硝子の城 2
※ほとんどがシャロンの独白で、いつもより五割増しで暗いです。
次の日、二日酔いでずきずきと痛む頭を抑えながら宿の食堂へ行くと、入り口近くの席に座っていたアルフレッドが立ち上がり、わざわざ寄ってきた。
「……大丈夫?」
「……ああ、心配ない。しばらくすれば収まるから」
とにかくテーブルにつき、水を一杯くれと頼んで、突っ伏したいのを我慢して無理やり顔を上げると、心配そうな目がこちらを見つめているのに出会った。
「……何か、悩みごとでも」
「うるさいな、ほっといてくれ」
目を逸らして低くつっぱねた。こいつを見ているとどうにもいらいらする。……原因ははっきりしていた。
まだ、たった二ヶ月。それだけしか経っていないのに、アルフレッドの剣は、私に追いつき、乗り越えようとしている。私も決して努力を怠っているわけじゃない、それなのに、だ。
「……悪い。頭を冷やしてくる。ついてくるなよ」
そう言い捨て、そのまま宿の裏手にある井戸へと向かった。
……忘れていたが、朝は宿屋の働き手たちが非常に忙しない時間帯でもあった。もちろん井戸は洗濯や水汲みでにぎわっていて、とても頭を冷やすどころではない。
背を向けて、近くの林の中でごろりと横になった。
「何をやっているんだろうな」
アルフレッドが嫌いなわけじゃない。ただ……こんな醜いどろどろな感情のままで、一緒に旅を続けることはできそうもない。それにもし、あいつがあの早さで強くなっていったら……私は、いずれ足手まといにしか、ならなくなる。
強い絶望感に襲われ、ぎゅっと目を閉じる。考えないようにしていても、その思いはぐるぐると頭の中で渦を巻いていた。
そういえば、小さい頃もおんなじように悩んでいたことがあったな……。まったく私は、昔から成長していない……。
『大丈夫』
あの人の、声がした。
『そうやって苦しんだり、悩んだりするのは、体が経験値を溜めているんだから。ちゃんと成長できますようにって』
──────私に母親と妹ができてから、数ヶ月。乳母はいつのまにかいなくなり、母であるジュリエッタは、まず読み書きから、礼儀作法までが学べるようにと新しく家庭教師を雇うことにしたらしかった。
『パトリシア・ルーカスです。よろしくね』
はしばみ色の瞳で、溢れんばかりの笑顔でそう挨拶してきた先生を、私は初めて会ったその瞬間にいっぺんで気に入ってしまった。
絵本の中で、今まで意味不明な落書きにしか見えなかったものが、読めるようになっていく。それはとても楽しい時間だったが、同時に苦しい時間でもあった。
『先生、できました。これでどうですか?』
妹エレナが先に書き取りを終え、ふふんと得意げにトリシア先生に提出する。
『あら、すっごくきれいな字ね。頑張って練習してきたんでしょう』
褒める先生に満面の笑みで応えながら、
『だって、今日はお母さまとお父さまはお芝居を見にいくんです。この書き取りが早く終われば、連れて行ってくれるって。……じゃあね、シャロン。しっかり勉強してね』
うきうきと足取りも軽く、部屋を出ていくエレナを見送り、私はどんなに羽ペンを動かしてもちっとも埋まらない白いページに、涙が出そうだった。
『あっ……』
ペン先からインクがぽつり、ぽつりと落ち、黒いまだらを作っていく。
『せんせぇ……どうしてこう、うまく書けないのかなあ……私だって、練習しているのに……。こんなだから、みんなに、呆れられちゃうのかなあ……父さまと、母さまだって、エリーといるときはいつも楽しそうなのに、私がくると……』
どうしてだろう。別に特別冷たくされるわけじゃない。それなのに、なぜか三人と私のあいだに、まるで透明な壁がそびえているように感じられるのは。
先生は、泣き出した私の背中を優しくさすり、こうささやいた。
『シャロン、大丈夫だから。あなたは確かに時間はかかるけど、いつも最後にはできているでしょう?……今、あなたが苦しいのは、体が経験値を溜めているんだから。ちゃんと成長できますようにって』
『……うん、いつか、母さまと父さまに、褒めてもらうんだ』
泣きながら笑い、必死に手を動かす自分。あのころはまだ、夢をみることができていた。
数年後、トリシア先生は父の浮気相手だと疑われ、違います、との言葉にも母は耳を貸さず、彼女に解雇を言い渡した。
……私は知っていた。彼女が父親に言い寄られていると。その光景を目撃していたから。
止めることもできず、別れの言葉すらも交わさないままに、彼女が屋敷を去った夜。……私は自分の部屋の、硝子の城を壁に叩きつけ、今まで抱き続けた両親への期待とともに、粉々に打ち砕いた。
ふっと、目を開くと、まだ林の中で、近くの井戸からはザブザブと布を洗う音やバケツの音が聞こえていた。
シャロンは身を起こし、そう時間が経っていないのを確かめて宿へ戻ることにした。
アルフレッドのことは嫌いじゃないから──────この気持ちが育つ前に、別れた方がいいのかもしれない。そんな思いを胸に抱きながら。
パトリシア→愛称トリシア
・中流階級の貴族。実家がお金に困り、娘を働きに出すしかなくなった。貴族ではあるが、働きに出た時点で他からは見下されることに。
・この読み書きを教わっているときのシャロンは十歳。エレナは九歳で、突然現れたライバル=シャロンに差をつけたいお年頃。