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後宮の爪紅師は、妃たちの嘘を剥がす 〜異世界転生ネイリスト、呪いの指先から宮廷陰謀を暴きます〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第九話 火傷の女は、誰の爪を守ったのか

「……遅すぎます、殿下」


 朱夏の声は、掠れていた。


 逃げようとしていた女の声ではなかった。


 十年、誰かに見つけてもらうのを待っていた人間の声に聞こえた。


 怜月殿下は朱夏の腕を押さえたまま、動かなかった。


 黒衣の袖の下で、彼の指が白くなるほど力を込めているのが分かる。


 怒り。


 それだけではない。


 目の前の女が、母の死に関わっている。


 それを知りながら、簡単に斬り捨てることもできない。


 そういう沈黙だった。


「遅すぎる、か」


 怜月殿下の声は低かった。


「十年前、私の母の宮から姿を消した女が言う言葉か」


 朱夏は薄く笑った。


 布で顔の下半分を隠しているせいで、その笑みは目元だけに出た。


 疲れた目だった。


「姿を消したのではありません。消されたのです」


「ならば、誰に」


「それを、殿下は本当にお知りになりたいのですか」


 怜月殿下の目が冷える。


「今さら問うな」


「今さらだから問うのです」


 朱夏は捕らえられているのに、怜月殿下を恐れていなかった。


 恐れていないのではない。


 恐れる時期を過ぎている。


 そんなふうに見えた。


 明珠が低く言った。


「朱夏。あんた、生きていたなら、なぜ戻らなかった」


 朱夏の視線が明珠へ移る。


 その目に、ほんの一瞬だけ昔の色が戻った。


「戻れば、あなたが殺された」


「私を言い訳にするんじゃないよ」


「言い訳ではありません。事実です」


「事実は、言い方一つで言い訳になる」


 明珠の声は鋭かった。


 十年前から続いている怒りが、そこにあった。


 私は朱夏の右手を見ていた。


 手の甲から手首へ伸びる火傷の跡。


 三つに分かれた、花弁のような傷。


 そして爪先。


 黒い爪紅が残っている。


 ただし、清貴妃の爪に塗られた黒とは違う。


 もっと古い黒。


 何度も塗り、何度も落とし、爪の奥まで染み込んだような黒だ。


 朱夏自身の爪が、長く傷んでいる。


「凛花」


 怜月殿下が私を呼んだ。


「はい」


「見ろ」


 命令は短かった。


 けれど、何を見るべきかは分かった。


 朱夏の爪。


 朱夏の手。


 朱夏の嘘。


 私は一歩近づいた。


 朱夏は抵抗しなかった。


 ただ、私を見た。


「あなたが、爪紅師?」


「下級爪紅師の凛花です」


「下級爪紅師が、殿下の側にいるの」


「成り行きで」


「後宮で一番信用してはいけない言葉ね」


「私もそう思い始めています」


 朱夏の目元が、ほんの少し緩んだ。


 私は彼女の右手を見た。


「触れてもよろしいですか」


「私に許可を求めるの?」


「爪を見る時は、なるべく」


「変な子」


「今日はもう数えていません」


 明珠が鼻で笑った。


「朱夏、見せてやりな。この子はあんたの爪から逃げ道まで読むよ」


「逃げ道?」


 朱夏は自分の手を差し出した。


「あるなら、私が知りたいくらいです」


 私はその手を受け取った。


 冷たい。


 皮膚は硬く、火傷の跡は古い。けれど、爪の周囲だけは最近も荒れている。親指と人差し指に細かな黒い粉。中指の爪は半分だけ磨かれていて、薬指は割れている。


 道具を扱う手。


 でも、爪紅師の手ではない。


 顔料を混ぜる者の手ではなく、指示されたものを運び、触れ、隠す者の手だ。


「朱夏さん」


「何」


「あなたは、今回の黒爪の作り方を完全には知らなかったのですね」


 部屋の空気が一瞬で変わった。


 小鈴が息を呑む。


 梨春と杏児は互いに顔を見合わせた。


 怜月殿下の目が鋭くなる。


「どういう意味だ」


「この方の爪に残っている粉は、清貴妃様の黒爪に使われたものと似ています。でも、混ざり方が雑です。自分で調合した人の残り方ではありません。誰かから渡されたものを扱った手です」


