今、ここに
2019年4月14日、長いため二つに分けました。内容は同じなのでご注意ください。
風と嫌な色をした雲。これは、吹雪きそうだ、と思い見渡せど、深い穴と銀世界。……非常にまずい。しかも、相当寒い。凍えそうだ。
腕をこすり身を縮め、震えながらもシャロンは、ザクザク雪を踏み、時折ズボッと深みに嵌まりつつ、森の方へと足を速め……ぴたりと動きを止めた。
ガキィン、ガキィン!と激しく硬質な音とともに、獣の息づかいと唸り声が耳に飛び込んでくる。そのまま、息を殺し低くしゃがみ込む。大きく空いた穴の向こうで、巨大すぎる異形の獣がぶつかり合い、戦っていた。
グァルルルゥウ!
片方は、白の毛並み。まるで2頭の胡狼にも似た獣を縦に切り、張り合わせたような巨大体躯、ガチ、ガチと威嚇する牙は鋭く、足は八本ふさふさとした尾は二つ。
それに対峙するは、ヘラジカ……なのだろう。こちらも大きく、焦げ茶の毛並み金色の鬣に、氷柱でできたような透き通る立派な角を振り立て蹄で雪を掻き、鼻息荒く胡狼を迎え待つ。
ガキィン!
このままだと巻き添えを食う。まだ、距離はある。茂みに身を隠し、じりじりと這うようにしゃがんだまま、少しずつ少しずつ遠ざかるため動いていく。そのシャロンの視線の先で、胡狼が跳躍する。
双頭のうち一つが牙を剥きみつこうとしたその牙をヘラジカは鋭い角で受け、鼻先にその剣を突き立てた。ギャィン!と悲鳴が響き、鮮血が散る。かと思えば、もう一つがその口をガバリと開け、口から青黒い液体を噴射した。
直接目潰しを食らったヘラジカは後退り前足を掻く。鼻を刺されたもう一頭が回復し、今度は炎を吐き出し、その色が紫に代わる。ツンとした刺激臭に肉の焼ける臭いが混ざり、悪臭を漂わせる。
一足跳びに退き、体勢を立て直そうとしたヘラジカの足元がふらつく。勝鬨の声を上げ、巨頭がその短い喉笛目掛け、食らいつき、二三度頭を振りおそらくは致命傷を負わせた。しかしヘラジカもさるもの、力を振り絞り、最後の抵抗を試みる!
今のうちだ。
大きな獲物に止めを刺そうと躍起になっているその隙をつき、シャロンは足を急ぎ足に変え、やがて立ち上がり振り返ることなく一目散に森の中へ駆け出した。
ルルルルル……
風に乗り、聞こえる地響きとヘラジカの苦鳴、低い唸り音と息づかい。雪に嵌まらないよう注意し森まで来ると、駆けていた足を少しずつ緩め、木の根元の足場の固い部分を選びながらさらに遠ざかる。風が強くなり、雪が混じってきた。
急いで死闘の場を逃れれば、寒いのにじっとりと汗ばむ心地がする。先ほどからきつく握っていた剣の柄から、ゆっくりと手を離した。途端に、風が強くなった。驚いて、もう一度柄を握り締める。先ほどより、風が弱くなったように感じるのはなぜなんだろう。
運悪く、茂みの枝が服へ引っかかった。あ、と思う間もなく枝は跳ね上がり、ドサドサと雪が下へ落ちる。心臓が大きく鳴る。逃げてきた方向を見やれば木々の合間から、獲物に夢中になっていたうちの片方が頭をもたげるのが見えた。黒光りする一対の眼と視線が絡み、もう一つが続けていた食事を止めた。
ォオオオオゥ
遠吠え。二つ首の巨体を持つ白の胡狼が、意外な速さでこちらへ迫ってくる。シャロンはすぐさま踵を返し、さらに森の奥へに入った。木々が奴の動きを止めてくれることを祈る。
駄目だ、追いつかれた!
