扉を叩く者
若干ホラー要素あり。
腕輪は使用されたが、アルが無傷だったことに、ほっと息を吐き立ち上がると、彼は目を見開き、
「シャロン、それは」
と背負いカバンを指差したので、見ると、そこは一面べっとりと血で汚れていた。
「あ……さっきの」
「怪我は?」
「大丈夫だ、もう治った」
シャロンは呆然とカバンを見つめていたが、
「ちょっと、洗ってくる」
そう言ってカバンを掴んだまま、近くの民家に飛び込んだ。
無人の家で、テーブルに荷物を出すと、水甕の水とたらい、石鹸を借りて、ひたすらゴシゴシとカバンを洗う。アルは無言で戸口に立って見張りをしている。
血の染みは、こびりついてしまって何度こすってもなかなか落ちない。漱ぎ、こするのを繰り返す。
こんなことをしている場合じゃないのに。ああ、でも染みが落ちない。こんなことをしているあいだにも、さっきの一団が来るかもしれない。なんでこんなことに、
「シャロン!もう充分だ。それぐらいで」
「あ、ああ……」
アルに止められ、カバンを投げ出した。なんで、こんなことに……。
「ちくしょう……」
眦から熱い雫が伝って、落ちる。
「こんな、異常な世界で、いつまで戦い続けなきゃいけないんだ……」
ポンポン、とアルフレッドが宥めるように頭に触れた。
シャロンはやがてのろのろと体を動かし、めいっぱい背負いカバンを絞って中へ荷物を詰め始めた。全部詰め込んでカバンの冷たさに泣きそうになりながら担ぎ、入り口に手をかけた。
「とにかく……扇動者を、倒せばいいんだな。といっても誰かも知らないけど」
アルフレッドは頷き、
「それは大丈夫。多分、広場で演説をしていた男たちだと思う。こんなこともあるかと思って、ちゃんと顔を覚えておいた」
にやっと得意げに笑った。
「そっか……じゃあ頼む」
なんとなく手の平を向け、気合を入れるためお互いにパシッと叩き合わせた。シャロンはひとりじゃないことに少しばかり安堵しながら、再び灰色があふれる街中へ出向いていく。
それからは、早かった。
シャロンが風を使って人々の足留めをし、アルフレッドがその隙に扇動者を探し出し、叩き壊す。中心となる人物を壊してしまえば、石像の群れは突然興味をなくしたようにふらふらとそこらをさ迷い歩くだけの代物と化していく。
暴徒以外は何かに怯え、災いが過ぎ去るのを待っているかのような人々の姿。そのどこかに、昨日の馭者もいるのだろうか、と考え、首を振った。
アルフレッドは器用に他の人々の合間を縫い、狙う一人だけを叩き壊す。そうして、それを繰り返し、最後の、台の上で声を張り上げ演説していた男の石像のみとなり、そいつは随分と逃げ惑っているようだったが、とうとう路地裏に追い詰めてその体を打ち砕いた。
すると、うろついていた石像はすべてその動きを止め、また再び町は、静けさを取り戻した。
アルがふっと顔を上げ、目を閉じ耳をすませ、しばらくして走り出した。その後に続くと、シャロンの耳にも、次第に、ザリザリ、ザリザリ、と土を引っかくような音が聞こえてくる。
壊されたどこかの家の庭。その家の母親と思しき女性の石像が、地面をこすり、何かを掘り出そうと必至になっていた。
アルと目線を交わして、母親が引っかいている地面を掘り、土を払っていくと、輪のついた鎖の取っ手のついた、真四角の入り口が現れた。途端に母親の石像は掘るのを止め、その動きを止める。
蓋の形状からして、貯蔵庫か何かだろうか……。
鎖を引っ張り、重く頑丈な蓋を開ければ、そこから奥へと細い階段が続いていた。
念のため、羅針盤を取り出してみると、それまでぐるぐるとまわるだけだった針は、まっすぐその階段の、奥の方を示している。
「……行こう」
躊躇っていると、先にアルが動いて、さっさと中へ入ろうとする。思わず、その服の裾を掴んで引き留めた。
「シャロン……?」
階段に足をかけた状態で、不思議そうに見上げてくる。
「あ、その……アルは……もう、二つ、無いんだし、だからその……気をつけて」
改めて言うのは何かこう、照れくさいが、どうしても伝えたかったのでつっかえつっかえ口にすれば、心得た、というように頷いたのでほっとした。
その時のアルフレッドは、無意識というのは性質が悪いな、なんて思っていたのだが……とにもかくにも、二人は階段を下り、地下室へと足を踏み入れていった。
想像していたより下は深く、進むにつれ、ひんやりした風と共にかすかな声が漂ってきた。
おかあさーん……
下りるにつれ、声は次第にはっきり聞こえてくる。誰か……声からして女の子だろうか。しきりに母親を呼んでいる。
下りきった場所は思いがけず広く、一つの居住空間となっていた。寝室、台所といったいくつかのスペースが仕切りで繋がり、中心にはソファとテーブルがあって、そこで5、6歳ぐらいの小さな女の子がクマのぬいぐるみをぎゅっと抱き締め、泣いていた。
まさかと思い羅針盤を取り出せば、その針は力強くその少女を示している。
おかあさーん……
嫌な予感しか、しない。しかし、何もしないわけにもいかず、おそるおそる少女へと近づき、呼びかけた。
「えっと……大丈夫?どうしたの?」
おかあ、さん?
こて、と首を傾げてこちらをじっと見つめてくる。シャロンはめいっぱい優しく、微笑みかけて、
「その、お母さんじゃないけど……とにかく、ここから出て、」
おかあさんじゃ、ない……!!
ふるふる、と少女は震え、その身を中心にビュウビュウと風が巻き起こる。ガタガタと置かれた家具が鳴ったかと思えば、ふわり、と周辺の椅子が浮かび上がり、台所の棚がひとりでに開いたかと思うと、そこからナイフやフォークが飛び出し、こちらへと襲いかかってきた。