 朱夏は何も言わなかった。


 だが、指先がわずかに震えた。


 当たっている。


「それから、右手の親指と人差し指だけに黒い粉が多い。小皿や盆を持っただけなら、もう少し指全体につくはずです。でもこの残り方は、小さな包みを開けた時のものです」


「包み」


 怜月殿下が繰り返す。


「はい。粉を包んだ紙か布を開いた時、指先についたのだと思います」


 朱夏が静かに笑った。


「爪を見るだけで、そこまで」


「爪というより、手です」


「同じことよ」


「違います」


「どう違うの」


「爪は、その人が隠しきれなかったもの。手は、その人がしてしまったことです」


 朱夏の目が揺れた。


 明珠が黙って私を見ていた。


 怜月殿下も、何も言わない。


「あなたの手は、清貴妃様を直接害そうとした手ではありません。でも、何かを運んだ手です」


 朱夏はしばらく黙っていた。


 それから、ぽつりと言った。


「十年前も、そうでした」


 その一言で、部屋が凍った。


 怜月殿下の声が低くなる。


「話せ」


「私は、運んだだけでした」


 朱夏は自分の火傷の跡を見下ろした。


「華姚妃様の爪磨き粉。雪蘭油。それから、白い小さな包み。何に使うかも知らず、ただ渡されたものを運んだ」


 明珠が拳を握った。


「誰に渡された」


「名は言えません」


 怜月殿下の目が一気に冷えた。


「まだ庇うのか」


「庇っているのではありません」


「では何だ」


「名を言えば、違う者が犯人にされます」


 その言葉に、私は引っかかった。


「違う者?」


 朱夏は私を見た。


「あなたなら分かるでしょう。後宮では、名を出された者が真犯人とは限らない」


 その通りだ。


 南妃の爪紅。


 紅玉宮の印。


 清貴妃の黒爪。


 今回の事件はずっと、誰かの名を表に出す形で作られていた。


 南妃に見せる。


 紅玉宮に見せる。


 梨春や杏児に罪を背負わせる。


 もし朱夏がここで誰かの名を出せば、その名すら罠かもしれない。


「では、名ではなく手順を話してください」


 私が言うと、朱夏は少しだけ首を傾げた。


「手順?」


「はい。誰が、何を、どの順番で使わせたのか。名前ではなく、爪に何が起きたのかを」


 明珠が低く笑った。


「いい聞き方だ」


 怜月殿下は私を見る。


「名を聞かずに、犯人へ辿り着けるか」


「名前は嘘をつけます。でも手順は、嘘をつくのが少し難しいです」


「なぜ」


「手順には、癖が出ます」


 前世のサロンでもそうだった。


 同じ色を塗っても、筆の置き方、硬化の順番、パーツの乗せ方で施術者が分かる。


 料理人なら包丁の入れ方。


 書記官なら文字の払い。


 爪紅師なら、色を重ねる順番。


 人は、何かを作る時に自分の癖を残す。


 悪事でも同じだ。


「朱夏さん」


 私は彼女の爪から手を離さずに聞いた。


「十年前、華姚妃様の爪は、どの順番で変わりましたか」


 朱夏は目を閉じた。


 長い沈黙。


 その間、外の風が吊るされた薬草を揺らした。


 乾いた葉が、かさりと鳴る。


「最初は、艶が出すぎました」


 朱夏は言った。


「白月粉で磨いた翌日、華姚妃様の爪は、いつもより白く光っていた。皆、美しいと言いました。皇帝陛下も褒めました」


 怜月殿下の顔が動かない。


 でも、彼の呼吸が少しだけ浅くなったのが分かった。


「次に、爪の根元が曇りました。明珠様は磨きすぎだと怒りました。私はもう触るなと言われました。でも、また命じられた」


「誰に」


 怜月殿下が問う。


 朱夏は首を振った。


「手順です、殿下」


 私は静かに言った。


 怜月殿下は黙った。