剣で咄嗟にその牙を受けようとして、なぜか大きく弾かれ、吹っ飛ばされる。ごろごろと雪の上を転がり、開けた場所に出た。というより、元の所に戻ってきた、という方が正しい。起き上がり剣を構え、対峙する。
奴の突進が来る。またしても牙が届く前に撥ね飛ばされ、シャロンは宙に浮き……巨大胡狼の背中の上を滑り、反対側へ下りた。
風か。なぜかわからないが、風が周辺に巻き起こっている。剣の柄に触れ、念じれば、雪がくるくると小さな渦を巻く。
シャロンは剣を構えた。獣の首の一つがこちらを見据え、吠えた。
ォオオオオオオオン
もう一つはしきりに何かを気にしているかのように横を、ちらちらと見ている。
ザザザザザザ、と音がした。何か……荒ぶる気配がやって来る。新手か!
シャロンは咄嗟に剣を向けようとしたが、それより早く、雪まみれの奇妙なものに跳びつかれた。
「やっと、見つけた………!!」
訳が分からないまま、その勢いに負け、シャロンは仰向けに雪の中へ、倒れ込んだ。
髪は不揃い、剃り残しがちらほらある顎。ひどい鉤裂きができている服。まるで浮浪者のそれだが、深い青灰色の眼差しは澄んでいて、上から何かを訴えかけるようにこっちを見つめている。
「って、それどころじゃない!どけ!」
撥ね除けて、すぐさま起き上がる。なんだか傷ついたような顔をしてたが、知ったことか!
なぜか巨大胡狼はすぐに攻撃はして来ず、二三歩後退りし、嘔吐くような奇妙な音を立てている。
「シャロン、シャロン!会いたかった!」
「状況を読め!なんだか知らないが、それどころじゃないだろ!」
またしても跳びかかってこようとする男を制し、叫ぶ。あの魔獣をまったく無視できる剛胆ぶりはすごいとは思うが……。
「ああ、あれか」
ふいっと魔獣を向き、まるで先ほどの勢いが嘘だったかのように表情が消える。
「すぐにやる」
彼の体が掻き消えた。いや、違う。掻き消えたかのような速さで動いただけ。わずかに目に残った残像に、シャロンはせわしなく瞬きをし、援助するため後を追う。
剣を構えた彼が横にまわる。怯えたような表情の狼が、突然どす黒いものを勢いよく噴射した。危ない!咄嗟に風をぶつけ、彼を跳ね飛ばす。裾広がりの長い槍のようなものは雪の上に不規則な線の模様を描く。鼻を摘まみたくなるような嫌な臭い。すぐさまもう一つの頭が、口を大きく開け、そこから炎を吐き出した。
周囲に紫の炎が数多く燃え上がり雪を彩り異臭が漂う。あのどす黒いのは油か何かだろうか。雪交じりの風にも消えず燃え盛る炎に黒紫の煙、あれはよくないものだ、と直感的に悟る。
「煙から距離を取れ!」
視界が少しずつ悪くなっている。炎の勢いも弱まってきたが……位置がよくない。
黒い巨体が跳ねた。やすやすと炎を越え、荒い生臭い息がかかりそうなほど近くに迫り来たその牙を避け、シャロンはその鼻面を剣で浅く斬りつけた。
ギャウ、と鈍く鳴き、その隣の首が至近距離から咆哮を放つ。あまりの大音に一瞬意識が吹っ飛び、何も聞こえなくなる。
ビクン、と襲いかかろうとした胡狼の体が跳ねた。……どうやら後ろから斬りつけたらしい。巨大な狼の頭が苦痛に歪み、体全体を激しくねじり震わせよろめいた。
下敷きとなるのを避けるため、シャロンは風を使い飛び退る。
「大丈夫か!」
叫ぶと胡狼の背後を取るように動く影。
未だ耳は良く聞こえず……その男は何かを訴えるようにこちらを見……指でまっすぐ上を指した。上?
仰ぎ見た。雪は後から後から降ってくる。いや、雪を指したのではないはず!
身を捩っていた双頭の胡狼が体勢を立て直すタイミングでシャロンは悟り、理解が遅れたのをすまなく思いながら風で彼の体を獣の頭上へ高く放り上げた。
常人なら墜落死する高さだ。もしあの巨体が回避したら……?
