名残雪
長い長い時間の中で、始めは、本当に剣を持ち上げることすらもままならなかった。それが、指に肉刺ができ、潰れるまで素振りし努力していた姿を、覚えている――――――。
お菓子作りが好きで、時々こっそり厨房を借りて、焼き菓子を皆に差し入れしてくれたのも。うっかりシルウェに魔術のことについて尋ねて、そのまま止めるに止められず三刻ばかり話を聞かされて……足がふらふらになって帰ってきた姿も。いつかの作戦会議中、エルズやラスキたちが互いに放つ険悪な雰囲気に耐え切れず、慣れない冗談を言って撃沈していたのも。
そう、辛い思い出は少なく、むしろ楽しい事ばかりだった――――――。
ナスターシャは、空へと消える光の欠片を最後まで見送っていた。
…………儚い思いから覚めれば、彼女はここにはいられない。自分一人だけ幸せな夢に浸る道を選ぶことはない。
そして、それはそのとおりになった。でも、夢を見ながらでさえも、破滅の足音に怯え、出口のない苦しみに彷徨い続けるよりは、きっといい。
乱暴に手で涙を拭い、深呼吸をしてシャロンたちに向き直る。
シャロンの瞳も赤い。ナスターシャは、相対していたとはいえ、同じ心持ちを抱いてくれた彼女に、穏やかににこりと微笑んだ。
「…………感謝する」
呆然としていたラスキも気を取り直したようで、やがて立ち上がった。急に、何年も過ぎ去ったかのように、ゆっくりとした動きをしている。
「ジゼルは…………納得して、いったようだから」
まるで自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
「彼女がそう望むのなら。ここは真実の世界で在り続けた」
例え、偽りだったとしても。
声無き声で呟き、一度強く目を瞑り、再び開いた時にはもう迷いは消えた目をしている。
「さて。次は俺だな。久々の強敵だ。腕が震えるぞ」
明朗に笑うその表情には陰りがない。
「なぜ……あなたたちは、そこまで戦える。そうまでして戦うことを選ぶんだ……」
苦しそうにシャロンが声を絞り出す。
「なぜと言われてもな……。いろいろ理由はあるが。俺の場合は、武人として、ただ強い者と戦いたい、胸のすくような戦闘がしたい。それだけかも知れないな」
シャロンの顔が苦々しいものになり、ギュッと目を閉じ、しばらく拳を震わせていたが…………。
「アル、ちょっと」
その後少し離れた場所へアルフレッドを呼び出した。
「どうかした?」
アルフレッドはいつもとまったく変わることなく、すたすたと普通にシャロンの元へ来た。
「…………このッ」
ドッとその胸に、シャロンは拳を打ちつける。アルフレッドは、理不尽だ、という表情をしたが、黙って叩かれるに任せていた。
しばらく涙を流していたシャロンは、ややあってくいっと手の平で顎から頬にかけてを拭い、ふっ、とため息を吐いた。
「ごめん、ちょっと……収まらなかった」
「いや、別にいい」
淡々と返すアルフレッド。少し困っているようにも思える。その様子にシャロンは少しだけ笑って、身体を離し、やや視線を彷徨わせてなぜだか斜め下に落とした。
「…………その。信じてるから。負けたりしないって」
ささやき声に近い激励を送る。
う、顔が、上げれない、とシャロンはじりじりとしていた。本当ならここから距離のある、破壊された稽古場跡地まで逃走したいところだが、そんな奇行はできない。ので、じっとしてるしかない。
そうやって難破船のような心情のシャロンの上からかすかに舌打ちが聞こえてきた。驚いて顔を上げれば、そこのアルフレッドは、どことなく殺気を帯びた表情で、
「………リッツが邪魔だな」
ぼそりと呟いた。
「ちょっと待て!リッツは今の話にまったく関係ない!ていうか、何考えてるんだこんなときに!」
腕を掴んで軽く揺さぶってから、まったくもう、とシャロンは首を振ってその場を離れる。
おーい、話は終わったかー?あんまり見せつけんなよーと呑気なアイリッツの声が届き、そちらへ足を急がせた。
「こっちの話は終わった」
「……そうか。じゃあさっさと始めるか」
こちらを見るラスキの面白がるような顔には、自分自身の平穏のため、極力気づかないふりでいることにした。
「ラスキ、こっちも励ましの言葉送った方がいいー?」
緊張感なく尋ねるナスターシャに、にっ、と笑い剣を抜いてかざして見せ、
「いらん。俺は、全力を尽くす。それだけだ」
「……それじゃ、良い闘いを願って」
ナスターシャも頷き、どこから取り出したのかハンカチーフをひらひらと振った。
アルフレッドと、ラスキが互いに向き合い、構えを取る。
覚悟はしていても、汗が滲むのは止められない。
緊張の面持ちで見守るシャロンたちを余所に、ラスキはほがらかに対峙するアルフレッドに、
「ああ、久しぶりに胸が躍るな。そうじゃないか?」
「…………特に意識したことはないな」
その答えに苦笑したのをきっかけに。互いに剣を抜き――――――ラスキが剣を抜きざま、一気に間合いを詰め、アルフレッドの体を、薙ごうとした。
咄嗟に髪一重で避けようとしたアルフレッドは、
「!?」
何かに驚き、身体を地面に擦るように素早く後じさり距離を取った。その頭上を風圧が駆け抜け、遠くの木を薙ぎ倒す。
「まずは見せておこう。これが、俺の技だ。他にない」
ご丁寧にもわざわざ見せてくれたらしい。…………アルフレッドも似たような技を使えた気がするが……こちらの風とはどう違うのだろうか。
シャロンの疑問に気づいたのか、アイリッツが、
「あれは、気というか、エネルギーを練って、剣に溜めてそれを放っているんだ。風そのものを操っているわけじゃない」
「で。具体的にはどう違うんだ?」
「……………………まあ、風の時と違って、強力なのと、あと、溜めるのにめちゃくちゃ疲れるし、そう連発できるってもんじゃない、ところかな」
「はあ…………そうなのか」
そんな貴重な技を最初から晒していいのか?などと、自分が似たようなことをしたのを彼方に忘れ去ったシャロンは、武人と言うのは真面目なんだな、と純粋に驚いていた。
ジゼル・コルシェシカ……侍女兼行儀見習いとして来た貧乏な中流貴族の出で、実家からはほぼ帰ってくるなと言われている。
性根は、優しく引っ込み思案で、あまり人に恨みや憎しみといった悪感情を抱かず、争い事や戦闘には向かない。
楔の剣とほぼ一体化しており、城のすべてを守るため、その心が折れるまでは、存在そのものを抹消するほどの力をぶつけない限り、どんな状態になったとしても負けることはない。