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家出ロマンティック

作者: アジタン

家を飛び出したとき、私は無意識にその電話番号を思い出していた。とにかく今回ばかりは一日では戻りたくなかった。虫が飛び交う街灯の下でその番号を押すと、自分の鼓動が祭りを待つ子供のように騒ぎ出した。

 

 親にとって子供の夏休みというのは甚だ迷惑らしい。というのは私がことあるごとに精神攻撃を受けているからだ。夏休みに入ってからというもの、母の小言は日に日にけたたましさを増していく。

 「あんたさぁ、何かやることないの?」

 そうして勝手に部屋に入ってくる。不機嫌そうに私を一瞥して「手伝いでもしなさいよ」とお決まりのセリフを言う。

 私は聞こえないふりをして寝返りを打つ。わかってない、わかってないよお母さん。寝て食って寝る。これが人間のあるべき姿なのだよ。高校というもはや義務教育と何も変わらない環境の中、荒波のように襲い掛かってくるストレスを味わっているか弱き少女には労働させてはならない。夏休みくらいは思いっきり自由を感じさせるのが親の役目というものだよ。

 お母さんはそんな私の心を無視して、残酷にもガンガンにかけていたクーラーの電源を消した。殺す気か。さっきから鳴いている蝉の鳴き声がさらに大きくなった。繁殖期か。何で夏に蝉が鳴くんだろう。冬に鳴いてくれればあんな寒さを実感しなくていいかもしれないのに。

 「ほら」とお母さんは私の頬をぺちぺち叩いた。もう睡眠時間は終わりか。私はいかにもたった今起きたふりをして体を起こした。

 「……頭痛い」

 もちろん嘘である。ものすごくだるいだけ。

 「とっとと朝ごはん食べてきなさい。その後掃除でもやりなさいよ」

 非情である。スルーはないでしょ、慈悲の心なしか。

 最近の朝はこのようにして始まる。夏休みなんだから夏の間は寝かせてくれてもいいのに。夏眠、的な。起きていてもやることなんてないんだし。

 お母さんの背中を見送ってから私はようやくベッドから離れた。床に散らばる漫画のせいで一瞬、転びそうになった。ちゃんと本棚あるんだから片付けろよ、私。いや、そんなめんどうなことを私ができるわけない。諦めろ、私。

 スカスカの本棚には真っ白な原稿用紙が寂しそうに横たわっている。いつの間にかほこりがかぶっていた。いつ頃買ったんだっけ。封だけは切られたそれを一枚も使っていなかったことをこの時になって思い出した。

 時計を見ると十一時を過ぎていた。……まだ眠れたのに。

 

 夕方の六時になると姉が帰ってきた。姉は高校三年生で今年受験を控えているため、塾の夏期講習に通っている。ご苦労なことです。

 私はというとソファーでごろごろ快適ライフを過ごしていた。だが姉が帰ってくるとなるとそうはいかない。

 「ただいまー、ってニートがいる。どちら様?」

 ニートであんたの妹だよ。でも高身長で栗色に光る長い髪は私とは大違いだ。私は身長も低く髪はどこにでもいるような黒でショートカット。私に向けられている姉の蔑むような目も私にはできない。うわ、蛇に見つかったカエルの気分。

 「佳奈(かな)からも言ってやって。この子、夏休み入ってから何にもしてないのよ」

 天敵二人。お母さんにまで来られたら蛇どころじゃない、災害だよ。避けようがないよ。

 「いいんじゃない、どうせやりたいこともないんでしょ」

 「それにしたって手伝いもしないのよ。ずっと寝てばっか」

 失礼な。テレビ見たり、漫画読んだり、ご飯食べたりしてるよ。

 「どこか遊びに行ったりしないの?」

 お母さんの何気ない一言に私はとっさに答えられなかった。敏感にそれを察した姉は言ってはならないことを言った。

 「友達いないんじゃないの?」

 ……言っちゃいけないでしょぉ、それは。

 え、とお母さんが言葉を詰まらせた。あぁ、これはまた面倒なことになる……。

 「あんた、友達いないの?」

 「いやいや、ちゃんといるから心配しないでよ」

 「本当?」

 本気で心配している……。その目が一番こたえるのだ。

 「だって夏休み入ってからもう半月は経ってるのよ。それなのに誰とも遊んでいないなんて……」

 「外に出るのが面倒なだけだって」

 「……本当のこと言って。悩みがあるんでしょう?」

 断定しちゃってるよ。何これ、もう逃げられないの? 

 姉は遠巻きに私の様子を見て笑っている。味方がいなすぎる。それに弁解しておくと友達はいますよ。クラスで誰かとしゃべったりはしていますよ。休日には会わないけど。でも言っている通り外に出て遊ぼうとするとお金がかかるし、なにより疲れるでしょ。――と言ったところでわかってもらえないんだろうなぁ。

 「ねぇ、()()

 あ、名前で呼ばれた。これは長くなるなぁ……。

 この後私は三つの約束事を交わされた。一、友達をつくること いるって言っているのに……。二、休みの日はだらだらしない それは私の自由だ! 三、朝は最低でも八時に起きること 殺す気か。とまぁ、まくしたてられた。なんでお母さんという人種はこうも口が早く回るのだろう。

