硝子の城 1
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乾いた大地と草原、小柄だが丈夫な馬や羊の群れと別れを告げ、さらに南へ下ると、気候は夏へと少しずつ切り替わっていった。
林の小道を抜けているあいだにも、太陽はぎらぎらと真上から照りつけている。暑さが苦手なアルフレッドは、薄着になって木陰を歩いていてもぐったりした表情は変わらない。
そう、今は日照り月。明々後日は私の……。そこまでで考えるのをやめ、シャロンはアルフレッドに少し休もう、と呼びかけた。
水分補給をすると落ち着いたのか、彼は黙って立ち上がると剣を抜き、素振りを始める。シャロンはその無駄のない動きを見るたびに、胸のうちにもやもやした黒い感情が沸き上がるのを自覚していた。
少しぐらい休めばいいのに――――――という心の呟きすらも、卑屈に聞こえる。これ以上内なる醜態を晒す前にと、シャロンは目を閉じた。
そもそも、誕生日にはあまりいい思い出がないのにもかかわらず、自分の生まれた日、ただそれだけのことで、特別な日なのではないかと、どこかで期待してしまっている自分が嫌だ――――。
幼いころは、絵本の中の世界が憧れだった。竜と戦う騎士や、高い塔に閉じ込められたお姫さま。それらの不思議な話は、決して自分のまわりにはない物語。
『ばあや、ほんをよんで』
『お嬢さま、ばあやは忙しいんですよ。ご自分でおよみなさい』
『……はあい』
実の母さまの記憶はほとんどない……うっすらと儚げな女性の姿が思い浮かぶが、果たしてそれは母さまだったのかどうかもわからない……。
父さまはめったに家に帰らず、乳母も何やらせっせと繕いものをしているとなれば、後は本を読むか、人形遊びぐらいしかすることがなかった。
豪華な部屋の飾り棚の上にあるのは硝子のお城。もっともっと昔、誕生日に父さまから貰ったもの。後は、きれいなドレスを着たお姫さまや王子さま、動物たちの人形、床を埋め尽くさんばかりの絵本、絵本、絵本―――。
『父さまはこんどいつお帰りになるの』
『さあね、ばあやには分かりませんよ。そんなこと言って困らせないでくださいな』
『……だって、誕生日……』
夜まで待っても帰らない父さま。眠いのを我慢して床に置かれた絵本を広げれば、たちまちそこには世界が広がっていく。現実よりよっぽど魅力的な、世界が。
『お嬢さまって本当手がかからずに助かるわね。絵本さえ置いておけばごきげんなんだから』
『……でも、旦那さまもすごいわよ。奥さまが療養なさっているのをいいことに子どもほっといて愛人のところでしょ?』
『そうそう、なんでも、あっちにもいるらしいわ。それもお嬢さまとそう年の変わらない娘さんみたいなの』
『ええ~、やっる~』
……乳母と入れ替わるようにして掃除に来たメイドたちのおしゃべりを聞くのも、来ない父さまの帰りを待ちつづけるのも、つかれた。そして私はいつものように絵本を閉じ、ベッドに体をもたせかけて眠りにつく。
突然肩を揺すられ、シャロンは跳ね起きた。
「う、わっ」
目の前にはアルフレッドの真剣な顔がある。
「……大丈夫?ここに、しわ寄せてた」
トン、トンと彼は自分の眉間を叩く。
「いや、大丈夫だから」
不自然にならない程度に目を逸らし、腰の剣を握り締める。
「……行こう」
林を出て、まだ育ちきっていない麦畑をひたすらまっすぐに歩くと、やがて村が見えてきて、今夜はそこで泊まることになった。
宿を取り、酒場へ繰り出すと、アルフレッドはやはり当然のようについてきて、そのことに苛立ちを覚えながらも酒を注文する。
「……親父、とりあえず強いのを頼む」
「ねえさんやるねぃ。どっからきなすったんだい」
ほっといてくれ、と低く返すと、肩をすくめてアルフレッドの方へ向き直り、
「こりゃご機嫌斜めだねぃ。……あんたさん、喧嘩でもしたのかぃい?」
ひそひそとささやきかける。そ知らぬふりでいると、店主は酒を二人分注ぎながら、おたくどこからきなすった、ああ、グレンタールとはまた遠いとこから。何か面白いことあったかねぃ、とアルフレッドと話を続けている。
「……やっと来た」
置かれた酒をひとまず一気にあおり、肺腑が焼けるような感触を味わった。もう、今日はこのまま飲み続けてしまおう。そしたら、余計なことは考えずに済む――――――。
十を過ぎるころ、療養していた母の病が悪化して帰らぬ人となった。喪に服していた時期が明け、珍しくご機嫌な父親に引き合わされたのは、フリルをふんだんにあしらったドレスを着こなした美女と、ほとんど年の変わらぬ妹。
『これから彼女たちがおまえの母さまと、妹だ。仲良くするんだぞ』
『シャロンです。よろしくお願いします……』
『私はオリヴィア、この子はエレナというの。これから一緒に住むことになるのだから、仲良くしましょうね』
母となった人がにっこりと微笑みかける。エレナは人見知りしているのか、釣鐘のようなスカートにしがみついたままこちらを窺っている。同じ年くらいの女の子に会うのは初めてだったので、どきどきしながらよろしく、と笑いかけたが、残念ながらそっぽを向かれてしまった。
『……あらあら、照れているのかしらねえ。ごめんなさいね』
私はふるふると首を振り、これからの生活はきっとにぎやかで楽しいに違いない、と期待に胸を膨らませていた。
義理の母親ですが、実の母をあまり知らないせいもあり、シャロンはなるべく区別をつけないようにしています。