白き峰の奥深く 1
お待たせしてすみません。この番外は北の町グレンタールでの過去話になります。また、一部下品な表現がありますので、苦手な方はご注意ください。
今日も山は白く覆われ、合間を抜けて“龍の嘶き”がすさび遠く高く木霊する。
ザク、ザク、ザクと、雪を軋ませ足音が響く。よく晴れた青い空の元、あるかないかの山道を、筋骨逞しき男グリードが、少し見ぬうちに伸びてきた枝々をやや大きめの剣で切り拓き、しっかりと足で踏み締めながら歩いていた。
人が歩かねば道は消え失せ、また新たに開拓するには倍の労力がかかる。こうやって道を残すのは手間のいる仕事だが、老いて一線を退いた自分には相応しい、とグリードは考えていた。
壮年も過ぎ、若かりし頃は白金と謳われた髪も白いものが混じり、日に焼けた顔には幾筋もの傷跡が残る。それでもなお、二筋に渡り振るう剣は力強く、速く、決して老いというものを他者に感じさせない気迫を伴う。
予想より、拓けている。
まるで、つい先ほど誰かが通ったかのようだ。
煙るような嫌な予感に顔をしかめながら、肩先に引っかかる枝葉をバサバサと無尽蔵に薙ぎ倒し歩くことしばらく。
ようやっと、目的地、“地獄穴”が見えてきた。
素面であれを覗くのは、なかなか肝が冷える、などと強まる嫌な感覚をごまかすため嘯きながら、少しずつ開けていく視界を見透かすと、その先に、昏い深淵の縁、そこに立ち尽くす小さな人影が映った。
糞、と悪態を吐き、走る。観光には少しばかり早すぎる。人気のないここに来る奴の目的はだいたい一つ――――――。
「止まれ!さもなくば斬る!」
死のうとしている相手に咄嗟の足止めのため叫び、雪を蹴り退ける勢いで走るグリードは、やがて歩みを止め、脱力した。
そこにいたのは、年端も行かない5、6歳ぐらいの、黒髪の少年だった。
血の気の失せた顔で、ぼんやりと穴の闇を眺めている。
足元に置かれたカバンに、何枚も巻きつけられた毛皮の上着と外套。
……親は、連れていくのには忍びなかったに違いない。ぼんやりと遠くを眺めるその顔に、おい大丈夫かと手を置けば、まるで氷のように冷え切っていた。
少年は、連れ帰っても、一言もしゃべらなかった。腹を空かせていたらしく、ガツガツと食事をし、硬い寝台に身を丸くして猫のように眠る。
夜半過ぎ、咳が出た。起こして水を飲ませ、背中をさすれば、いったん落ち着くも、またぶり返す。
次の日に街の薬師にも診せてはみたが、よくわからん、と首を振るばかりで役に立たず、仕方なく連れ歩く。……服の裾からかろうじて、‘アルフレッド’の名だけが読め、縁者の見当もまったくつかない。
「おいグリード!どうした、コレに逃げられたか。おめえも焼きがまわったな」
知り合いに合えば、からかわれ、相手は誰だと揶揄される。
孤児院に預けようにも、病魔憑きはお断りだ、と罵られ、仕方なく連れ歩く。
山に入れば、咳は止む。街に入れば、ぶり返す。……山の魔物に魅入られたかのごときその様に、あれこれと言ってくる人間もいて、しかしグリードは決然とこう答えた。
「――――――ここの空気が合わぬかも知れん。山で療養させればいいだけのこと」
季節は春から初夏に変わる。吹雪いた時の待機場所として見つけておいた天然の洞窟に、魔物避けの柵と罠を周囲にめぐらせ、住みやすく誂えた。
アルフレッドは、最初はほとんどしゃべらずにいたが、我慢強く話しかけるうち、少しずつ、言葉を返すようにはなってきた。
しかし、読み書きは嫌がり、すぐに森に逃げる。
羽ペンよりナイフを握り、獲物をさばき、呼吸をするように気配の消し方を身に付けた。あっというまに小さな獲物の狩り方、絞め方、血抜きを覚え、アルフレッドのおかげで食料には事欠かないようになった。
夏が過ぎ、秋が来て、そろそろ山にもいられなくなるかどうか、というギリギリの頃合いまでにはなんとか喘息は収まり、街に出られるようになっていった。ぽつぽつと話せるようにもなった。
ただ、読み書きなどはまったく身についておらず、まあ、おいおいに、と思っているうちにも月日は飛ぶように過ぎた。