 「本当になんでこんなだらしない子に……将来どうするつもりなの?」

 高校一年生に将来とか聞かないでよ。どうしてそう焦らせようとするかな。

 それまで面白そうに眺めているだけだった私の姉が、思いついたように目を光らせた。ものすごく嫌な予感がする。こういうとき、私の身に降りかかることにろくなことはない。

 「美夏は一応、夢はあるんだよ」

 嫌な予感は実感に変わる。一応という言葉を強調し、私を見下ろす姉をやっぱり好きにはなれなかった。

 「美夏は漫画家になりたいんだよ、そうでしょ?」

 それは友達云々の話より触れてほしくなかった。私がまだ小学生で、姉のことをお姉ちゃんと親しんでいたころ、そんなことを言ってしまった気がする。そんな昔のこと早く訂正すればいいのに、なぜか私の口がキュッと引き結び開かなった。

 「そんなことより勉強しなさいよ」

 お母さんの呆れたような口調が胸を締め付けた。姉も便乗してあることないこと言いふらす。私がとある雑誌に持ち込みしているとか、お小遣いを画材に使っているとか。私はもう口を開くのも面倒で黙って聞き流していたが、最後の一言は聞き流すことができなかった。

 「たいして絵もうまくないのにそんなことしてるんだよ? もう塾とかに行かせた方がいいんじゃない?」

 言いようのない怒りが私を支配した。人を小馬鹿にするように笑う姉の顔を殴ってやりたかった。顔がはれるまで殴って謝らせたかった。何を? 私にもよくわからない。でもその言葉は私の存在を否定されているようだった。それにそもそも私が漫画を描きたいと思ったのはこの姉が原因なのだ。脳裏をよぎったのは今となっては憎たらしい姉の言葉。「絵上手だね」と褒めてくれたその記憶だけが私と姉が家族として繋がっている証だと勝手に思っていた。それが今、完全に切れたのだ。

 それでも私は何も言えなかった。永遠と続きそうな小言を無視して自分の部屋に逃げこんだ。何も言えない自分に一番腹が立った。

 その夜、私は家族と食事をしたくなくて家を出た。ある約束を思い出し、このまま家に戻らなくても生きていけるような気になった。夜になっても鳴きやまない蝉の音をうっとうしく思ったが、不思議と嫌な気分ではなかった。やはり私は夜行性なのかと一人で納得して、頭上の星空を見上げた。明日は晴れになりそうだ。私の手は携帯を入れてあるズボンのポケットに伸びていた。

 

 

 一人で電車に乗るのは初めてだった。もともと電車なんて使わないし、電車賃も労力ももったいない。でも今日ばかりは仕方がない。さびれた近所の駅に行き、切符を買うとちょうどよく目的の電車が来た。

 がたがたと揺られていると睡魔が襲ってくる。今の時間帯、乗客はほとんどいなあったので少し眠ろうと、目をつぶった。だが姉に言われたあの言葉が蘇ってきてなかなか眠れない。しょうがなく目を開け、窓の外を眺めていると風景は徐々に都会っぽくなっていった。

田んぼや古い一軒家を通り越してホテルや店、学校などが見えるようになると電車はあいつのいる地区の駅で止まり、私はそこで降りた。駅の掛け時計を見るともう九時を回っていた。いつもならパソコンをいじっている時間だ。

こんな時間でも駅周辺には制服姿の高校生がうようよいた。確か近くに高校があるためだろう。私とすれ違っても相手の表情は何一つ変わらない。何だか知らない国に来たみたいだ。

「美夏!」

やけに明るい声で私を呼ぶ声がした。その声の方を見ると――懐かしい、武内将(たけうちしょう)の姿があった。日に焼けた肌に、裏表のない屈託した笑顔。短髪でマウンテンバイクに乗っている将は、誰から見てもアウトドア派だとわかるだろう。私とは違い、みなぎる生気に満ちている。

「久しぶり!」

私の近くでバイクを止め、隣を一緒に歩く。将は尻尾を振っているかのように再会の喜びを表していた。その変わらない様子に憂鬱気味の心が少し晴れたような気がした。

「元気? 今何してんの?」

「将と一緒に歩いてる」

「いや、そうじゃなくて学校で。部活とかやってんの?」

「やってない。そういうのは私に向いてないもん」

「そっか。変わらんなぁ」

私たちは中学の同級生だったが、高校が別々になってしまい自然と会わなくなってしまった。もちろん恋人同士でもないし、親友というわけでもない。ただ将は誰にでも気さくだったから話すことはよくあった。その流れで電話番号だけは交換していたので、こうして連絡は取れたのだ。

しばらくはとりとめのない世間話を続けた。高校での生活。先生の話からなぜか円形脱毛症の話へ。懐かしい友達の話。将は進学校へ行ったので勉強は難しいのだそうだ。でも中学のころはわざわざ私が住んでいる駅まで通っていたので、朝は楽になったらしい。私にとってここは都会に見えるけど、中学は駅を超えないとないなんて。どうやらこの県自体が田舎のようだ。

そうこうしているうちに将の家に着いたようだった。一軒家が立ち並ぶ中、将の家は木造式の古い外観をしていた。しかし止まっている車は大型で、最近買ったのだろう。ほとんど傷がなかった。家には明かりがつき、談笑する声がかすかにこちらまで届いている。

「じゃあ、ちょっと待ってて」

私は黙ってうなずくと将は駆け足で家の中に入る。がらがら、という引き戸の音におばあちゃんの家が重なった。

しかし冷静に考えてみるとどうだろう。私は女で将は男なわけで。いや、冷静にならなくても薄々感じていたんだけど……純潔が危ない? いやいや、将の両親もいるわけだからそんなことにもならないかな……というか両親公認ですか? そもそも将はよくこんな簡単に私の無茶を聞いてくれたな。普通、「今日泊めて」なんて言われたら受け入れられないでしょ。

