますね」
顔は見えないが、その声に決意が満ちていた事だけは、その時わかった。
「私、母子家庭で育ったんです。お父さんは私が生まれてすぐ、事故で亡くなったんだそうです」
僕に彼女の過去を聞くような資格があるのか、不安だった。
正式で無いにしても、この船は孤児院のようなもので、孤児になるきっかけなんてものは、並大抵の出来事ではない筈だ。
それは、彼女の話の冒頭にも伺える。
『不幸を競い合ってるみたい』というこの言葉だ。
「お母さんは、お父さんが病気で亡くなるまで、専業主婦だったらしいんですけど、趣味でずっとやっていた洋裁を仕事にして、私を育ててくれました。
私の物心が付く頃には、服飾デザイナーとして、机に向かっては服のデザインを考えたり、型を作ったり、ミシンで試作品を作ったりしていました」
彼女は、そこで一息を吐いた。話の中途休みなのか、それとも溜め息だったのか。それは、波の音に負けないくらいの音として、僕の耳に届いた。
話の腰を折る事にならないかと、僕は相槌すら喉の奥でつっかえてしまっていた。
そうやって僕が迷っているうちに、彼女は話の続きをし始めた。
「私はそんなお母さんの役に立ちたい思いで、家事の一部を手伝うようになりました。お掃除、お洗濯、お料理。出来る事が増えていく度、お母さんは私を褒めてくれました。私もそれが嬉しくて、もっと色々な事が出来るようになりたくて……毎日が楽しかったように覚えています」
「それで……料理も掃除も得意なんだな」
何とか絞り出すように、僕は彼女の話に間の手を入れた。
「ええ、まあ。でも、私にはそんな事しか出来なかったんです。一方でお母さんは、お仕事の方が順調で、段々忙しくなって、あまり私に構ってくれなくなった……。
確かにその事自体は寂しかったんですけど、お母さんは私のために忙しく働いている。そう思うと、寂しいなんて言えなかった。それに、時々ですけど、お母さんは家事をしている私を仕事部屋に呼んで、デザインして作った試作品を私に着せてくれたんです。
いろんな服を着れる事が嬉しかったけど、それよりも、お母さんの役に立てている事の方が嬉しかったんですよ。だから、私はお母さんが大好きでした」
メアリは笑っているようだった。それは、声に彼女の感情が乗っかって、弾んでいるように聞こえたから、多分間違いは無い。
「そうだ」
メアリは突然、自分でも驚いたような口調で、言った。
「こんな事がありました」
その時、メアリは初めてこちらに向いた。その顔は心底に嬉しそうだった。
「私にとって最高の思い出です。ジェイクさん、クリストファー・ファミリーって知ってますか?」
「え? ああ、聞いたことあるな。アーヴィング・ファミリーと人気を二分する、歌伝師集団だったな。実際にこの目で見た事は無いけど、知ってる」
「私、お母さんと、そのクリストファー・ファミリーのコンサートに行った事があるんです。お母さんが、コンサートの衣装をデザインしたっていう関係で。まあ、仕事ってことになるんですけど。でも、コンサートはすっごく良かったですし、その後に楽屋まで呼んでもらったんです」
そう話しながら、メアリは目を細めて遠くを見つめている。おそらく、その日の事を鮮明に覚えていて、今、追体験しているのだろう。
「歌い手のミレーヌさん、美人だったなぁ。それに凄く優しくて……」
そう言って微笑みを浮かべるメアリだったが、やがて、大輪の花が見る間に萎んでいくように、表情が暗くなっていった。
丁度、辺りが暗くなって来たのを、僕はただの心象だと思っていたが、実際に太陽は雲に隠れて、空は幾分暗くなっていた。
「二年前」
その声にハッとして、空からメアリに目を移すと、彼女は沈痛な面持ちで下方、すなわち揺らめく海面をじっと見つめていた。
「私が八歳の時、お母さんは亡くなりました」
感情の欠片も乗っていなければ、抑揚も無いような、無機質な声色でメアリは淡々と語った。
「お母さんが死んでしまった理由、死因は今になってもはっきりとはわからないんです。だけど、亡くなる何日か前に、頭が痛いって言って頭痛薬を飲んでました。夜もあまり眠れないみたいで。過労だったんじゃないかって、今では思っています」
言葉を促すように、相槌を打ったりするのは適当ではない。そう考えた僕は、この時も黙ったまま待ち続けた。
