エリザベスとテリーと、ナスターシャ 1
シャロンは、アイリッツの気の進まない表情ながらの行動に、ふいに軽く顔をはたかれたような思いがした。
彼はこちらの無茶ぶりに荒ぶることなく、いつも対処しようとしてくれている。
……いけない。冷静にならなければ。
シャロンは頭を振って一度深呼吸した。
これまでの戦いで、だいぶ精神的身体的に参っている感じがする。……弱っている自分を自覚しなければ、取り返しのつかない失敗を起こす。
あの少女ナスターシャの実力は、なんだろう、わかるようでいて、底がうまく見えない。彼女の命を奪ったりせず、きちんと話をしたいのはやまやまだが。
アイリッツがなるべく力を使いたくない、という事情、もしそれが、切実であるなら、そこを押してまでやることでは、きっとない。――――――常に飄々と前を向く彼を見ていると、アイリッツなら不可能なことも可能に変えられるのではないか、という気持ちにはさせられるけれど、きっと、それは違う。
「アイリッツ!……やっぱり、無理はしなくていい!」
シャロンは声を張り上げた。
「おいおい」
言いながらアイリッツが振り返り、
「真面目だなぁ、シャロンは」
こちらの思惑などお見通し、というように笑いを閃かせた。
「別にオレだって無茶はしないからな?現に、いいアイディアだってあるんだ」
さらににや、っと笑い手を振って見せる。
これだからアイリッツは。
ぐっ、と言葉に詰まり、なんだか無邪気なその顔の額に手刀でも食らわせたいような気分になりながら、シャロンは、
「その、無理はしないで欲しい」
と言ってそっぽを向いた。
デレ期到来かーーとからかおうとして、アイリッツは、向こうのアルフレッドの視線に表情を凍りつかせる。
バシュッ、ガッ、ボスッというなんだか聞き慣れた音を背後に、シャロンがナスターシャを窺えば動く気配はなく、エリザベスとテリーの頭を撫でながら、こちらをじっと見ているだけだった。……なんだか少し寂しそうにもみえる。
「……本当にいい人たちだね」
クゥン?と不思議そうに首を傾げるテリーの首をナスターシャはぎゅっと抱き締め、長い毛に顔をうずめた。
「付き合わせちゃってごめん。あたしの、我が儘を許してね」
ウォウ、オウ!
オオォオン!
二頭は何を感じているのか、ナスターシャの言葉に戦う意思充分であることを告げる。
演習場の荒れた地肌はもはや隠れ、その場は草木生い茂る森林と化し、あいだから覗く建物の壁がなければ、ここがどこだかわからなくなりそうなほどだった。
照葉樹だとは思うが見慣れぬ木々の森。空気の色が濃く、澄んだ涼しげな風が頬を撫でる。
まだ顔を魔狼の元に伏せたまま、待ち、の姿勢のナスターシャから目を離すわけにはいかないが、今のうちに、と、
「……連戦だが、大丈夫か」と小声で近くのアルに確認すれば、
「ああ。むしろ懐かしい。極限の戦い……最近は、縁遠になっていたけど、これが本来の」
「いやそれはいろいろ間違ってるだろ。これが終わったら、取っておいた焼き菓子を分けるから」
アルフレッドの瞳が輝き、やった、とばかりに拳が握り締められた。
「何のんきな会話してんだよ。あちらさんも意思を固めたらしいぞ」
髪や額、ズボンについた土をはたき、起き上がったアイリッツが示すその彼女の表情は硬い。
「小手調べはここまでとして。貴方たちがこの先に行くなら、知っておくといいよ。……英雄と呼ばれる者たちは、必ずしも特別な何かを持っているわけではない。ただ、人より少しだけ力を持ち、少しだけ勇気とか根性があって、諦めが悪かった。……そして少しだけ悪運が強かった。それだけだってことを」
貴方たちは知っておくべきだね、と彼女は囁いた――――――。
「……は必ずしも――――ではない」
その声はかき消えるように小さく、届かない。
ひょっとしたらアルになら聞こえたのかも知れない。
そして、彼女は気丈に、頭を上げ、強い意志を持った眼差しをこちらへ向ける。
「三の、英雄が一人、ナスターシャ。現時点での全力を持って、貴方たちを向かえ討つ。手加減なんて考えると、死ぬよ。ちゃんと本気出さなきゃ」
そう不敵に笑い、彼女はそっと、テリーとエリザベスを撫でた。
戦闘が始まる。
そう思い身構えたが、彼女は目を半分伏せたまま動かない。
「……ここは彼女の場になったな。気をつけろ」
アイリッツが警告する。
――――――彼女はささやく。彼女は祈り、詠う。精霊に対する強き護りを。
エリザベス、テリーの二匹が淡い燐光に包まれ、やがて、ナスターシャが大きく後方へ跳んだ。そのまま器用にするすると枝に登り、こちらと距離を取る。
ォオオオオン!