将はなんというか……無頓着なところがあった。無頓着というか普通という枠にいないというか。中学のころから将は女子を平気で家に誘っていたこともあったし、それに対して何もおかしいとは感じていないようだった。でもクラスのグループの一つが将の家に集まろうというと、将は「その日は山にこもらないといけないから」というわけのわからない理由で断っていたこともあった。実際、『山籠もり』のため欠席ということがあり、クラス全員で笑った記憶もある。そのため僧侶扱いされたときもあったが当の本人は飄々として気にしていなかった。

でも私はそんな将のことは嫌いではなかった。おかしいとは思うけど、ちゃんと自分という個性を持っていて羨ましいとも思った。

 将とある程度仲良くなると私は旅行に誘われた。「いつでもいいよ」と将は言ったが、私はそんな面倒なことをするつもりはなかった。だいいち、少し仲いい程度で女子を旅行に誘うのもどうかと思ったのだが……。でも私はそれを忘れなかった。家を出たとき、この約束に頼るしかないとわかっていたのだろう。そうすれば最低二日はあの家に戻らなくて済む。

 がらがら、と引戸が開き、将が手招きした。私はもう後ろには引けないという気持ちで中に入った。

 靴を脱ぎリビングに通されると、将の両親がにこやかに迎えてくれた。その雰囲気はとても将に似ている。お母さんの方は茶色い髪が肩まで伸び、決して少なくないしわが柔和な笑顔を作っている。お父さんの方は将をそのまま大人にしたような人だった。

 家の中は扇風機が回っていて生ぬるい風で満たされていた。正直クーラーの方がいい……とはもちろん言えない。バラエティ番組が映し出されているテレビの音が、すこしうるさく聞こえた。

 「えと、初めまして。将君と中学で同じだった杉坂(すぎさか)美夏といいます」

 「将のはっはで~す」

 そしてそのまま抱きつかれた。何そのナチュラルさ。外国?

 「ちっちで~す」

 そしてそのまま抱きつこうとする。さすがにこれは将が止めた。将より、お父さんの方が危険かも……。

 至極残念そうな顔をしたお父さんであったが、すぐに表情をころりと変え興味深そうに私たちを見つめた。

 「それで、お二人の関係は?」

 「友達だよ」

 将が即答した。うわぁ、頬が赤くなる間もない。

 両親はそれで納得したようにすぐに話題が変わった。こんな簡単でいいのだろうか。もしかしたら女子が家に来るのは初めてではないのかも……。

 何はともあれいい両親だった。私がこんな時間に来ても嫌な顔一つしなかった。急な話であるのにリビングの隅の方に荷物がまとめて置いてあった。多分明日の旅行の準備だろう。電話したときからやってくれたのだと思うと申し訳なった。

 でも私、旅行とか行きたくないんだよなぁ。でもそれが口実だし、『実は家出してきたので三日ほどリビングでゴロゴロさせてください。』なんて言えるわけないし。

 荷物を見ただけで旅行場所は想像ついた。その視線に気づいたのか、将のお父さんが私の目を見て言った。

 「釣りは好き?」

 釣りより昼寝が好きです。と心の中でつぶやいた。

 

 

 ただいまの時刻、朝六時。殺す気だ……。休みなのに、というより平日ですら起きたことのない時間に起こされた。

 私は空いていた部屋を使わせてもらったのだが、これがなかなか眠れない。布団を敷いてもらったのはいいが、私はベッドでしか眠れない繊細な女なうえ、蚊がブンブン飛んで全く落着けない。そもそも夜十一時に寝させようとすることがおかしい。私は夜行性なのにここにはパソコンもない。携帯はお母さんから着信が来ても無視できるように切ってるし。とにかく目をつぶっているだけでやることがなかった。そしてようやく眠れたと思ったら六時起き……本気で家出を止めようとこのとき初めて思った。

 「おはよっ。美夏ちゃん」

 まるで友達のような起こし方だ。私は薄目で将のお母さんを見ると、太陽のような笑みがそこにはあった。

 「今日はいい天気だよっ」

 「……そうですね」

 どうしてこうもテンションが高いのだろう。こういうお母さんがほしいと思っていた時期もあったけど目の前にすると少しきついなぁ。

 カーテンを開かれると本物の太陽が嫌がらせのように爛々と輝いていた。シャツが寝汗でびっしょりと濡れていた。昨日将のお母さんから貸してもらったパジャマも少し濡れていた。また服を貸してくれるそうなので私はシャワーを借りることにした。

 お風呂場はところどころさびていたが涼しくて気持ちよかった。服を脱ぐと虫刺され箇所が見つかった。白くて綺麗な肌になんてこと! といっても外に出ないから日焼けしないだけで健康的な肌とかじゃないんだけどね。

 かゆみを無視してシャワーを浴びる。ひんやりと冷たい水が気持ちいい。朝起きるのはつらいけど、この快感を味わえるのならたまには早起きしてもいいかな。

 とんとん、とこちらに近づいてくる足音がした。お母さんかな。多分着替えを持ってきてくれたのだろう。それが影となってドアの向こうに現れる。

 「美夏。着替えここに置いとくぞ」

 「ぎょぇ⁉」

 何で将が持ってきてんだ! おかげで出したこともない声出ちゃったじゃん!

 「どう? 夜眠れた?」

 何でここで聞くんだ! とっとと出てってよ。鏡に映った私の口がぱくぱく動いていたが声は出ていなかった。

 「この家結構、蚊いるからさ。大丈夫かと思って」

 大丈夫じゃいよ! あんたデリカシーに関しては蚊以下だよ! 

