異郷
お待たせしてすみません。
最初は、新たな獣かと思われた。
夕暮れ、狐か狼かわからない魔獣の群れに襲われた商隊の目の前で走る一閃と、血飛沫に誰もが声も出ないでいると、襤褸切れを引きずっているかのようにも見えるその、人は、そこに居並ぶ敵を薙ぎ倒し、疾風のように去っていく。
……残されたのは、命が救われたことにも気づかず、呆然と佇む商人たちだけ。
酒場のほとんどが耳を傾ける中、そんな短い話を語り終えた男に、カウンターにいた金髪碧眼の青年がパッと下りて駆け寄ってくる。
「凄まじい奴だな。で、そいつは、どこで現れたんだ?」
「ああ、ここから北の――――――ミストランテに近いとこじゃねえか?」
今度はミストランテか。まったく何をしているんだか……最近では痕跡を殺すのがうまくなり、追うのも厄介になったあいつは、いつでもその噂には尽きることがない。
どこへ行っても、宿屋で、酒場で、ふとした拍子に誰かが必ず詠い出す。酔っ払いなら調子っぱずれに、吟遊詩人なら、流れるように滔々と。決して奢らず、魔物を滅ぼし、人を救いながら長い旅を歩む剣士の話が語られ、そしていつでもこう締めくくられる。
彼は、再び巡り会う、そのたった一つの願いを心に灯し、今なお彷徨い続けているのだ、と。
内心ぼやきながらもジークは、突然現れ名も名乗らず去っていく‘勇者’の話で盛り上がる人々を尻目に、酒場を後にした。
アルフレッドは、道行きの後ろからゆっくり広がる噂に、以前は何か情報が返ることを期待していたが、もうとうの昔に諦め、辟易しながら動いていた。
ミストランテを後にし、ストラウム、ターミル。異変もなく空虚な石柱群に失望しつつもビスタの湖畔に辿り着く。
美しい水と景色だが、荒涼とした自分を潤すことはできなかった。ただ、義務的に水と食料を口にして、遺跡の探索をし、得るものがなければそこから離れ、別の場所へと移動する。
気を抜くと、人がまわりに集まってくる。その煩わしさに気配を殺し。必要な時だけ、こちらから問う。……このままいけば、もうすぐグレンタールに着く。
故郷の。
呟いてみたが、心はまったく動かず、何も感じなかったことに、アルフレッドはかすかに動揺したが、すぐにその感情も呑み込まれた。心に巣食う、砂溜まりのような場所に。
……餓えている。再び、グレンタールに戻ってきた。そのことにやはり何の感慨も抱かぬまま。
流れていく喧噪、人混み。春めいた他とは違い、冷たい北方の空気を肌で感じながら、辿りついた自分の居住は、まだ残っていた。硬い寝台の隣に座り込み、ふと、目を閉じる。
あの時のことが、まざまざと、本当に昨日のことのように思い出せるのに、自分はなぜここにいるのだろう。
顔見知りが、数人驚いたようにこちらを見……声を掛けられる前に姿を消した。ああ、何もかも消えてしまえばいい。
かろうじて水と携帯食料を口にして、冷え切った部屋で泥のように眠る。夜明けとともに起きて、グレンタールで最も有名な、見晴らしのいい、あの丘を目指し、歩き出した。
ここのところ体力が落ちている。どうでもいい。
くだらないことをつらつらと考えながら、前よりしっかりと踏み固められた道を歩いていく。歩くにつれ、雪渓がところどころ現れ、ギシギシと地面が軋む。やがて、陽の光が差し込んできた。
今は晴れ間が見えているが、その先は荒れ模様。吹雪くかも知れない。
そんなことを考えながら、足を突き立てるようにして雪渓と大岩地帯を上り、高台へと辿り着いた。ほぼ、白。雪と森だけの単純な世界。そして、その東には。
そうだ。ほとんどの遺跡は巡り終えた。あの場所に広がるは深淵への入口。最後の手段としてこの身を投げ入れ、本当に繋がるのかどうか、試してみようか。
……それは、抗いがたい誘惑に思えた。無言のまま、雪の大地に空いた黒い楕円の穴にじっと、目を凝らす。
ふと、心臓が跳ねた。何かいる。
あの大きさは……魔獣のそれだが、妙な動きをしている。まるで、何かと戦っているような……。