二頭は吼え、ビュン、とこちらへ跳躍した。
〈炎よ、貫く刃となれ〉
炎の矢が木立の合間から、シャロンたちを狙う。
風よ!と叫びシャロンが風の結界を張る。その姿を冷静に眺めながらナスターシャは思う――――――。
発動できなくすることもできる。けどそれはしない。思い描くは波紋。いくつも重なり合い、響き合い、消えていく、無上の音。
風の結界に遮られ、矢のいくつかは地に落ちた。炎は草に触れる前に、自らシュルシュルと弱まり、消える。
ガチリ、と、シャロンが剣を構え防いだ向こう側で、テリーが鋭い歯を噛み鳴らす音が聞こえた。唸り声とともに身を引き、剣に食らいつく。そこをエリザベスが狙い、アルフレッドの剣に牙を弾かれた。
狙い違わず、火矢が飛ぶ。シャロンは大きな風の塊を作り、自分と、剣を離さないテリーのあいだに発生させた。吹き飛ばされ、体勢を立て直すシャロンの靴がずぶりと土に沈む。
アルフレッドとエリザベスがやりあっていたがいったんエリザベスが離れたのを見計らうように、アルフレッドのついた大地がぐにゃりと形を変えた。
ずるりと滑りそうになりながらも体勢を整えるアルフレッドの、踏み直した足がくるぶしまで沈み込む。トッ、トッ、トッと器用に石の部分の踏みながら、動きを制限されたシャロンたちを襲うかと思いきや、アイリッツの剣“穀潰し”で防がれた。
「あ、ありがとう」
「踏み込むなよ。沼状態だぞ」
呆れたようなアイリッツが、足場を踏み固め、シャロンの腕を掴んだところで、くるりとアイリッツの足元だけ円を書くように地面が硬いままで、その外から沈み始めた。
「手の込んだことをしやがるぜ、くそったれ!」
アルフレッドは早々にアイリッツの助けを諦め、手近な剣を突き刺し自分の足を引き上げた。
……そこを見逃すような彼らではなく、鋭く大口を開けたその鼻先に、シャロンが咄嗟に風を叩き込むが、それは呆気なく弾かれた。
「くそッ」
シャロンが叫ぶのと同時に、アルフレッドが剣で木を抉り木片ごとその狼の鼻面に叩きつける。たまらず身を引いたところを、すかさず足を抜き、木の割れ目に足をかけ引きずり出す。
「うーん……これはどうかな?」
笑みすら含んだ声が聞こえ、凍てつくような氷の矢が、木々のあいまから容赦なく降り注いできた。腰まで埋まりそうになったものの、即座に木の根を掴み、二人の体を引き上げようとしたアイリッツがそれを見て、馬鹿力を発揮してシャロンを抜き飛ばした。
氷の矢は降り注ぎ、落ちたところから地面を凍てつかせた。だが、アイリッツには効かない。服の一部を縫い止められたアルフレッドの上着の一部をアイリッツは切り捨て、身動きが取れるように変え、アルフレッドがすぐ跳ね起き襲い来る二頭に二人で対峙する。
飛ばされたシャロンは風を使い、ナスターシャに近づこうと耳をすませた。その意思に反して風は必要な音を伝えようとはせず、シャロンは舌打ちをしてその場から動いた。
「“風よ。風よ、刃と化せ”」
ナスターシャが唱えた願いはほぼ待たず叶えられ、シャロンを襲う。咄嗟に風を無理やり集めるようなイメージで防ぐも、揺らぎ、彼女は煽られバランスを崩した。
「まったく、少しばかりいたずらが過ぎるぜ」
アイリッツは力をほんの少し使い、シャロンとアルに、結界を張った。敵の攻撃が当たりにくくなる結界を。
アルフレッドが目線で合図してきた。シャロンが地面に風を叩きつけ、その硬い地面から砂塵と石を、隙を突いて爪を立てようとするエリザベスへと食らわした。アイリッツたち二人は素早く動き、怯み逡巡したエリザベスへ剣を立て力を籠め斬りつけ、さらにアルは動揺して飛び掛ってきたテリーの右の牙を折る。
「ベス、テリー!」
ナスターシャが舌打ちして二匹を呼ぶ。
「快癒!」
叫ぶ“力ある言葉”とともに、血を流していた二頭の傷が癒え、彼女は二頭の状態が元通りかを確かめた。
「アイリッツと同じか……いや、もっと性質が悪いな」
シャロンが苦く呟いた。
傷をつけても彼女がいる限り、再び傷は元通りになる。なら、短時間で決着を、と、これまでの戦いを思い返しながら、どうにか思考を巡らせた。