 ドアの影がこっち向いてんだもん! 何これセクハラじゃない? 私はこれを許していいの? 何で普通に話してんのよ! 

 「……美夏?」

 その影の手がドアを開けようとしたのが見えて、ようやく言葉が出た。

 「入ってくんなぁぁぁ~~~~!」

 その絶叫は隣の家まで響いたと、後から聞いた。

 

 全く信じられない。どういう神経してんの? 本気で入ってこようとしていましたよ。思いっきり睨んでそう抗議しても、将はただ、

 「すまん」

 と言ってけろっとしていた。個性というか常識がないだけなのかな……。

 何だか私の体が意識されていないような気がしてむかむかしてきた。いや、別に意識してほしいとかそういうわけではないけど。でも普通裸の少女がドアを挟んで向こう側にいたらもっとこう……おどおどしたりとかさ、あってもいいんじゃないかな。平常と何も変わらなかったもん。

 でもそれをいちいち口にしていたら、意識してほしかったとか思われるのも癪なので私も何事もなかったように振る舞った。え、最近カラオケ行ってなかったから大声出したくなっただけだし? 別に私、先祖代々裸族だし? そう言ったら将の顔が引きつった。何で私が引かれてるのよ……。

 武内家の朝はとにかく早かった。シャワーを浴びた後、朝食を食べさせてもらって、借りた歯ブラシで歯を磨いたらすぐに旅行に出発した。荷物は昨日のうちにまとめてあったので、すぐに家を出ることになった。ただいま八時。起きてから二時間しかたってない。私からしたら休みの朝は存在しないのに。

 私は将のお母さんからTシャツ、ジーンズ、そして薄いジャケットを貸してもらった。おしゃれも何もあったもんじゃなったけど釣り人はこんなものなのだろうか。こんな暑い日に長袖長ズボンとは。ふと、今学校で部活をしている野球部に敬礼したくなった。

 私たちは車に乗り、目的地まで移動する。三時間の運転と言われ正直眠りたかったが、前座席に座る将の両親が際限なくしゃべり、気がついたときにはもう目的地に着いていた。

 「うわぁ……」

 座席から降りた私は感嘆せずにはいられなかった。庄内の海が目の前にあった。久しぶりに見た海の景色はとにかく広くて、綺麗で、現実の世界のものとは思えなかった。

 「海が珍しいのかい?」

 お父さんが私の反応をからかうように言った。車の中で、ここには一か月には一回来ると言っていたので私の気持ちはわからないのだろう。

 「初めて?」

 将が聞いた。私は海から目を逸らせないまま首だけを横に振った。

 「家族と、一回だけ……」

 そのときの記憶はうっすらとしていて、目の前の景色と重ならなかった。私は携帯を取り出した。電源は切ったまま。液晶に映る私の顔がひどく幼く見えた。

 もう一日経ってしまった。さすがに心配しているのかもしれない。家出は前にもしたことがあったけど夜を越したのは今回が初めてだ。警察に電話とかしているかも……。

 戻りたくないという気持ちより、戻った方がいいという気持ちが勝り始めていた。でもあの姉の顔が浮かぶとまだ戻りたくないという気持ちがやっぱり出てきて、どうしようもなくもやもやしてくる。

 武内家は荷台から荷物を降ろしていた。この家族に迷惑はかけたくない。楽しそうに雑談をしているその輪の中に、私は入っていけないような気がした。

 潮の香りがここまで強いとは思わなかった。耳を澄ますと赤ちゃんの声が聞こえたような気がした。空を見上げると、それはかもめの鳴き声であることがわかった。白い翼が悠々と空を舞っている。

 私は家出なんて後が面倒なだけ。そう言い聞かせて携帯の電源を入れた。画面が出てくると不在着信が二十件も溜まっていた。

 私は一度大きく深呼吸をしてお母さんに電話をかけた。着信は一回で繋がった。

 「――美夏、美夏!」

 あぁ、私のお母さんだ。たった一日会っていないだけなのに、その声は懐かしく響いた。

「今どこにいるのっ、何してんの携帯の電源も切ってっ」

「いや、ちょっと今家出中で……」

「ふざけんなっ」

本気で怒るお母さんは割と怖い。目を合わせていたら、私は確実に泣いていた。

「今どこっ」

 繰り返される質問に今更ながらどう答えればいいかわからなかった。男と一緒にいるなんて……家族も一緒だけど。でもそれを親公認と受け取られてしまわないだろうか、いや、そんなこと思うのは自意識過剰?

「――早く言え!」

「男と一緒にいます! 親公認です! でもそんなこと思うのは自意識過剰です!」

……って何言ってんだ私は~~~! 

「……何?」

お母さんの声が低くなった。「待って、誤解……」という前に「もう帰ってこなくていい」と最後の叱責を飛ばして電話が切れてしまった。

熱くなった頬を潮風がなでる。あぁ、面倒くさい……家出なんてしなければよかった。まさか私の口がこんなに馬鹿だとは思わなかった。

「何が自意識過剰?」

「ふぁっ!」

私の背後に立つな! びっくりするでしょ。将は怪訝そうな顔で私の顔を覗きこんだが、私は何もしゃべることはできなかった。

「はぁ……」

もういい。私は考えるのを止めた。今なら宇宙空間を彷徨っている鉱物と生命体の中間にいるあの方の気持ちがわかるよ。

「さぁて、つり・つり・つり?」

「「「釣りスタ!!!」」」

謎の掛け声を合図に先を行く家族の背中を、私は呆然と見つめるしかなかった。

 

海とは不思議なもので、全てがどうでもよくなる。水平線の向こう、波を漂わせ進む小さな漁船、垂れる釣糸と、ぷかぷか浮かぶオレンジ色のウキ。貸してもらった麦わら帽子は少し大きく、視界を遮ったがそれでもやっぱり、海は広かった。

あぁ、もう動きたくない。人間って何て面倒なのだろう。私は家出したんじゃない。自然に帰ってきたのだ。ただいま、わが主様!

