暮れなずむ
H28年5月11日改稿しました。それ以前に読まれた方、なんというか、土下座したいぐらいすみませんでした。次話も合わせて矛盾点が無くなっているといいのですが……。
空は曇り、ずっと憂鬱な鈍色を映したままでいた。
つかのまの休息から覚めたシャロンは、そうだ、忘れてた、と一言いってアイリッツに歩み寄り、
ゴスッ
一発、腕の辺りに拳を叩き込んだ。
「ッてッ」
「……囮にしてくれた礼だ」
我ながら、ちょっと甘いかもしれない。
苛立たしげに落ちてきた前髪をかき上げもう一度まとめ直す。それがアイリッツの作戦だったとしても、腹立たしいことに変わりはない。シャロンは、あの私の葛藤を返せ、といいたい気持ちをすべて拳に籠め、それでチャラにすることにした。
一応アルフレッドにも、ボスッと軽く拳を当てておく。
「随分差があるんじゃないか?」
「……日頃の行いだな」
さらりと流し、演習場周辺を見回して、それからナスターシャの向かった方角を窺うと、そこの一階部の通用口なのか、目立たないところにドアがあり、半開きにキィ、キィと音を立てていることに気づいた。
この建物は、別棟の方へ渡り廊下が通じているようだが、ひょっとしたら、罠かもしれない。
ドアを睨みつけるシャロンの横で、
「オレ、ちょっとこの辺探ってくるわー」
とアイリッツが言い、止める間もなく姿を消す。
と思ったらしばらくして戻り、
「どうやら、ここ以外なさそうだな。遠くに避難所のような建物もあったが、おそらくあれは違うだろうし、後は行き止まりだ」
としたり顔で頷いた。
こんな短時間で、本当に全部探れたのだろうか、とシャロンは訝しんだものの、まあアイリッツだからな、と納得した。
「わかった。アル、とりあえず、入ろう……準備は大丈夫か?」
アルフレッドが力強く頷き、アイリッツがうんうんと首肯した。
ドアから、入り込んだ通路は本来使用人が通るものらしく、小さな小部屋や物置、裏階段と、生活臭溢れる場所へ繋がっていた。
通路も部屋も、ガラン、と静まり返り、人っ子一人通らない。歩けば、カツカツとひたすら自分たちの足跡ばかりが反響していた。
裏通路と渡り廊下を抜け、奥まった別棟へ入る。そこは、今までとは少し雰囲気が変わり、調度品の質や、部屋に纏わる雰囲気も、厳かで気品高く、その佇まいは、選ばれし者以外の訪れを拒んでいるようだった。
「どうにも、ひどいな。そこかしこに、濃密な“気”が漂っている。オレの感覚も鈍るかもしれない。気をつけろ」
アイリッツがそう言い、
「おまえってそんなのばかりじゃないか」
とシャロンが呆れ顔で返す。
慎重に罠がないか探りつつ、敷き詰められた焦げ茶の絨毯を踏みながら、互いにほとんど会話もせず、急くように奥へ奥へと向かう。
そして、貴賓を迎えられるよう整えられたであろう、上品なサロンを抜け、どうやら、かなり上の、宰相とかそういった者達がいそうな執務室らしき部屋の前に辿りついた。
シャロンは目線で二人に確認を取り、脇に寄ったのを見計らって扉に手をかけるが、ガチャガチャ、とノブがまわるだけで開かず、アイリッツが、
「任せろ!こんなの、オレの腕にかかれは、ほんの少しばかりも保たないぜ」
と自信たっぷりにウインクして、何やら細い針のようなものをいくつか取り出し、宣言どおり即座にカチャッ、と開けて見せた。
気を取り直し、扉に手をかけ、敵の待ち伏せを想定して最大限に警戒した臨戦態勢のまま、一気に開け放つ。
「……うっ」
しかし、そこは。……噎せ返るような濃厚な血の匂いが、充満し、押し寄せてきた。
荒らされ、散らばった書類や本の上に飛び散った血のまだら模様が描かれ、黒檀であろう美しい調度の机は無残にもこっぴどく斬りつけられている。蹂躙された跡、としかいいようがない。そして、高貴な身分らしき五十路の男が机を掻き毟るように苦悶の表情で倒れ、その向かいの床には、ちょうど誰かが倒れていたかのような、べっとりとした血の跡が残っている。
「どういう、ことだ……?」
シャロンの疑問に答えるものはなく、アルフレッドは鼻を布で押さえつつ、油断なく潜むものがいないか辺りを警戒し、アイリッツも一通りその惨劇の跡、と思しき様子を確認すると、
「これは、誰かが見た、“いつかの再現”だな」
と、静かに呟いた。
「過去に起こった出来事、というわけか……?ああ、駄目だな。もう、事切れている」
シャロンが、身のまわりの物や服装などから、おそらく宰相クラスだろう、と検討をつけた男の喉元に手を当て、首を振った。
