至極透明な、不透明な
少しいつもより長めです。
玄関ホールの左側の応接室に通され、金の装飾がなされた豪華な椅子に座ると、すぐにメイドがおそらく薔薇の香りがつけてある紅茶と焼菓子を運んでくる。
「お嬢様が来られるまで、しばしこちらにてお待ちください」
執事は優雅に一礼して去り、その場にはシャロンとアルフレッド、そして壁際で控えるメイドだけが残ることとなった。
シャロンが滑らかな動きになるようにと慎重に手でクロケットを示せば、アルフレッドがいくつかを小皿に取り、手元に置く。それをそっと手に取り口に含めば、巷で売っている粗いものとは違い、ほろほろと崩れて舌の上でバターの香りとともに溶けていく。
それからアルフレッドは少し離れた窓際の椅子に座り、静かに目を閉じた。
……まさかひと眠りするつもりでは。
そんな疑問が浮かんだものの、下手に動いてぼろが出るよりは、と思い直し、シャロンはそのまましばらく待つ。
再び執事の先触れがあり、続いて扉から、エレナ・クラレンス・リーヴァイスが姿を現した。
ゆるくウェーブがかった金に近い薄茶の髪をアップでまとめ、子猫のように目尻の上がった碧の瞳に、ドレスは何段かに分けて控えめにフリルが入り、流行色の菫色。
こちらを確認すると同時に、すっと微笑んで、
「始めまして。私、グレヴィウス・エックハルト・リーヴァイスの娘、エレナ・クラレンス・リーヴァイスと申します。この度は、災難でしたわね」
腰をかがめて会釈をする。
まあ、わざわざフルネームで名乗った彼女の言葉を簡単に言うと、“ここが名のあるリーヴァイス家の家で、あなたたちがいきなり来たのも失礼だけど、何かあったらどうなるか、もちろんわかっているわよね?”ということになる。
「それで、あなたのお名前は?どちらからいらしたの?」
にこやかに言っているが……。まず家名を押さえておこうとの保険と牽制のつもりなのが見てとれる。
さて、どうしたものか。一番手っ取り早いのは、こちらの正体をさっさとバラしてしまうことだが、残念ながらここには執事も、メイドもいる。
しばらく黙ったままでいると、エリーの方がこちらをまじまじと見つめ、はっとしたような表情をしてから、傍に控える執事に、
「ちょっと下がってちょうだい。この二人とお話がしたいわ。それから、執事長のべークラントを呼んで」
「……かしこまりました。部屋の外に何人か控えさせますが、よろしいでしょうか」
「構わないけど。べクトはなるべく急いで連れてきてね」
はきはきと指示するエリーに、執事がメイドとともに一礼して退出する。
それを確認した後、エリーはこちらを見、いきなり飛びついてきた。
「シャロン、来てくれたのね!なんか、変な格好してるけど。ウィッグは似合ってないし、そのドレス、あと一歩で時代遅れになりそうじゃない」
服をしげしげと見てさらりと酷評する。それから腰付近をポンポンと押さえ、
「硬っ。男の人みたい」
といいながら笑った。
「心配したのはこちらの方だ。エリー、大丈夫か?あんな手紙が来て……心配した」
そう真剣に言うと、彼女はすまなそうに笑い、
「あー、あれね……あの手紙を書いてるときはほら、私も情緒不安定だったから。なんかまわりがよそよそしく見えちゃって。心配かけてごめん」
珍しく素直にそう言って、ゆっくりと体を離してこちらの手を取った。そして、ちょうどそのタイミングでノックの音があり、エリーが返事をすると、扉から執事長ベークラントが入ってきた。
……全然、変わってない。もうちょっと老けてるかとも思ったのに。
「ねえ、べクト。覚えてない?ほら。シャロンが訪ねてきてくれたの」
エリーが言うと、ベークラントもややしわのある顔をほころばせ、
「もちろん覚えておりますよ。シャーロットお嬢様。お懐かしゅうございます」
とピシリと伸びた背筋のまま一礼した。
その姿も、懐かしい……。
「シャロンが無事でよかった。まったく、全然連絡もくれないんだから。しかも来たかと思ったら毎回遠いところだし」
「それはその、悪かった」……のか?