「来た来たキタァ」

隣に座っていた将が突然立ち上がった。そしてその勢いのまま竿を挙げ、リールを巻いた。海面で波紋が広がり、釣り上げられた魚とともに海が跳ねた。この広大な海なのに何でこんな小さな魚が釣れるのだろうと不思議に思った。

「ア~ジ~」

満面の笑みでそれを見せてくる。「すごーい」と適当に相づちを打ってやった。

「美夏も座ってないで場所とか変えたら?」

私はアスファルトの痛みに耐えながら座っていた。将のお父さんはここから少し離れた磯でキスを狙っているらしい。お母さんはそれについている。

私は初心者、というかもっぱら釣りの経験なんてないのでよく釣れるというアジやイワシを狙うことになった。狙うといっても私は何もかもがわからないので将に任せっきりだった。私がやったのは竿を海に落としただけ。アジやイワシなら海の真ん中に竿を投げる必要はないらしい。

「いいよ、ここで」

そう言うと将はあっさりと場所を移してしまった。五十メートルくらい離れたところで将は竿を海に落とす。いや、初心者の私を一人にしないでよ。将は優しんだか自分勝手なのかよくわからないときがある。

一人になると姉の言葉が頭をよぎってしまう。上手くないくせに。そんなこと私が一番よく知っている。でも一番悔しいのは自分が何の努力もしていないことだ。それに私は漫画を描いていない。自分の好きなことに一生懸命のなれていない。姉の言葉でそれが事実だと実感してしまったことが何より悔しい。

私は面倒なことが嫌いだ。でも努力するのは嫌いじゃない。というより憧れている。漫画の世界の主人公のひたむきな眼を、私にもできたらと思っている。何かしたいと思った、だから姉が言ってくれた「絵上手だね」のたった一言で漫画に打ち込みたいと思えたのに。

「馬鹿だなぁ、私」

小さいころに描いた絵を下手なんて言う家族もいないだろうに。ただのお世辞を正直に受け取った自分が馬鹿らしい。

原稿用紙を買ったはいいものの「また明日」の繰り返し。そもそも何で漫画を描くのにそろえるものが多すぎる。ペンとかインクとか。色鉛筆でいいじゃん。……でもそれも無駄遣いしなければ買えるのにな。

何かきっかけがあればなぁ。例えば海の中から魚雷人が出てきて私がひょんなことから一緒に旅をして……大冒険を終えて私は一皮も二皮もむけて帰ってくるみたいな。そんな強烈のことがあったら三日で漫画なんてかけそうだよ。

「よっしゃっ」

将の声が遠くに聞こえた。将は釣り以外でも山登り、化学、生物、いろんなことに興味があると言っていた。今はまっているのは海に潜って銛で魚を突くあれだ。「獲ったどぉー」のやつ。何でそんなアグレッシブになれるのだろう。羨ましいを通り越して妬ましい。

将とよく似た声が聞こえた。振り向くと将のお父さんが手を振ってこちらに近づいていた。

「どう? 釣れてる?」

ジャケットが暑かったのか、お父さんはシャツ姿になり、日焼けした肩を露出していた。確かに暑い。私も暑さを感じてきた。竿をアスファルトの上に置き、ジャケットを脱いでダサいTシャツ姿になる。

「いえ、全然です」

お父さんは納得できないように首をかしげた。そして海の中を覗きこむように身を乗り出した。

「うーん、ちょっと竿戻してみて」

言われた通りにするとお父さんは合点が行ったように頷いた。

「ほら、餌がもう溶けちゃってるよ」

そう言われても……。そんな顔をしてみせると、お父さんは近くに置いてあった餌箱を持ってきた。ふたを開けるとそれは赤みがかった、ドロドロした液体状のものだった。ちなみにかなり臭い。

お父さんは、竿の中間部にぶらさげてあるプラスチック製の小さな筒のようなものを指さした。

「そこに入れんの。やってみ」

使い捨て用のスプーンを渡された。正直気が進まなかったが断るわけにもいかない。私は指先で餌箱の端を掴み、絶対手に触れないようにそこから餌をすくい出した。そんな私を見てお父さんが吹き出した。

「もっとガバッと! 触ったって水で洗えば大丈夫だよ」

この人は乙女の気持ちがわかっていない。私は釣りガールではないのだ。だけど拒むわけにはいかないんだよなぁ。私が家出を続けている以上。

何とかセットし終わり、ポンと竿を海に落とす。お父さんが近くに来て一緒にそれを眺めた。

「オッケー? そのままじゃ魚は来ないから竿を上下に動かして……もっと激しくでいいよ、そう、そんな感じ。そうやって臭いで魚をおびき寄せるんだ」

なるほど、やっぱり動物の嗅覚は鋭いんだな、なんてことを思っていると魚の影がうようよと集まってきた。それは面白いくらいに多くなり、群れのような形にまでなっていた。

「おぉ! 大漁大漁! よし、もっと動かしていいよ。そのうち餌の下の針に魚が引っかかるから……よし! 引いた!」

引いた感触が手にはっきり伝わった。慌てて立ち上がりリールを巻き上げる。パシャンと水が跳ねると鼓動が一気に膨れ上がった。――釣った! 何とも言えない感触だった。経験したことのない重み。針の一つに確かに食い掛かっているのを見ると、私は思わず「あっ!」と叫んでいた。