 朱夏は続ける。


「三日目、雪蘭油を塗りました。香りが強かった。華姚妃様は少し気分が悪いとおっしゃった。でも、妊娠のせいだと言われました」


「四日目は」


「爪磨き粉ではなく、透明な液を使いました」


「液?」


「水のようなものです。香りはほとんどありませんでした。けれど、それを塗った夜から爪が灰色になった」


 明珠が顔をしかめる。


「そんなもの、私は知らない」


「明珠様には見せるなと言われていました」


「誰に」


 明珠の声が荒くなる。


 朱夏は目を伏せた。


「名は言えません」


「まだ言うかい」


「言えば、明珠様も死にます」


「私はもう老いぼれだよ」


「それでも、死なせたくありません」


 明珠の表情が歪んだ。


 怒りか、悲しみか。


 たぶん両方だ。


 十年前、朱夏は明珠を守るために消えた。


 明珠は朱夏を見捨てられなかったから、十年探した。


 敵ではない。


 けれど味方にも戻れない。


 後宮は、こういう関係を作る場所なのかもしれない。


「透明な液」


 私は呟いた。


「それが鍵ですね」


 朱夏が頷いた。


「華姚妃様は、爪が黒くなる前に、その液を嫌がりました」


「なぜ」


「爪に塗ると、冷たいと。骨まで冷えるようだと」


 冷たい液。


 香りが少ない。


 白月粉と雪蘭油のあとに使う。


 爪を黒くする。


 私は前世の知識を探った。


 爪に色が出る反応。


 金属粉。


 酸性かアルカリ性の液。


 油で密閉。


 皮膚からの吸収。


 でも、この世界の素材とは完全には一致しない。


「明珠様」


「何だい」


「雪蘭油と反応して黒くなる液に、心当たりはありますか」


 明珠は腕を組み、しばらく考えた。


「雪蘭油は、白く見せるための油だが、扱いを間違えると皮膚を冷やす。そこに月鉱水を混ぜると、爪紅の顔料が濁ることはある」


「月鉱水?」


「鉱山から出る水を精製したものだ。高価で、普通は薬師が使う。爪紅師が触るものじゃない」


「爪に塗ると?」


「弱った爪なら、黒ずむかもしれない。だが、それだけで妃が死ぬことはない」


「では、死因は別」


 私が言うと、怜月殿下が低く反応した。


「別とは」


「黒爪は、死の原因ではなく、死を隠すための目印だったのかもしれません」


 部屋が静まり返った。


 小鈴が小声で言う。


「どういうこと?」


「皆が爪に注目するようにした。呪いだ、黒爪だと騒げば、身体に起きている本当の異変を見落とす」


 杏児が震える。


「では、華姚妃様は」


「爪で殺されたのではなく、爪で別の毒を隠された可能性があります」


 朱夏の顔が、苦しげに歪んだ。


「私は……それを知らなかった」


「今は知っています」


 怜月殿下の声は、鋭かった。


「そして今回も、同じように清貴妃を狙ったのか」


 朱夏は首を横に振った。


「違います。今回、清貴妃様を殺すつもりはなかった」


「信じられると思うか」


「信じなくていい。ただ、清貴妃様の爪を黒くして、十年前を思い出させろと命じられました」


「誰に」


「名は――」


「朱夏」


 怜月殿下の声が、初めて少し荒れた。


「私の母は死んだ。十年だ。十年経って、お前はまだ同じように名を隠すのか」


 朱夏の目に涙が浮かんだ。


 けれど、こぼれなかった。


「殿下。華姚妃様は、最後まであなたを守ろうとしました」


「知っている」


「いいえ。ご存じない」


 朱夏は震える声で言った。


「あの方は、黒爪になった夜、私に言いました。殿下には何も言うなと。殿下が怒れば、必ず真実に向かう。真実に向かえば、殺される。だから、私たちは皆、悪者になればいいと」