「でも、帰ってきたってことは、もうずっとここにいるんじゃないの?」
エリーのその言葉に、ガタリ、と椅子から立ち上がり、アルフレッドが傍に来る。
「あれ?この人って、例の……?」
「例の……っていうのがなにかはわからないが、こちらはアルフレッドだ。アル、改めて紹介する。こちらはエレナ。私の、妹だ」
「まあ、流れでだいたいわかった。よろしく」
アルフレッドが口の端を上げて挨拶する。
「くっ……こんな格好いい人を連れてきて……。シャロン、やるじゃない」
「ちょっと待った。手紙で書いたように、私とアルはそんなんじゃないと言って……」
またまたーと笑いながら腕を叩いてくる。
「……エリー?」
久しぶりに会ったので、興奮しているのだろうか。貴族らしくないその振るまいに、ふと不安がよぎる。
「どうかした?」
振り向くその姿は、昔の面影をそのまま少しだけ成長させたような……エリーに間違いない。
「いや……父さ、んと母さ、、んは?今日は何か用事で出かけたのか?」
「二人とも、オペラを観にいったけど……夕方には帰ってくるはず。シャロンがいるのを知ったら、喜ぶよ」
「え」
どくん、と心臓が大きな音を立てた。
「二人とも……シャロンが家を出てから、すごく後悔してた。来てよ……部屋だってずっとそのままだから」
ぐいっと手を引かれ、絨毯に足を取られ転ばないよう気をつけながら、二階の……少し奥の、私の部屋だった場所へ向かう。廊下のタペストリーも、置き物にいたるまで……変わっていない。
懐かしさに、胸が締めつけられ、息が詰まり、苦しい。
「ほら」
そう嬉しそうに笑い、エリーが見せてくれた部屋は……たくさんの絵本と、奥には天蓋つきのベッド。そして、飾り棚には、あの時叩き壊したはずの、硝子の城が飾られていた。
「シャロン……戻っておいでよ」
親しみを込めて見つめるエリーに、かろうじて首を動かし、小刻みに小さく、続いて大きく首を振った。
「いや、悪いが……大切な用事があるんだ。こちらに長くはいられない……エリーが無事なのを確認したかっただけだから」
後ろから追いついてきたアルの腕を、ギュッと掴む。
「もう帰らないと」
そう告げると、エリーは少し寂しそうに笑い、
「そうなんだ……。でも、シャロン。私たちは、シャロンが帰ってくるの、ずっとここで待ってるから」
と顔を上げて今度はにっこりと微笑んだ。
……それからの記憶は、ひどく曖昧だった。リーヴァイス家の屋敷を出て、おそらく馬車とドレスと服飾品を返し、支払いを済ませたのだろうが……気がつくと辻馬車の中で、もう何をする気力も起こらず、アルに、宿を適当に見繕ってくれ、と頼む。
アルフレッドが御者と小窓からやりとりするのを遠くに聞きながら、腕を爪が立つぐらい強く掴み、じっと考えに耽っていた。
私が望んだ……諦めたはずなのに。なぜ……なぜ今さら、こんな。
宿についてアルとともに、受付へ向かう。やはり気力は起きず、彼に任せて、近くの椅子へと腰を下ろした。
思い描いた暖かな家庭……過去に幻想だと、振り払ったはずだった。それが今、こんなにも心を、揺さぶっている。
なんとはなしに宿の女将とアルとの会話を聞きながら、シャロンはぼんやりと椅子に座っていた。
「今からだって?あんたたち強運だねえ。ちょうどキャンセルが出たのが、一室空いてるよ。しかもダブルベッドだ。どうだい?」
「じゃあそれで」
あれ……?何かが引っかかり、頭の中で、もう一度その会話を反芻してみる。
「ちょっと待て!部屋が一緒ってどういうことだ」
突然のことに女将は驚いたようで、
「うわびっくりした。いきなりなんだい。そんなこと言われてもねえ。現に一室しか空きはないし……今からじゃどこの宿も一杯だろうし」
同時にアルも頷き、
「シャロン……落ち込んだ時は、誰かが傍にいた方がいい。前に、そう聞いた」
ジークから、との言葉で、シャロンはこの事態が誰のせいなのか正確に理解し、頭の中でジークの首を思いっきり絞めて殴り飛ばした。
想像上のジークがひどい目にあっているところで、アルがふと真顔になり、
「それに。まわりの状況がよくわからない。だから、今離れるのは得策じゃない」
そう言ってきたその意見は至極真っ当で、残念ながら反論する余地を欠片も見出すことができず、結局そうすることに決定してしまったのだった。