シャロンは不安になりたまらず双頭の胡狼の前に躍り出て、わずかに眩暈の残る頭を振りながら剣を構え、風で片方の鼻面を打ち、雪面を蹴ってもう片方へ斬りかかる。こちらは炎。
牙のある大口から火球が目の前に生まれた。風を纏わせた剣でそれを二つに斬り裂き、炎の熱さを感じながら下から上顎、脳天目掛けて剣を突き刺した。一拍遅れて隣から鈍く重い衝撃が伝わる。
彼がもう片方の狼頭を、上からきっと貫いた。そう信じ剣を抜き、風を使い自らを煮えたぎった体液から庇いその顎から離脱した。
ちょうど、同じような位置に彼が、下り立つところだった。雪でけぶる巨体はぐらつき、やがてドウ、と地面に倒れ伏す。
やったな、というように相手に頷いてみせたが、しかし状況はよくない。辺りの視界は悪く、本格的に吹雪いてきた。
こんなところで凍死は嫌だ。急速に冷えてもはや痛みを覚えるほどになってきた体を震わせそう思っていると、彼が上着を脱いでこちらに被せ……手を強く握ると、引いて早足で歩き出した。
視界は悪く、辺りは吹雪……にも関わらず、自分の鼓動がやたら早く、頬が上気する。あの、毒煙の影響だろうか。
彼の握る手も、手袋越しでもやたら熱いように感じたから、きっとそうに違いない。
雪山から麓の町へ、やっとの思いで辿り着けば、吹雪が嘘のように晴れた。
理不尽に感じながら空を睨み、アルフレッドと名乗った男に手を引かれ、グレンタールという町の、組合と宿をそれぞれ案内される。
宿で部屋を取り、雪が解けてびしょ濡れの上着を着替え……ベストとシャツの上に直接コートを羽織る。……妙な格好だが、仕方がない。
そう、コート……なぜか奴が渡してきた背負い鞄の中に、サイズぴったりのが入っていた。もともとこれは、私の鞄で、預かっていたらしい。
宿では、人の好さそうな主人が笑顔で送り出してくれた。アルフレッドは、不慣れな私の手を握り、離すことなく、まるで当然のように二人用の部屋を取った。一応、着替える時は出てはくれたものの……。
組合でも宿でも、彼の知り合いらしい男たちが笑みを浮かべ、時には涙を滲ませてよかったなあ、とアルフレッドの肩を叩く。頭を小突いたり、首を拘束したりされるアルフレッドは、無表情な中にも不機嫌そうではなく。誰もかれもが祝福し、盛大に祝おう!また後でいつもの場所に寄れよ、アルフレッド!なんて叫んで彼を解放する。
これは、あれだ。気まずいことこの上ない。
「なあアルフレッド……ひょっとして、私とおまえって、恋人同士だったのか?しかも……わりと深い仲、のような?」
おそるおそる尋ねれば、
「ああ」
ととてもイイ笑顔が返ってきた。そんな記憶まったくないんだが……。
シャロンは空を仰いだ。青空にくっきりとした雲が浮かんでいる。しばしじっと考え……そして、考えても何も出てこなかったので、真面目な顔で、
「悪いが、覚えがない。というか、自分の名前以外、何もわからないんだ」
正直に告げる。
「ああ、別に構わない。傍にいてくれればそれで」
アルフレッドはさもなんでもないことのように、恥ずかしい台詞を返してきた。
「あ、そう…………」
居たたまれない。相当熱烈な関係だったんだろうか……あまり実感は沸かないが。
急ぐでもなくのんびりと、石畳の道を歩きながら立ち並ぶ店を冷やかす。ふと、肉の焼けるいい匂いが屋台から漂ってきて……お腹がくぅ、と訴える。
「シャロン……待ってて」
すぐさまそれに反応した奴が、駆け出し、威勢のいいおばちゃんとやり取りをしてから焼き串を二本、手に笑みを浮かべて戻ってきた。
「はい、これ」
いい感じに焼かれたきつね色の焦げ目とタレの匂いが鼻をくすぐり、パクッと食いつくと、肉汁が口の中に広がった。あれ?やけにしょっぱく………。
「なんだろう……これ……」
涙が止まらない。悲しくはないのに、拭っても拭っても、後から後から溢れ出す。アルフレッドがふっと、小さく微笑んで、落ち着かせるように上から頭を、撫でる。
「シャロン。シャロン……また会えてよかった」
「…………」
じわり、と暖かな感情が、心から染み出す。懐かしい、不思議な感覚が、体を包み込む。涙が溢れきて、止まらない。
「あ……わ、私、私もだよ、アル……」
濡れた頬を撫でる風が、確かに春の訪れを告げているのを感じる。もう、すぐそこに――――――。