体が弱いのもあるのか、剣は不得手なアルフレッドだったが、身体を動かす方が性に合うようで、いくつかの体術を教えたのちは、狂暴な獣がいてもなお山に入ることを好み、グリードのいる小屋のような借り宿へは、ふらりと食事と寝に戻ってきては、去っていく。
養子にはしないのか、と尋ねた馴染みの飲み仲間に、笑いながら、首を振る。同じ質問が度々繰り返され、他の奴らにもその度に、あいつが望んだらな、と答えを返した。
こんな先も見えない、うだつもあがらない年寄りに縛られたところで、いいことなど何もない。
春が来て、また厳しい冬が過ぎ、何回かの四季は巡る。
アルフレッドも齢13、4になった。相変わらず剣には振り回されているが、狩人として、得物の扱い方、気配の絶ち方、罠の張り方、獣の捌き方に至るまで、大人と引けを取らないぐらいにまで成長した。
名前やいくつかの単語、文の作り方など、本当に簡単な読み書きは何とか身に付けさせたが……どうも、うまくいかない。それどころか、次第に、夜に家を空けることが増え、ある日の明け方残り香をつけて帰ってきて、動揺した。
迂闊な行動は慎めと一喝したのが不味かったのか、奴はふっつりと姿を消し……それからしばらく、街で、寝る場所ぐらいは確保しているようだが……あいつに会えば凄まじい眼差しで睨みつけられ、足早に去られるのが日常と化していた。
……思えば、俺が親父を殴り飛ばし家を出たのも同じぐらいだった。それきり家には帰らなかったから、親不孝者としか言いようがない。
そんなことを考え、遠い目をしつつ行きつけの酒場でライ麦酒のジョッキを何杯か重ねていると、馴染みの居酒屋マスターと、いくつかある組合の派出所窓口も兼ねている壮年の主人、カルヴェンから声がかかった。
「なあ、グリード。おまえ、今空いてるだろ。ちょっと頼まれてくれ」
そう切り出したところによると、なんでも、数日前、山から奇妙な鳴き声がする、と騒いでた男が、いったきり、戻ってこないらしい。
「まあ、俺も酒の席だからつい言っちまった。てめえ何抜かしてやがる、山が啼くのはいつものこっちゃねえか、ってな。それであいつは……ちげえよ、証明してやるっつって、次の日ふらっと行ったらしいんだが、それきり戻らなくなっちまった」
「………」
グリードのしかめ面に首を振り、
「……まあ、気まずくなってどこぞにしけこんでいるってえ可能性もあるが……ちょいと妙な話も聞いたんでな。どうも、最近妙に獣の数が減ったらしい。見つかるのは中途半端に食われた死体ばかりで……冬にあるまじき腐臭が漂って鼻がイかれそうになるらしい。妙な病気でも流行ってるかもしんねえ。死体の一部でも持ち帰ってくれりゃあ、恩に着るぜ」
不安げな表情のまま、いつになく饒舌なカルヴェンは、こいつはおごりだとライ麦酒の追加を注ぎ入れた。
「お、グリードじゃねえか。おめえのガキよ、色気づきやがって、派手にやってんじゃねえか」
こっちが静かにジョッキを呷って飲んでいると、ここに入り浸りの、本人曰く“さすらいの色男”グロッグがいらんちょっかいをかけてきた。
「すかしてんじゃねえぞ、この節操無しが。どうせてめえもあいつもズボンゆるゆるで肝心な時にタちませんってヘボ息子だろうよ」
そう言ってゲラゲラ笑う酔っ払いに、何かカルヴェンが口を開き掛けたが、その言葉を待たず、そいつの顎を挨拶がわりに軽く殴る。
「て、てめ……!!」
激高して拳を振り上げたグロッグはしかし、あれ……?と呟き、ふらつく頭でまたドスンと椅子へ腰を落とした。
「大分酔ったみたいだな。今日は大人しく休んでおいた方がいいぞ」
「な、何言ってやがる、くそ、頭が、どうかしちまったようだ」
覚えてろ、とふらつきながら店を出ていくグロッグに、どうした、やるんじゃねえのかよ、とか、情けねえな、おい、と賭け損ねた男たちの罵声が飛び交うが、やがてそれも収まり、酒場はいつもの喧騒に戻っていく。
「粋だねえ。まったく、そこらの奴に見習わせたい」
手放しで褒めるカルヴェンに、グリードは、
「なんのことかわからないな、あいつは酔っていただけだ」
と口の端を上げて見せた。