アスファルトの上に竿ごと魚をのせた。私は初めて自分で釣った魚を見た。それは将に見せてもらった時とは違う。その魚が特別なものに見えた。

「おっと……残念! これはフグです!」

「フグ?」

フグなんて釣れるものなんだ……。

「これは食べられないな~じゃあ、針外して、スルーしてあげましょか」

「私がやるんですか⁉」

「自分で釣った魚は自分で面倒見なきゃ。はいはい、早くしないと針呑み込んじゃうよ?」

う……これ大丈夫なの? フグって毒あるんじゃなかったっけ。

「あの、これ毒……」

「大丈夫、咬まれなきゃいいだけだから」

「咬むんですか?」

「咬むよ」

大丈夫かな……。フグはふーふーと気の抜けたような息を繰り返していた。

「あ、でもフグって面白いんだよ」

お父さんは何事もないようにフグを持ち上げると、お腹のあたりをつんつんと突いた。すると、まるで風船のようにその部分が膨らんだ。

「ほら、可愛いでしょ?」

私の目の前にフグを持ってきたお父さんは本当に乙女を理解していない。思わず、その手を払ってしまった。

「あっ、すいません!」

フグがプシューと音を立てて膨らんでいたお腹をしぼませた。お父さんはそれでもにっこりと笑った。

「大丈夫、汚いものじゃないんだから」

心の準備が必要なんです。乙女には。私は一度、深呼吸をした。これでもかと深く吸い込んだ海の空気は生き物の香りを含んでいた。

今度はゆっくり差し出されたそれを正面から見た。再び怒ったようにお腹を膨らませた。

「……か、可愛い」

よくよく見てみると愛らしい目をしている。こんなゆるキャラがいてもおかしくない「僕、怒ってるぞフグ!」みたいな。

 「お腹んとこ触ってみな」

 それはさすがに躊躇したが、咬みつく様子もない。恐る恐る指を伸ばす。

 「えいっ!」

 いきなりお父さんが私の手首を掴みお腹の部分を触らせた。

 「ひやぁ!」

 心臓が口から飛び出した。いや、もちろん出てはいないけど。飛び出るかと思った。私は速攻で指を放していた。

 「な、何すんですか!」

 もはや泣き目の私をけらけらと笑う。このお父さんも優しんだか自分勝手なんだか……。親子だなぁ。

 「で、どうだった?」

 何もわかるわけないでしょう!

 フグはそれに反応してまたお腹をしぼませてしまった。何度もごめんフグ……。

 お父さんに忠告をして再度触らせてもらうことにした。念願の初タッチへ。膨らんだそれをつんつん突く。ぷに、という柔らかい感触。マシュマロのような、でもそれはちゃんと鼓動していて生きているということが実感できる。

 お父さんに手伝ってもらいながら口から針を取り出すと、そのフグを海に帰した。ありがとう、そしてさようなら。

 そしてお父さんは「うん」と呟いていった。

 「釣りを通して人は大人になる」

 ――その通りかもしれない。なんて思ったのが少し悔しかった。

 

 近くの海の家でいか焼きを食べた後、私もキスを狙うことになった。ごつごつした岩の上で私たちは波の流れを見つめている。昼前までに私はアジを釣ることができ、クーラーボックスには将が釣ったものと合わせて二十匹の魚を入れることができた。

 将のお父さんは海の中心を眺め、竿を構えた。シュッという空気が裂ける音とともに、竿は緩やかな軌道を描いて海に着地した。

 お母さんはというと、竿を投げることはせず私たちを後ろから眺めている。将はお父さんにならい、ほぼ同じところに竿を投げ入れる。

 私はというと正直疲れていたので将の隣に座ってぼんやりと海を眺めていた。インドア派には辛くなってきた。なにしろ暑いどころじゃない。海の蚊もたくさんいる。そろそろお開きでもいい。ていうか、そうしてほしかった。

 確かに釣りは楽しかったし、もっといろんな魚を釣ってみたいっていう気持ちはあるんだけど、今は嫌だ。夜がいい。夜の星と海を眺めながらの釣りなんて最高の贅沢じゃないか。

 「美夏ちゃん美夏ちゃん」

 将のお母さんが私を手招きしていた。私と同じ麦わら帽子をかぶったお母さんは私とは比べ物にならないほどその恰好が似合っていた。

 返事をして傍に行くと柔らかく微笑んだ。

 「美夏ちゃんも竿投げなよ。結構気持ちいよー」

 疲れていて少し休んでいることを告げると、お母さんは表情を変えずに目の前の海に視線を移した。

 「実は今ね、私たちの娘が入院中なの」

 「……へ?」

 突然の告白に言葉がつまり、お母さんの顔を見た。きっと馬鹿みたいに呆けた顔をしていたことだろう。

 「昨日美夏ちゃんが泊まった部屋あったでしょう? あれ、娘の部屋なのよ」

 娘の部屋……泊まった部屋を思い出した。障子、畳、一角に置かれた机――それぐらいしか思い出せなかった。あれが娘の部屋?

