〈地下五階 対の迷宮〉
残酷描写があります。苦手な方はご注意ください。
階段を下りて右のドアを開けると、寒々とした風がこちらへ一気に流れ込み、少しばかり広い空間へと出た。どこからかドドドドと滝の音がしている。
「上より幾分か寒くなった気はするが……雰囲気がまったく変わらないな。ここは地下五階なんだろうか」
シャロンが疑問をアルフレッドに投げかけると、
「わからない。でも、アレがないよ」
「そういえばそうだな。いつもなら階段付近に階数と人数、メッセージが書かれていたはず」
そのようなものがないか探してみると、ちょうど階段のある場所の裏に、わざわざ石を削ってメッセージが刻まれていた。
“流れる水に注意!”
もっと早く、例えば地下四階の入り口辺りに残すべきじゃないのか?
たびたびながら、先駆者のアドバイスにしては微妙なタイミングだ。シャロンは首をひねりつつ、湿っている床と壁の間に沿って深く掘られた細い溝を注意深く調べ、水が溜まっていないのを確認してから正面にぽっかり空いた小さな覗き窓に目を向けた。
両手がやっと入るぐらいの大きさの窓から向こうを覗くと、そこはどうやら牢獄のようで、右側に独房らしきドア、左側に鉄格子が並んでいるのが見えた。
カタッ。
「なんだ、今の」
窓向こうの牢獄から物音が聞こえたような気がして、もう一度耳をすましてみるが、嘘のように静まり返っている。
「アル、ちょっと来てくれ。ここから何か聞こえないか?」
ギュっギュっと靴音をさせてアルフレッドが近づき、耳をすませた。
「ちょろちょろと水が流れる音と、壁を何かが這いずる音がする」
「……そうか。いや、いいんだ」
考えてみれば、ここには虫もいれば、ネズミもいる。音が立ってもおかしくはない。
シャロンは一瞬でも恐怖を感じた自分を叱咤し、窓から離れて両側にある金属製の黒いドアを順番に調べたが、左は怖ろしく冷えていてまったく開かず、右は木材や油瓶が所狭しと並べられていたので、これ幸いと油をランタンに補充することにした。
壁に掛かったランプのおかげで、まったく使いどころがないが……まあいいだろう。
そういえば、このランプは常にぼんやりと周辺を照らしていて、まったく燃料切れを起こす気配がないのが不思議だ。
シャロンはランプに手を伸ばしてみたが、その揺れる炎はなぜか熱を感じさせなかった。
「シャロン、そろそろいい?」
「ああ、すまない」
しびれを切らしたアルに声をかけられて我に返ると、連れ立って左奥の、滝の音がする方へ行って扉を開けると、そこには――――――。
「すごいな」
呟いた声が瀑布の音で掻き消されていく。小さな家だったらまるまる一軒入りそうな真四角の空間の向かい側にもこちらと同じようなドアが二つ並び、その間はポコンと壁が張り出して行き来できないようになっていたものの、ドアの前にささいな足場ぐらいはあるようだった。
部屋の高さ半分からなみなみと水がたたえられ、緑青の藻が繁殖していて、目を凝らすと水面にごくたまに背びれのようなものが光っている。
一部だけでも相当大きく、いったいどんな魔物かは知らないが、ここから落とされたらひとたまりもないに違いない。
さらにじっくりとまわりの壁を見ると、右側の天井に空いた穴からは滝のように水が落ち、見ていると次第に少なくなり止まっていく。するとその下に頑丈そうで立派な扉があるのを発見した。
「シャロン、よく見て。この上の穴、地下四階のあの溝にある排水溝だよ」
「あ、なるほど。じゃあひょっとしたらここに、アルの流された靴があるかも知れないな」
そう笑って淵を覗いたものの、それらしきものは確認できず残念がると、
「それより先へ進もう。あまりここにいると、あれが来る」
アルが天井を指差したので、よくよく眺めてみればそこには細長いぶよぶよがゆっくりと這って進んできていた。
慌ててまわりを観察してみれば、壁には給水口の役割をしている穴と、水門のような仕掛けが、それぞれざっと五、六ヶ所もあり、その上にぐるりと細い出っ張りがあり、それに足を掛けて通れなくもない。
「よし、さっさと行こう。……ギリギリ通れそうだ」
まわりの細すぎる通路に足をかけ、ピッタリと壁に身を寄せて進めるか確認する。しかし、足を滑らせたら一巻の終わりで、そうじゃなくても魔物や敵に襲われたらその時点で終了である。
アルも同じようにその危険性を問題視したらしく、僕は後から行く、と言って入り口に陣取った。
まず、私を先に行かせて自分は露払いを、という考えなんだろうが……非っ常に心許ない。
なんとか通路に足を乗せ、先ほど発見した立派な扉に近づいて引っ張るが、案の定鍵が掛かっていた。
しぶしぶもう一度取って返し、今度は離れた位置にある、シンプルな金属製のドアに向かう。
足を滑らせないように、慎重に。半分を過ぎるか過ぎないかのところで、突然向こう側のドアの一つが開いた。
遠目からでも柄の良くない男たちが、ゲラゲラ笑いながら顔を出すと、ほとんど悲鳴のように叫んでいる男を引きずり、水溜めへ放り込む。
バシャアアッと水飛沫が上がり、そこにひれを持つ海蛇のような魔物が襲いかかり、それを見物しようというのか男たちが身を乗り出して、滑る足を堪え戻ろうとしているこっちに、気づいた。
人を指差して笑いながら、そのうちの一人、背は低めの男がボウガンを取り出し、ピタリとこちらを狙いつける。
……まずい。
嫌な汗が体を伝っていく。今にも発射されるかというところで、入り口で待機していたアルフレッドが、カバンからY字型投石機を取り出し、手早く狙い定めて、打った。
石はビュウと風を切り、違わずボウガンを構える男の体に当たる。二度三度と彼が打ち続ける間に、シャロンはなんとか戻り、扉を開けて中へと避難した。
「助かった」
はあ、はあと呼吸して激しい動悸を鎮めつつ、手を握り締めた。
さすがにアルフレッドの顔色も悪い。
「ちょっと、焦った」
「……そうか?全然、そんな感じに見えなかった」
床に座り込み、足を投げ出していると、徐々に冷静さが戻ってくる。
「投げ込まれた奴は、もう駄目だろうか」
衝動的に立ち上がり、扉を開けようとしてアルに止められる。
「この状況で僕たちにできることは、何もない」
「……知ってるよ」
やりきれない思いが募る。
ここは無法地帯、すなわち、強さこそが支配する場所。油断する奴が悪いと、頭のどこかではわかっている。それでも……
「それでも、私は……」
知らず知らずのうちに思いが口を衝き、アルが心配そうにこちらを窺っている。
「なんでもない。行こう」
首を振って促し、注意深く扉を開けて戻ると、そこにはもはや痕跡はほとんどなく、濁った水が波打っているだけだった。