「……ここに瓶がある。おそらくは、毒を呷ったのかもしれない」
アルフレッドが床に転がっていた瓶をつま先で捉え、アイリッツの方まで転がし、彼が拾い上げてその匂いを嗅ぎ、
「ああ、間違いないな」
と頷いた。アイリッツはしゃがんで机の引き出しに何か使えるものや手がかりがないかを探っている。
シャロンは倒れた男を痛ましげに見、続いて対面するような位置の、床の血痕の傍に行き、絨毯に触れてはっ、と息を呑んだ。
「まだ、温かい――――――」
それをいい終えるか終えないかのうちに、床の血痕は、みるみる薄くなり、やがて完全に消滅した。思わず見渡したが、宰相と思われる男と、部屋の惨状に変化はない。
「消えて、ない。なぜ、なんのために」
アイリッツがひとしきり探り終わったのか立ち上がり、
「そうだな。この部屋も、この男も、誰かの心象風景。おそらく、実際に起こったことだとは思うが、ここは、唯一人、そいつに何かを伝えるためだけに、残っている」
部屋の雰囲気にふさわしく厳かに呟いた。
「で、どうする」
顔をしかめなるべく離れていたアルフレッドが尋ね、
「ここはもう、オレたちに直接関わりはないな。先へ進もう」
アイリッツが返した。
なんだか、胸がきりきりと締めつけられるような思いで、入ってきた方とは反対側のドアを、改めて開ける。
景色、が塗り変わった。発動する前触れさえ感じさせず、まわりのすべてが――――。
「!?」
ドアに向こう側がなかった。灰色の壁。同時に、ゆらゆら、と部屋全体が揺れた。船の上に乗っているような揺れとともに、残る景色の残骸が剥がれ落ちていく。
小さな部屋に、漆喰と黒い木の壁に臙脂色の絨毯、小さな小部屋四方にある飾り棚には可愛らしい少年少女、ピエロの人形などが並べられ、入り口、つまりこちらを見つめている。
「誂えた別の空間に飛ばされたな。かけられた魔力が半端なくて防げなかった」
アイリッツが悔しそうに呟く。
身を硬くする三人の前に、ピョインピョインとボールが跳ね回り、
『さあ、ここから脱出できるかな!?栄えあるお方を倒せるかな!?選ばれし勇者たちよ!』
そんなふざけた言葉ともに、ポンと弾け、辺りに紙吹雪を舞い散らせた。
高く変質はしているが、どこかで聞いたような声。
「斬りつけ損ねた……」
「まさか……これが施された“いろいろなギミック”?」
アルフレッドと疲れたようにシャロンが言い、アイリッツがパカッと何気なく近くのドアを開けて、通路が続くその中を確認し、
「どうやらおかしな空間に閉じ込められたらしいな。妙な仕掛けだ……ここの時間は、さっきのところより遅く流れている」
まったく……悪趣味な部屋を創りやがって、と苦々しくアイリッツ。
「おまえ今まったく構えず開けただろ。何かトラップがあったら、どうする」
「ああ、一応変な気配はしないところを開けたからな」
「さっき、自分の感覚は当てにならない、とか言ってなかったか?」
「…………ま、まあ、それはさておき」
隣のアルフレッドが何気ない仕草で剣を抜き、根元から剣先まで曇りがないかどうかを確かめた。
「ここは、慎重に行こう、といいたいところだが……やっぱり感覚は鈍っているかも知れないな」
アイリッツが肩をすくめてみせた。こちらも自然な動作だが、首元にうっすら汗をかいている。
さては忘れていたな……と突っ込むのはアイリッツのために止めておき、シャロンは次いで、時間を遅くすることに意味はあるのか、とちらりと考え、誰か残っていればそれだけ反撃の時間を与えるのか、と行き当たった。
「とにかく、なるべく早く出口を探そう」
「シルウェリスとかいう性格不細工野朗の趣味部屋だぞ。多分、奴の性格からして、きちんと仕掛けを解けば出口が現れるようになっているとは思うが連動しているとは思うが……」
通路の廊下を進み、ドアを開けるとそこの天井は高く、さまざまな人物画風景画が飾られ、二階に続く階段と、あちこちにドアがあり、その一つを試しに少しずつ少しずつ開いてみれば、そのうちの一つは寝室で、朱色の天蓋つきのベッドにはふかふかの枕や真新しいシーツが敷かれ、居心地のいい空間を演出していた。
「これを全部調べるのか……」
シャロンは少なくはない数のドアを見てため息を吐き、手近な長椅子に腰を下ろす。揃えられた本棚やティーセットにはあくまで客をもてなそう、という意思がひしひしと感じられ、創り主のひねくれ具合を表現している、としかいいようがなかった。