 「娘さんは何歳ですか?」

 「麻耶(まや)は……ああ、麻耶は私の娘ね。一四歳。ちょうど中学三年生よ」

 「中三、ですか」

 中学三年生が住む部屋とは思えない。パソコンも漫画すらなかったのに。

 「麻耶のね、気持ちがわからなくて。こうやって出かけた方が楽しいのに、釣りなんて行きたくないとかパソコンがほしいとかわがまましか言わなくて。それで喧嘩したとき麻耶が家出しちゃってね。車にひかれて足骨折しちゃったのよ」

 お母さんの目に淀みはなかった。それどころか、どこまでも澄んで綺麗な目だった。

 「それで入院ですか」

 そう、と頷くと顔を私の方に向けた。柔和な表情ではあったが、私はどこかから生じる違和感を拭えなかった。

 「何でパソコンとか、そういう娯楽物? みたいなもの欲しくなっちゃうんだろう。私にはわからない」

 それはきっと、その麻耶さんが釣りの楽しさがわからないのと同じだろう。やってみてそれが自分に合わないとわかったら、どうやっても好きになれない。

 では私は、絵が下手だと言われた私には漫画は合っていないのだろうか。そのうち、漫画を描きたいとも思わなくなるのだろうか。私は一生、昼はだらだら過ごして夜にはパソコンの前に座っているのだろうか。それが私に合っているのだから。

 不意にお母さんの顔色が変わり、何でもないことのように話題を変えた。

 「あ、そういえば美夏ちゃんのお母さんから電話来てたよ。家出してるんだって?」

 ――そういうのは先に言ってほしい。とはいえ、私も慣れてきたのかあまり驚かなかった。

 「……すいません」

 きっと私がフグとかイワシを釣っている最中に電話が来たんだろうな。男とか言っちゃったからきっとすぐにわかったのだろう。男の友達なんて限られている。というより、一人しかいないよ馬鹿やろう。

 「謝んなくてもいいのいいの。適当に私が旅行に連れ出しただけです。って言っておいたから」

 気を遣わせてしまっている。やっぱり迷惑をかけてしまっている。私はお母さんの顔が見れなくて海の方を向いたが、釣りをしていたお父さんと将が私を見つめていた。

 「事故にだけ遭わなければ家出なんて何回してもいいんだよ」

 将はなぜか胸を張っていた。それを見たお父さんが笑い飛ばし、将の頭をこついた。

 「こいつなんかよ、十回位家出してるもんな」

 「十回⁉」

 将が家出をする理由が見つからない。やっぱり将でも娯楽物は欲しいのだろうか。

 「まあ、大したことじゃないのよ。釣り具を変えてくれないとか、おかずに梅干しは嫌だとか、俺の髪が伸びないのは遺伝のせいだとか言って家出した時もあったし……そんなんで一週間くらい帰ってこなかったのよね?」

 お母さんが将の方を向くと思い出すように、空中に視線を泳がせた。

 「ああ、あれか。あの時は公園の水しか飲んでなかったからな。死ぬかと思った」

 そんな強烈な経験を忘れるものなの? 

 「というか、探しに行かなかったんですか?」

 今度はお父さんがリールを巻き戻しながら答えた。

 「いいんだよそんなことしなくて。家出は人生の勉強になるんだから」

 ……麻耶さんがかわいそうだ。放任主義にも限度があると思う。この人たちは優しいけど、ある意味でどこの家族よりも厳しそう。こんな親だったら私はもっといい性格になれたかもしれない、なんてことも思ったけどそうなる前に死にそうだ。

 「第一、今の親は過保護すぎなんだよ。リスクなしに大人にしようとしていること自体間違い」

 お父さんはリールを巻き終わり、私に竿を渡した。

 「せっかく家出したなら何か学ばなくちゃ」

 聞いてもないのに竿投げの方法を伝授された。最初は糸を切ってしまい面倒ながら続けていたが、空気を裂くシュッという音と、狙い通りに投げられた快感は忘れそうになかった。

 

 結局私はキスを釣ることができなかった。私だけではなく、武内家全員が見事な空振りに終わった。でも悔しいなんて思わない。私は今日、海を見て、初めて釣りをして、初めて魚を釣って、フグに触って、そして将と、将のお母さんと、お父さんと色々な話ができたのだ。それだけで十分だ。

 一泊していこうという提案を私は断った。何だか無性に帰りたくなったのだ。多分、ホームシックってやつだろう。  

 夕焼けに染まる海を見ながら、車は走っていた。私を駅まで運んでくれると言ってくれたのだ。

 「そういえば……」

 静けさを破って将が口を開いた。

 「美夏って漫画家目指してんだろ?」

 口を滑らせてそんなことを言ってしまったことを思い出した。将の両親があざとく反応する。

 「お、それじゃあサインもらっとかないとな」

 お父さんがニヤッと笑って運転席から私を見た。隣に座っているお母さんがバックの中を探って「書けるもの……」と呟いていた。

 「あの、目指してるっていうか……なれたらいいなってだけで……」

 本気でサインさせる気なのだろうか。本気で恥ずかしいのでやめてほしい。

 「それって目指してるってことと違うの?」

 将が不思議そうに首をかしげる。それはそうかもしれないけど……。私の気持ちはわからないんだろうな。私は目指しているなんて綺麗な言葉は言えない。

 「でも夢があるっていいよな」

 私の答えを待たず将は天井を見上げ、言葉をこぼした。

 「……何かやりたいことないの?」

 あんなに趣味があるのに夢はないのだろうか。私は多趣味な将のことを羨ましく思っていた。将には夢があって、それに向かって努力できる人間だと私は勝手に思っていたから。

 「やりたいことはいっぱいあるよ。でもこれっ! ていうのはないな……」

 私は初めて将と対等な立場に並べた気がした。私にないもの、確固した個性とか、趣味の多さとか、素直な笑顔とか、好奇心の強さとか、そう育ててくれる両親とか……でも私には夢があって将には夢がない。それが何だかすごく貴重なことに感じた。

