不変と可変のあいだ
その雨は、打たれれば凍えるように冷たく、寒い。
パシャパシャと雨の森を二人で走り、雨宿りできる場所を探せば、ほどなくして岩場の崖にぽっかりと空いた洞穴を発見した。
こんなびしょ濡れの状態じゃ火を起こすこともできず、真昼でまだかろうじて明るさがあったことに感謝しながら雲の様子を探るが、まだ当分やむ気配はない。
まあ、一応‘結界の天幕’を敷いておいて……。
「アル……さっきの、大丈夫か?どこか痛むなんてことは……」
「ああ、大丈夫。心配ないよ」
ぽたぽたと前髪から垂れる水滴をうっとうしそうに払ってアルフレッド。
このままじゃ風邪をひく、と、風の剣を構え、何回かアルに向かって素振りをすれば、乾いた風を受け、次第に服が乾いていく。
この芸当が、自分にできればいいんだが、と剣を掲げ、しばらくその姿勢のままシャロンは何回か念じてみた。
……傍から見れば怪しいかもしれないが、幸いここにはアルしかいないし。
試行錯誤の末、剣から風が渦を巻き、シャロンを囲んでいく。……成功した、とささいな喜びを噛み締めて、洞穴の地面に腰を下ろし、雨が上がるのを待つ。どちらも無言だった。
膝を抱えながら待つ時間は、ひどく長く感じられた。さっきの戦いのことが、頭の中に繰り返し、繰り返し蘇ってくる。
「強くなりたい、と願って、少しずつでもそうなれた、と思っていたつもりだったのに……本当につもりだった、みたいだ」
自然と乾いた笑みが浮かぶ。
……手を伸ばせば、すぐに届きそうなのに、走っても走っても追いつけない。終わりのない道をただひたすらに歩き続けているような気がする。
『望めば、無限の力も強さも得られるのに……いつまで人間の殻を被っているつもりだい?』
エッヘ・ウーシュカの言葉が蘇る。もし、この世界では、望めばすべてその願いが叶うのだとしたら。今、私のやっていることは――――――。
それでも私は、私をやめることはできない。
シャロンはそう結論付け、自嘲する。結局のところ、一つ一つ登っていくしかないんだ。届かない望みに身を焦がしながら。
試しに、すべてが解決して、元の世界に戻れますように、と願ってみた。なんか以前も似たようなことをしたような気もするが……。
しかし、何も変わらない。まあそんなもんだ。
「シャロン……大丈夫?」
抜群のタイミングで、アルが声をかけてきた。どうやら、物思いに囚われ浮上するのを、待っていてくれたらしい。
シャロンはふぅ、と一つ息を吐いた。
……どうやら、まだ少し動揺が残っているようだ。こういうときは、思いがけない失敗をやらかすから、慎重にしないと。
大丈夫、大丈夫だと心に言い聞かせ、気を取り直して、
「アルは迷ったり、不安に思うことはないのか?こんな、化け物だらけの世界で……」
そう問いかけると、彼はしばし考え込み、
「強くなりたいとは、思う」
ええと、それだけ?他には?
そう思ったのが表情に出てたのか、顔をしかめ、
「あと、もっと美味しいものが食べたい。この肉、いいかげん飽きた」
そう吐き捨てた。
「まったく、うらやましいな……」
シャロンがそう一人ごちて外を見上げれば、雨は小雨になっている。ああそうだ、とシャロンは言おう言おうと思っていたことを思い出した。
「アル……これからは、天幕の外で見張りをするのは止めておこう。一人でいるより、なるべく二人でいた方が、危険度が少ないはずだ」
ここはゆずれない。だいたい、アルが外にいたとしても気が気じゃなくて眠れなさそうだ。
「え……」
アルがなぜだかその提案に、難色を示した。
「なんだよ。敵も強力だから……普通だと思うんだが」
「シャロン。つまり、天幕の中で二人で寝るってことになるけど」
「っ……」
まあそうだ。そうなんだが。
「なぜ、それを改めて言う!?アル、ちゃんと私は言ったよな?意識さえ切り替えてしまえば、雑魚寝だろうがなんだろうが、どんと来いな心境で、いられたのにっ」
「……」
なぜだか生ぬるい眼差しで見られた。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
そう言って、アルは立ち上がる。雨はすっかりやんで、空は明るくなり始めていた。
くっ……!!なんだか負けた気分になってきた。しかし、私は間違ったことは言ってない、と思う。
洞穴を出ると、いつのまにか、辺りの景色はすっかり変わっていた。森というより林のような……どこへ行くのかはわからないが、ちゃんと道もある。
シャロンは、さっさと先を急ごうとするアルフレッドを、ちょっと待ったと呼び止め、
「あのさ……さっきの話だけど。私は譲らないからな。まあちょっと、お互い我慢すればいいだけの話だ。それに……やっぱり、もしアルが外で見張りをしていたとしても……心配でたまらなくなるだろうから」
なんとか納得してもらおうと、恥ずかしいのを我慢してそう頑張って告げた。
「で、その、どう思う?」
固まっていたアルフレッドは、耐える表情をしたかと思うと、
「トイレ」
とあっさり茂みの中へ行こうとする。
「え」
いや、人が恥ずかしいの我慢して、それでも伝えておかないと、とか考えて勇気を出したのに、ここでトイレへ行くか普通!?