 怜月殿下の顔から、血の気が引いた。


 それは本当に一瞬だった。


 次の瞬間には、いつもの冷たい顔へ戻る。


 でも、私は見た。


 その言葉は刺さった。


 深く。


「母が、そう言ったのか」


「はい」


「私に、何も知らせるなと」


「はい」


「……残酷な人だ」


 怜月殿下の声は、静かだった。


 静かすぎて、痛かった。


 朱夏は泣きそうな顔で言った。


「母親とは、そういうものではありませんか」


 誰も答えなかった。


 私は御園真白だった頃の母のメッセージを思い出した。


『ちゃんと食べてる?』


 私は『食べてるよ』と嘘をついた。


 あれが最後になった。


 胸の奥が、急に締めつけられた。


 母親は、何も知らない。


 知れない。


 でも、子供を守ろうとする。


 時に、その守り方が子供を傷つけることもある。


「朱夏さん」


 私は声を出した。


 少し掠れていた。


「今回、あなたは誰を守ろうとしているのですか」


 朱夏は私を見た。


 その目に、初めて明確な恐怖が浮かんだ。


「守ろうとしているのではありません」


「では?」


「まだ、生きているのです」


「誰が」


 朱夏の唇が震えた。


「華姚妃様の、もう一人の子が」


 時間が止まった。


 小鈴が息を止める。


 明珠の手から銀匙が落ち、乾いた音を立てた。


 怜月殿下は動かなかった。


 けれど、その瞳だけが、朱夏を射抜くように鋭くなる。


「……何を言っている」


「華姚妃様は、殿下のほかに、もう一人お産みになりました」


「あり得ない」


「記録から消されました」


「母は、皇子を宿したまま死んだはずだ」


「そう記録されたのです」


 朱夏の声が震える。


「本当は、死の前に産まれていました。生まれた子は女児でした。皇子ではなかった。だから、いなかったことにされた」


 私は爪紅帳を見た。


 皇子を宿していた妃。


 黒爪。


 病死。


 火事。


 消された記録。


 もし子が皇子ではなく皇女だったなら。


 継承争いの価値は下がる。


 けれど、存在を隠す理由はある。


 華姚妃を殺した者にとって、子の存在は証拠になる。


 あるいは、華姚妃の血筋を完全に消したい者がいた。


 怜月殿下の声が低くなる。


「その子はどこにいる」


 朱夏は答えなかった。


 怜月殿下が一歩近づく。


「朱夏」


「言えません」


「なぜだ」


「今回、私が動いたのは、その子を人質に取られたからです」


 明珠が低く呻いた。


「まだ、そんな真似を」


「十年前と同じです」


 朱夏は笑った。


 涙をこぼしながら、笑った。


「後宮は何も変わっていない。手を汚す女を選び、守りたいものを握り、名を言えなくする」


 私は朱夏の爪を見た。


 黒い爪紅。


 割れた薬指。


 傷んだ親指。


 その手は、罪を犯した手だ。


 でも、守ろうとして壊れた手でもある。


「その子の存在を知っているのは」


 怜月殿下が問う。


「私と、もう一人」


「誰だ」


「名は言えません」


「まだ――」


「殿下」


 私は怜月殿下を止めた。


 彼の視線が私に向く。


 冷たい。


 でも、止まった。


「なぜ止める」


「朱夏さんが名を言えない理由が変わりました」


「何が変わった」


「さっきまでは、誰かを庇っているように見えました。でも今は、人質を守っている」


「同じことだ」


「違います」


 私は朱夏の手を見た。


「庇っている人は、迷います。でも、人質を取られている人は、恐怖が先に出ます。今の朱夏さんの爪は、さっきより強く震えています」


 怜月殿下は黙った。


 怒りを押し殺しているのが分かる。


 それでも、彼は私の言葉を聞いた。


「ではどうする」


「名前を聞く前に、人質の所在を探します」


「手がかりは」


 私は朱夏を見る。


「朱夏さん。あなたは今日、どこで指示を受けましたか」


「……文です」


「誰が運んだのですか」


「分かりません。厨房の薪置き場に置かれていました」


「文は?」


「燃やしました」


「灰は?」


 朱夏が目を見開いた。


「灰?」