「どうやって死んでしまったのか、そんな事はどうでもいいんです。私がその日から一人になった。それが大事なんです。生まれて此の方、私は一人になった事は無かったって、その時気が付きました。よく言いますよね? 無くしてから気付く事があるって」
メアリは話の内容とは裏腹に、泣き出しそうな様子一つ、見せる事は無かった。
「私はそれから、亡骸の傍らで泣いて過ごしました。泣き疲れたら、その場でそのまま眠り、お腹が空いても何も食べない。
そうしている間にも、大好きだったお母さんは、日に日に目に見えて腐っていくんです。形が変わっていくんです。耐えられなかった。どうして、人は命を失った瞬間から、ああも変わっていってしまうんでしょうか」
僕はメアリの話が、彼女の母の死に関する事であると、予感していた。しかしながら、その予感ですら凌駕する程の凄惨な話に、僕は完全に言葉を失っていた。
これは、先ほど敢えて相槌を避けていたのとは訳が違う。本当の意味で、頭の中に如何なる語も浮かばなかったのだ。
もし、口を開いて何か声を出そうとしたなら、どうなっていただろうか。
その時、急に空から大粒の雨が降り始めた。
メアリは構わず次の言葉を発した。
「三日くらい経って、私は誰かに連れられて、スタルト艇に来たんです」
雨は瞬く間に強くなり、スコールとなった。
メアリは突然、大声で叫んだ。
「ああ!」
僕は何事かと、周囲を見回した。
「せっかく拭いた廊下が、また水浸しに!」
僕は別の意味で言葉を失ってしまった。さっきまであんな話をしていながら、急にある種どうでもいい事を言ったりする。そんな彼女の移り気なところに、半分呆れてしまったからだ。
しかし、話の腰を彼女自らでへし折ったことによって、メアリがエミーと出会ってからの出来事を聞く機会は、もうずっと失われてしまったかもしれない。
もう、メアリの表情はいつものようにくるくる変わり初め、子供っぽい部分が表れ出した。
さらに彼女は、もう終わった事だと言わんばかりに、話を劇的に変えた。
「それにしても、こんなに雨が強かったら、甲板に出てくる人も出て来ないんじゃないですか?」
メアリは僕に背を向けて、船の方に向くと、そう言って右手を目の上に翳し、即席の雨よけを作った。
「確かにそれはあるかもしれないけど、スコールだったらすぐにやむんじゃないか」
実際、僕の言葉は正しかった。雨を降らせる黒い雲が風で流れていくと、その周辺はまたしても強い日差しに包まれた。
雨雲が流れていった船の方は風下で、そこが同じ時間帯の場所だとは信じられない程暗く、ぼんやりと霞んでいて、雨が今も尚降っているとわかる。
太陽の位置が時間の経過と共に低くなってくると、さすがに睡魔がやって来た。だけど、眠るのだけは危険過ぎた。
まず、溺れる可能性が出てくるし、今こうして待ち望んでいる瞬間も逃してしまうかもしれないのだ。
メアリも再びこっくりこっくりと船を漕ぎ出していた。
「しっかり! 眠っちゃだめだ!」
そう言いながらメアリを揺すって起こそうとするが、もう先ほどのように勢い良く目を覚ましたりはしない。
「らいじょうぶですー。おきてますよー」
と、目を閉じながら言っている。もはや寝言と言ってもいいだろう。
長い間海水に浸かり、尚かつ強い雨にも打たれたのだから、体力を消耗したのだろう、無理も無い。
この時、僕に何が出来ただろうか。
僕自身、もう眠たいのだ。座布団を折り曲げて枕にして畳に寝っ転がったとしたら、三秒で眠れる気がする。
「あ〜〜〜」
声を出せば少しは意識を保てるだろうかと考えたのだが、結果は焼け石に水程度のものだった。
次第に目の前が歪みだした。これはいつものアレか。よりによってこんな時に。
何となくではあるが、僕にはそれが単なる眠気でないと、経験的にわかった。
徐々に朦朧としてくる意識。
このままだと顔面が水没する危険性があるのはわかっているが、抗う事は出来なかった。
もし出来るのであれば、スタルト艇にはいない筈だ。
やがて、もう一人の自分が立ち上がってくるような感覚が訪れ、僕の意識は二つに分裂した。
読んでいただき、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。