ぽっかりと口を開けたままのシャロンをちらっと見て、
「なるべく動かずに、“天幕”使ってていいから」
早口で言って行こうとする。
「待った。そっちでももし魔物に襲われたりしたら……」
心配して言ったのに、
「今のシャロンより怖ろしいものはないよ」
そう残して走り去っていった。
「なんなんだ、いったい……」
呟くも、答えるものはない。
とりあえず足元に“結界の天幕”の布を広げ、じっと帰りを待つが、アルフレッドは、なかなか帰って来なかった。
気になってそわそわするが、動くわけにも行かず……、と、にわかに空が騒がしくなり、黒い群れ――――――鉤爪と鉤のような嘴を持った鸚鵡そっくりの鳥のようだ――――――が頭上を通り、一方向を目指し飛んでいく。
アルが襲われる、と一瞬思ったものの、よくよく見れば違う方向へ向かっているようだった。ひょっとしたら向かう先に何かあるのかもしれないが……薄曇りの空は次第に陰り、夕闇が迫っているこの状況では、きつい。
しばらくして、やっとアルフレッドが帰ってきた。
「随分遅かったな」
「……手を洗う水場を探してた」
気まずそうにしたが、
「それより野営できる場所を探そう」
「そうだな。できれば乾いたところで、というかこの辺一帯の地面は全部乾いてるな」
アルフレッドのおかしな行動や、まるで雨なんかなかったような周辺のその様子に、シャロンはもう考えるのを放棄した。
現実問題、つまりしなければならないことを見つめることにして、ちょうどいい林のあいだに入り、天幕を立てて寝床を作る。まったく、いろいろありすぎた。
やがてゆっくりと辺りは朱色に染まり、天幕の中で携帯食料を分けて食べ始めたものの……どうもアルの雰囲気がよくない。どんよりと重く、苦悩を一心に背負ったような顔をしている。
「アル……どうした?」
と尋ねても、首を振ってため息を吐いた。先ほどまでのアルとは別人のようで……アルらしくない。いったいなんの悩みを抱えているのだろう。力になれるならなってやりたいが……そう簡単に悩みを話すとも思えないし。
「何を悩んでいるのかはわからないが、あんまり考えすぎるのもよくないんじゃないか?ほら、違うことを考えて気分を変えてみる、なんてのはどうだ。例えば、すべて解決でき、元の世界に戻れたとして、アルはまずどうしたい?」
わざと明るく言った言葉は、続く直球に撃ち抜かれ粉々になった。
「シャロンが、欲しい」
「…………え、と」
なぜ、なぜこの状況でそれを言う!?
「なななな、なにを………」
「まあ、別に今すぐってわけじゃないから。なんていうか、少しは警戒して欲しいと思って」
苦くアルが口の端を上げた。
しまった、聞かなかったフリをすればよかった……!!
残念ながらバッチリ聞いてしまったし、今さらそうするのは遅すぎた。顔に血が上るのがわかる。シャロンが小さく呻きながらもなんとかこの雰囲気を打開する方法は、と考え、その実挙動不審になっていると、ぽろり、とその上着のポケットから羅針盤が滑り落ちた。
針はまわったままかと思いきや、ビシッと音が立ちそうな勢いで外の一点を差している。
「ああああ、アル!外に何か、いるかも知れない!!確かめて来ないと!!」
焦りながらも、ほっとしつつ、シャロンが天幕の外をこっそり眺めれば、外は薄紫の夕闇が迫る林の中、怪しい物音や影はどこにもない。
もう一度羅針盤を確認すれば、先ほどの針の動きが嘘だったかのように、くるくるとまわっている。
なんだ、と肩の力を抜いたシャロンは、隣の林の茂みのガサつく音に、もう一度ビクッと体を揺らし驚いた。
「あー、やっと見つけた。……よお」
顔に引っかき傷や擦り傷を作り、出てきたのは。
「……ジーク?」
そこには半端に手を上げ気まずい笑顔を浮かべ、テスカナータで別れたはずのジークが立っていた。
シャロンの精神力はガリガリ削られ、おそらく残り一ケタ。