「燃やした場所に、残っていませんか」


「厨房裏の灰壺に……」


 怜月殿下が即座に命じようとする。


 だが、私は続けた。


「その文に、爪紅や香油の匂いはありましたか」


 朱夏は記憶を探るように目を伏せた。


「……花の香ではありませんでした。墨の匂いと、少しだけ鉄のような匂いが」


「鉄」


 私は明珠を見る。


「鉄の匂いがする文を書く場所に心当たりはありますか」


 明珠が眉をひそめる。


「鉄胆墨を使うのは、後宮では珍しい。普通の女官文では使わない」


 怜月殿下が言った。


「政務文書に使う墨だ」


 つまり、指示を出した者は後宮内の女官だけではない。


 政務側に繋がる人物。


 皇族、官僚、記録係、あるいは医官。


 事件は、後宮の女の争いではない。


 もっと外へ伸びている。


 怜月殿下の目が暗くなる。


「灰壺を押さえる。厨房、薪置き場、文書庫を封鎖」


「待ってください」


 私はまた止めた。


「今度は何だ」


「動きが大きすぎると、人質が危ないです」


 朱夏の顔が青くなる。


「では、見逃せと言うのか」


「違います。表向きは、朱夏さんを捕らえたことを伏せます」


 部屋の空気が揺れた。


 小鈴が言う。


「伏せるって、どうやって? 今、捕まえたよね?」


「朱夏さんは逃げたことにします」


 怜月殿下が私を見据えた。


「なぜ」


「犯人に、朱夏さんがまだ自由に動いていると思わせます。そうすれば、次の指示が来るかもしれません」


「朱夏を囮にするのか」


「はい」


 自分で言って、胸が痛んだ。


 朱夏はもう十分傷ついている。


 でも、ここで終われば、彼女が守っている子が危ない。


 朱夏自身も、たぶん分かっていた。


「構いません」


 朱夏が言った。


「私は囮になります」


「簡単に言うな」


 怜月殿下の声が険しくなる。


「お前は十年前もそうして、自分一人で消えた」


「殿下」


「今度は勝手に消えるな」


 朱夏の目が揺れた。


 その言葉は命令だった。


 でも、置いていかれた子供の怒りにも聞こえた。


 朱夏はゆっくり頭を下げた。


「……承知いたしました」


 明珠がふんと鼻を鳴らす。


「まったく、十年経っても面倒な子たちだね」


「明珠様も含まれていますよ」


 私が言うと、明珠は目を細めた。


「口が達者になったね、凛花」


「師匠譲りでは」


「昔のあんたなら言わなかった」


「夢で練習しました」


「便利な夢だ」


 明珠はそう言いながら、少しだけ笑った。


 しかし、その笑みはすぐに消える。


「朱夏。隠していることは、まだあるね」


 朱夏は黙った。


 明珠は立ち上がり、朱夏の右手を掴んだ。


「この黒い爪紅。誰に塗られた」


 朱夏の顔が強張る。


 私は改めて朱夏の爪を見た。


 黒い爪紅。


 自分で塗ったにしては、左手の仕上がりが整いすぎている。


 右利きの人間が自分の右手に塗る時、少し線が乱れる。けれど、朱夏の右手の黒は、誰かが丁寧に塗っている。


 しかも、古い。


 何度も塗り直されている。


「これは、命令の印ですか」


 私が問うと、朱夏は目を伏せた。


「人質が生きている間は、この色を落とすなと言われています」


 杏児が震えた声を出す。


「そんな……」


「黒い爪紅を塗った者から、定期的に文が来ます。爪が黒いうちは、あの子は生きている。爪紅が剥がれれば、次の文は来ない」


 小鈴が口元を押さえた。


「ひどい」


「後宮では、爪先が命綱になることもあります」


 朱夏は静かに言った。


 私は彼女の爪を見た。


 落とせない黒。


 人質の生存確認。


 守るために塗られた呪い。


 美しさとは、まるで逆の爪紅。


「その黒い爪紅」


 私は言った。


「塗り替えられます」


 朱夏が顔を上げた。


「何を」


「落とすのではありません。黒を残したまま、別の印に見せます」


 清貴妃の夜桃花と同じ。


 黒を消さず、意味を変える。


「犯人が見れば、黒は残っている。でも、近くで見れば別の印を仕込めるかもしれません」


 明珠が私を見た。


「何を仕込むつもりだい」