 将のお母さんがメモの切れ端と傷だらけの黒ペンを私に手渡した。まぁ、まさか色紙が来るとは思ってはいなかったけど……釈然としない。

 私がどう名前を書くか迷っていると、「どんな漫画描くつもり?」と将に聞かれた。手元のメモ用紙を見つめながらその答えにも考えを巡らせなければならなった。「今は……」言葉が続かない。でも何とかして答えたい。でも嘘をつくのはこの家族のはしたくなかった。

 窓の外に目を移した。まだ海が見える。やっぱり海は広い。かもめが水面と平行に走っていた。宝石のような輝かしさに私はしばらく目を離せなかった。

 「――――私絵が下手だから、漫画は合っていないのかも」

 無意識に言葉を紡いでいた。カウンセリングに来た少女が悩みを打ち明けるように、それはごく自然に出てしまった。

 「姉に絵が下手って言われて……」

 いや、姉に言われる前に自覚している。姉のせいだって話を誇張させたいだけだ。

 一瞬沈黙が流れ、旅行の最期にする話じゃなかったと気付いた。でも今更この話を打ち切ることはできない。私はゆっくり顔を戻し将の横顔を伺うと、将は先ほどと変わらない不思議そうな顔で私を見つめていた。

 「……え、それで?」

 今度は私が沈黙する番だった。それで? それで……なんだろう。

 「下手だったら上手くなればいいんじゃねぇの? 夢だったら努力すればいいだけだろ」

 簡単に言ってくれる。正論すぎる正論だ。でもその努力が、私には……。

 逃げている。努力なんてかっこいい言葉はいらない。私はただ絵を描いて上手くなって、ペンとインクを買って、また絵を描けばいいだけ。

 それができないのはやっぱり私が弱いから? 私は本気になれない人間だから? 漫画じゃ本気になれない? どれも違う気がした。

 今日は楽しかった。釣りを初めて楽しいと思えた。魚を釣った感触が気持ちよかったから、たとえ釣れなくても釣れることを目指して、試行錯誤をすることも悪くはなかった。

 ――もし漫画が合わないのだとしても、それは何か一作書き上げてみないとわからない。

 メモ用紙に向き合い、ペンを動かした。少し時間がかかった。書き上げたときには、もう海は見えなくなっていた。

 それを将のお母さんに手渡した。お母さんが目を見開きにっこり笑う。それをお父さんに見せ、将が最後にそれを受け取った。私の目を見て、ほしかった一言を言ってくれた。

 「絵上手いじゃん」

 きっと私の頬は人生で一番赤くなっていたことだろう。

 

 駅で将の家族と別れた後、電車に乗り家路へと向かった。さて、私のお母さんと、姉に何て言おう。きっとお父さんも怒っているんだろうな。

 夜のとばりがおり始めていた。今日は長い一日だったと振り返りながら、私はなんとか漫画の構想を練り上げていた。空には星が瞬いていた。今度は夜にあの海に行ってみたいと、頭の片隅でそう願った。

 

 

 「カンパーイ!」

 あぁ、疲れた! 兄の結婚式に何で私が行かないといけないんだ。というか、何ちゃっかり結婚してんだ。あのがさつな兄がね……。

 「お疲れー」

 結婚式で会った友達と二次会というか、やけのみを決行することにした。場所が私の実家っていうのがものすごく不愉快だが、一番近かったし、親は兄とその結婚相手と旅行しているそうだからいないし、そのぶん、まだマシだった。というかその旅行、近場の海で二泊三日って言っていたけど……結婚相手の人はそれでいいのだろうか。

 それにしてもここには何もない。ビールとおつまみが無けりゃやってられない。

 「ここ蚊多すぎ」

 パン、と友達が腕を叩いた。だが逃げられてしまったようで、また鬱陶しそうに手を振って追い払った。

 「ここで過ごしてたなんて信じられないよー。私だったら死んでたわ」

 「ホント死んだよ。私二十回位家出してたもん」

 「二十回⁉」

 いや、もっとかな……覚えてないや。そういえば車にひかれた時もあったなぁ。

 「でも凄いよね。今あの有名な会社で働いてるんでしょ?」

 「うん」

 ここから早く抜け出したくて猛勉強したからね。おかげで東大行きましたから!

 「はぁーうらやましいー」

 がぶがぶとビールを飲み干した。

 「ぷはぁ~! 私も家出してたら頭良くなってたのかな~」

 私の気持ちも知らないで……ホントに嫌だったんだから。休日に山か海にいちいち誘われるんだよ、そんなの今どきの娘が好きなわけないでしょ。

 「ん、何これ?」

 友達が冷蔵庫に留めてあったメモ用紙を指さした。そこには釣りをしている私の家族の顔が描かれていた。みんな笑っていて、ほんのりする絵だった。

 「……あんまり上手くないね」

 そうかな? 私は上手いと思ったけど。

 「でもそれ描いた人、漫画家らしいよ」

 「え! マジ⁉ スゴッ!」

 「私はあんまり詳しくないから知らないけど……ちなみにその人が私の兄の結婚相手」

 兄は漫画家を嫁にした。兄は仕事しないで専業主婦にでもなった方がいいと思う。いや、実際そうなるのかも……。

 「え⁉ てことはあの人……」

 「知ってるの?」

 「麻耶知らないの? 一年前くらいにデビューした新人なんだけど、私けっこう好きなんだ。ああ、サインもらっとけばよかった……」

 ふぅん。今度探してみようかな。杉坂美夏という名前を見かけたらそれを買ってみよう。


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