ほとんど点としか見えぬ何かが、跳ねているのを目をしたアルフレッドは、すぐさま踵を返した。幾度となく、通ってきた地獄口への道程。そこへ向かう足取りは速く、そして、強かった。
現とは隔絶された、昼も夜も無く、‘時’の概念が曖昧な空間に、渇いた風が赤砂を巻き上げ、強く吹いた。顔に何度か砂を叩きつけられ、喉がひりつくような乾きに、彼女が足に力を入れ体を起こせば、広がるのは、遙か彼方まで続く赤土の大地。
体中の砂を払い、首を振って意識をはっきりさせようと試みて失敗し、やがて、ゆっくりと歩き出す。
「そら、空……砂。つ、土。白。白い雲」
ひどい頭の痛みに耐えながら赤砂を踏み締め、ふらふらと進んでいく。
「ここは……どこだ。私……なまえ。なまえは……」
何もわからない。おかしい。ものの名前はわかるのに。
こういうときは……。
一度深く目を閉じ、頭を振って深呼吸をした。気持ちを落ち着けて、再び目を開く。赤茶けた大地を背景に、灰色のフードを被った、小柄な人物が立っていた。
叫び声を上げなかったのは奇跡に等しい。驚き慌てる自分を前に、相手はすぐにフードを取り、すみません、と丁寧に頭を下げた。
「調整の詰めが甘かったようです……待たせてしまいましたね」
肩口まで切り揃えられた艶やかな黒髪に、乾燥地帯でやっていけるのか、と心配になるほど白い肌。髪と同色の漆黒の瞳がこちらを見つめ、少女は柔らかく微笑んでいた。
なぜだか、その笑顔に、胸が締めつけられるような心地がする。
「欠片の私が、核となるだけの力を蓄えるまでに随分とかかってしまい、本当に申し訳ありません」
もう一度深々と頭を下げ、目を伏せたまま静かに少女は話し始める。
「シャロンさん、あなたは初めは夢を見ていた……変わらず、親しい人と旅をする、幸せな夢を。ですが……」
ああ、私はシャロンという名前なのか。しっくり馴染む響きに、そうシャロンは悟る。
「長い時の中で、いつしかその違和感に耐えられず、あなたは絶望とともに夢から覚めた。永い時は、人には辛く耐えがたい……。自分自身を孤独から守るため、あなたはまるごと記憶をすべて封印することを選んだ。何も感じることのないよう……起きながら眠っている状態だった、と言っても良いかも知れません」
少女は一生懸命説明してくれているのに、何を言っているのかほとんど理解できない。
少しばかり悲しい気持ちになりながら、
「それで、どうして私は起きたんだ」
そう、問いかけた。
「私が起こしました」
「そうなのか。それは……ありがとう?」
「お礼を言う必要はありません。時間がかかりすぎた……そのせいで、あなたは、帰れないところでした。本当は」
すっ、とシャロンの胸元を指差す。……胸元?
つけていた鎖を引っ張り出すと、なぜかそこに金貨が下げられていた。いざという時のためのものだろうか。
金貨は淡く、光を放つ。
「本来ならこの地は、現と分かたれるはずだった。この世界は崩壊に向かっています。あなたの望み通り、あちらと切り離されたまま、少しずつ大地へと還元していく。……なるべく影響が起こりにくいように、自然な形で」
「はあ」
「二つの世界を繋ぎ止めていたのは、彼の、そしてあなたの意思。やっと、時が満ち、あなたは帰ることができる」
心の底から嬉しそうに、ふわりと少女は微笑んだ。
「やっぱり物語は、ちゃんと幸福な結末じゃないと」
手を置かれ、あちらに戻ってください、との思いを込められ肩を押されたその瞬間、シャロンの胸の内に、ふいに言葉が浮かび上がってきた。
「ありがとう。……ありがとう、ニーナ」
笑って手を振る彼女が滲む。しっかりとその笑顔に頷いて、今度こそ後ろを振り返る。するとそこには……一面の銀世界が広がっていた。
空は雲が覆い、晴れ間がきれぎれに覗く。目の前は黒々とした深そうな……ひたすら深そうな広い穴と、森と、雪景色。それを眺めシャロンは……ここはどこだ、と呟いた。
次回完結予定。