揺れる、渡る
再び早朝。シャロンは寝起きでぼんやりしつつ身を起こした。
「……おはよう」
「ぅわっ」
もうすでに着替えていたらしいアルが声をかけてくる。ちょっと、驚いた。
「あ~、おはよう」
「シャロン……ちょっといいかな」
言いながら寄ってきたアルフレッドは、そのままギュッと抱きついてきた。
あまりに自然だったので、反応が遅れた。
一拍遅れて強く突き飛ばし、
「な、何を考えてるんだおまえ……!!」
「あ、ごめん」
そういいながらもなぜかほっとしたような嬉しそうな表情をするアル。それを見て、私は。
まさか……つれなくされるのが快感、とか、変な方向を開拓してたらどうしよう、と戦慄いた。が、さすがにそれはない、とすぐに自分の妄想に突っ込みを入れる。
「何か、あったのか?」
そう窺えば、
「いや」
と短く返事が返ってくる。
じゃあ、なんで抱きついた、とか問い質したかったが、不毛な会話になりそうだ。
「とにかく、いきなり抱きつくのは止めて欲しい。心臓に悪い」
「いきなりじゃなければ、い…」
「そういう問題でもない。このままじゃ時間がなくなるぞ。さっさと席を外せ」
アルを部屋の外へ追いやって、着替えることにする。
そういえば、服も、いいかげん洗濯しないと。
しかし、干すとしたら室内だろうか、嫌だなあ、などと思いながら、待っていたアルに声をかけ、準備して一緒に鍛練に出かけ、一度部屋に戻ってくる。
数年ぶりのブランクが恨めしい。町の中で特別にどこ、という違和感は掴めず、頼りはこれのみか、とエリーの手紙を開いた。
読み返すと、変化した町の様子に怯えている、切迫した雰囲気が伝わってくる。しかし、この前会った時は……。
眉間にしわが寄りそうになるのをほぐしつつ、
「アル……最初に、貧民街がどうなってるのか見て、それから、王宮を訪ねよう。入れないのはわかっているが……王宮の地下で見つかった遺跡、というのが気になる」
「わかった」
「で。悪いが一足先にカバン持って宿の女将さんから、王宮やスラムの情報を仕入れてくれないか。私も荷物を整理したらすぐ向かう」
アルが頷き、下へ行くのを見送って、すぐ行動を開始した。
まずあらかじめ水の満ちたたらいに備えつけの石鹸水と服や下着なんかを入れ、つけておき部屋に細いロープを張る。そしてゴシゴシと服を洗い、干すと、それからカバンを持ってダッシュで階下へと向かった。
今度部屋に入るときは、自分が先に入らないと、なんて心で唱えつつ。
宿の受付に来ると、話し込んでいたアルが、こちらに向く。
「遅くなった。荷物まとめるのが、時間かかってしまって」
資金節約のため嵩を減らし、かーなーり軽くなってしまったカバンを片手で引っさげて、の言葉だったが……。
「王宮のことは聞いた。情報らしい情報もないけど」
アルが小さく耳打ちしてきたので、くすぐったさを堪えながら頷いて、宿の女主人に、
「あの、私たち北西の、貧民街の近くに知り合いがいるんだ。そちらの様子が知りたい」
そう尋ねると女将は訝しげな顔で、
「あんたたち、何言ってるんだい?そんなものはないよ。貧民だって?この町に飢えてる奴なんかいるもんか。みんな幸せに暮らしてる奴ばっかりだよ」
「そ、そうなのか……」
あまりの言葉に唖然となったが、シャロン、口開いてる、とのアルの指摘にはっとなり、
「じゃ、じゃあ、北西区域の様子は……?」
女将はそのことなら……と、
「今は秋だからねえ。ヤローとかバレリアンが見頃ってとこだね。少し南へ下がれば、ソープワートの栽培地もあるから、寄ってみるといいんじゃないかい?」
なぜか、そこが観光名所ででもあるかのような言い方をしてきた。
曖昧に返事をして宿を出ると、空は高く青く澄みきっていた。
「なんなんだ、いったい……」
そうぼやきながらも、シャロンはアルフレッドと、辻馬車を拾うために道の脇でしばらく待つ。
四、五歳ぐらいだろうか。男の子がパタパタと走ってきて、石畳の段差に躓き、こけた。
「おい、大丈夫か?」
傍へ寄ると、
「う、うう……」
鳶色の瞳を潤ませながらもよろよろと自分で立ち上がった。そこへ、同じ目の色をした婦人が、慌てて駆け寄ってくる。
「あら、ごめんなさい。ジュリー、大丈夫だった?」
「うん。ぼく、泣かなかったよ。えらい?」
ぽふっとスカートに抱きつき、ほめてほめてとその裾を引っ張っているのを、
「はいはい、よくできました」
その女性は笑顔で答えて少年の頭を撫でてから、こちらを向いた。
「あの、この子がご迷惑かけませんでした?」
「ああ、全然。……元気のいい子ですね」
先ほどまで泣きそうだったのが嘘のように、男の子ははしゃぎながら、はやくーはやくーなんて行きつ戻りつを繰り返している。
「ええ。これでも、少し前まで病気で、寝たきりだったんですよ。医者に診せるお金もなくて……どうしようかと……。本当に、元気になってくれてよかった」
それじゃあ、と質素な身なりの婦人は挨拶して、去っていく。
「…………」
「シャロン?」
親子を見送っていると、ちょうど馬車が来た。アルがそれを呼び止めて、こちらを心配そうに見やる。
「……行こう」
胸に去来する複雑な思いを振り払い、馬車で北西地区へ向かう。
本来なら、道も人も次第に灰色じみて、仕事もなく壁にもたれてぼんやりする浮浪者が増え、辺りには据えたような匂いが漂うはずの場所は、ただの明るい住宅地となっており、そこを抜けると、貧民街でももっともひどく、数歩歩くだけでスリ、強盗にあたる、とまで言われたところは、宿の女将の案内どおり、紅色の小さな花を丸くたくさんつけたバレリアンと、薬草としても幅広く活用できる、白や淡いピンク色のヤロー草が咲き乱れていた。
子どもたちが笑い声を立てて走り回り、摘み取って花束を作ったりしている。それを見守る大人たちの表情も柔らかい。以前は、この町ではほとんど見られなかった光景だった。
病気の治った子ども。貧困にあえぐこともなく、幸せそうにしている人々。それを、どうにかする権利なんて、私にあるのだろうか。
シャロンはぼうっと花畑の、平和な光景を眺めていた。風が穏やかに渡り、草が波のように揺れていく。
……波。ふいに、あの時、陽に照らされた海を眺めながら、ヒューイックが言っていた言葉を思い出した。
『奇跡なんてない。時は遡らず、失ったものも戻りはしない。でもそれだからこそ、俺たちはここで……前を向いて、自分の選んだ道を進んでいくしかないんだ』
シャロンは、目の前に広がる、花畑や、綺麗になった街並み、平和そのものの風景をじっと見つめた。
誰かの望み、憧れ。それらが、叶っていく。……そんな夢を見ているのか、この町は。
だとしたら、私たちの役どころは、さしずめ、夜明けを告げる鳥の声、か。
「……シャロン、どうする?」
静かにアルが問いかけてきて、それに対し、迷いを払うように首を振って振り返った。
「王宮へ行こう。この事態を解決する、術を探しに」
楽園の夢を見ている人々を、叩き起こすために。