「朱夏さんが次に文を受け取った時、その相手に触れる可能性があります。爪先に青銀の粉を少しだけ混ぜます。相手が文を渡す時、同じ粉がつく」


「爪紅で追跡する気か」


 怜月殿下が言う。


「はい」


「危険だ」


「何もしない方が危険です」


 朱夏はしばらく私を見ていた。


 そして、右手を差し出した。


「塗ってください」


「本当にいいのですか」


「十年、誰かのために黒を塗ってきました」


 朱夏の声は震えていた。


「一度くらい、私のために塗ってほしい」


 私は何も言えなかった。


 道具箱を開ける。


 黒い爪紅を完全に落とさず、上から薄く透明な油を置く。その中に、明珠の青銀粉をほんのわずかに混ぜる。


 見た目は変えない。


 でも、爪先が触れた相手に、微かな印が移るように。


 これはネイルではない。


 罠だ。


 それでも私は、できるだけ丁寧に塗った。


 傷んだ爪をさらに傷めないように。


 朱夏の手が少し震える。


「痛みますか」


「いいえ」


「では、怖いですか」


「……はい」


「私も怖いです」


 朱夏が少しだけ笑った。


「爪紅師が、客に怖いと言うのですか」


「前の仕事場では言いませんでした」


「前?」


「夢の話です」


 明珠が後ろで小さく笑った。


 怜月殿下は何も言わなかった。


 けれど、私の手元をじっと見ていた。


 朱夏の黒爪に、見えない印が重なる。


 それは、十年前から続く呪いに、こちらから爪を立てるための小さな仕掛けだった。


 塗り終えると、朱夏は自分の手を見つめた。


「変わっていないように見える」


「はい」


「でも、変わったのですね」


「はい」


 朱夏は目を閉じた。


「それで十分です」


 その時、外から控えめな足音が近づいた。


 怜月殿下が目だけで衛兵に合図をする。


 扉の外から声がした。


「殿下。白蓮宮より急ぎの報せでございます」


「何だ」


「清貴妃様のもとへ、差出人不明の文が届きました」


 部屋の空気が張り詰める。


「内容は」


 衛兵は一瞬ためらった。


「文には、こう」


 声が低くなる。


「“黒を飾る爪紅師を差し出せ。さもなくば、次は皇子ではなく皇弟の爪を黒くする”と」


 全員の視線が、私に集まった。


 小鈴が青ざめる。


 梨春が震える。


 杏児が息を呑む。


 怜月殿下の目が、ゆっくり私へ向いた。


 冷たいのに、どこか怒っている。


 私ではなく、私を狙った誰かに。


 明珠が低く呟いた。


「とうとう、凛花を名指しにしたね」


 朱夏は黒く塗られた爪を握りしめた。


 私は、喉の奥が乾くのを感じた。


 逃げたい。


 本当に逃げたい。


 けれど、もう遅い。


 私は、爪紅で黒爪の呪いを塗り替えてしまった。


 つまり、相手にとって私は、ただの下級爪紅師ではなくなった。


 爪紅帳を読む者。


 黒を別の意味へ変える者。


 後宮の嘘を剥がす者。


 怜月殿下が静かに言った。


「凛花」


「はい」


「私の側を離れるな」


「命令ですか」


「命令だ」


 私は少しだけ息を吸った。


「では、条件があります」


 小鈴が「また?」という顔をした。


 怜月殿下は、もう驚かなかった。


「言え」


「私を守るなら、梨春さん、杏児さん、小鈴、明珠様、朱夏さんも一緒に守ってください」


「欲張りだな」


「爪は十本あります。一人分だけ綺麗でも、手は美しく見えません」


 怜月殿下は、ほんの一瞬だけ目を見開いた。


 そして、低く言った。


「分かった」


 それは短い返事だった。


 でも、初めて怜月殿下が誰かを守ることを、義務ではなく選んだように聞こえた。


 私は朱夏の爪を見た。


 黒の中に、見えない青銀が仕込まれている。


 敵は私を名指しした。


 なら、こちらも見つける。


 誰がこの後宮に、十年前と同じ黒を塗ろうとしているのか。


 誰が女たちの爪を使い、罪を塗り、命を握っているのか。


 爪は嘘をつかない。


 でも、嘘を塗る人間はいる。


 ならば私は、その嘘を剥がす。


 たとえ次に黒くされるのが、自分の爪だったとしても。

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