第41話:山あいの夕餉、束の間の平穏
王都から隣国との国境へ向かう街道は、次第に険しさを増していく。
馬車が通るのもやっとの山道を抜けた先に、西日に照らされた見覚えのある屋根が見えてきた。
「ふう……着きましたね。なんか久しぶりに帰ってきた気がするわ」
懐かしい我が家の匂いに、私は思わず頬を緩める。
軒先には王都に向かう前に干しておいたハーブの束が風に揺れ、清々しい香りが山あいの空気に溶け込んでいた。
隣を歩くグレン様は、敷地に入った瞬間、呆然と足を止めていた。
彼の脳裏にあるのは、きっと数ヶ月前の記憶だろう。血と泥にまみれ、瀕死の相棒グリーちゃんを抱えて、なりふり構わずここに駆け込んだあの日のことだ。
「……驚いたな。以前来たときは、余裕がなくて全く気づけなかったが」
グレン様が絞り出すような声で呟く。
彼の碧い瞳が、夕陽を浴びてきらきらと輝く店の窓や、塵一つ落ちていない石畳をなぞっていく。
「ここは、なんて……なんて澄んだ場所なんだ。王都のどの神殿よりも、心が洗われるような心地がする」
「ふふ、そうでしょう? 毎日欠かさず磨いていますもの。不潔なものが一粒でも残っていると、夜も眠れなくなってしまいますから」
私は誇らしげに胸を張り、カギを開けて彼を中に招き入れた。
グレン様の従幻獣のグリフォン――グリーちゃんは自分の家に戻ったかのように「クルルッ」と嬉しそうに喉を鳴らし、私の頬を一度だけ舐めた。
「前線まではまだ距離があります。今日はここで旅の準備を整えて、明日の早朝に出発しましょう。……幸い、グレン様の泊まるお部屋もありますから」
「あ、ああ。宿代わりにして構わないとは、非常にありがたい……っ」
そこまで言いかけて、グレン様が急に言葉を詰まらせた。
ハッとしたように辺りを見渡し、それから視線を彷徨わせる。
「……ミヤコ殿。ま、待ってくれ。泊まるということは、つまり……俺と貴女が、この家で、二人きりで……夜を明かす……ということか?」
「ええ、そうですけれど。何か不都合でも? それにモップとグリーちゃんもいるじゃないですか」
私が首を傾げると、グレン様のお顔がみるみるうちに赤く染まっていった。
夕焼けのせいではない。耳の先まで、茹でた海老のように真っ赤だ。
「あ、いや! 邪な気持ちなど微塵も……! 私の騎士道に誓って変な真似は断じて! だが、年頃の女性の家に、男が泊まるなど……っ」
「まあ、グレン様、お顔が真っ赤ですわよ? もしかして、熱でも出されたのかしら」
私は心配になって、グレン様の額にそっと手を伸ばした。
ひんやりとした私の指先が触れた瞬間、彼は「ひっ」と短い悲鳴を上げて石像のように硬直してしまった。
「やっぱり、凄く熱いですわ! いいから、大人しくソファーに座っていてくださいな。今日は、栄養たっぷりのスープを作りますから」
「……ち、違う……そうではないんだ、ミヤコ殿……」
消え入りそうな彼の抗議を背中で聞きながら、私はエプロンの紐を力強く結び直した。
パチパチと、暖炉の中で薪がはぜる心地よいリズム。
キッチンには、バターとミルクの濃厚で甘い香りが立ち込めていた。
私はお気に入りの木のスプーンで、鍋の中のシチューをゆっくりと掻き混ぜる。
山で採れた新鮮な野菜と、じっくり煮込んだ柔らかなお肉。これに特製のハーブソルトをひと摘み加えれば、どんな疲れも吹き飛ばす魔法のスープの完成だ。
(グレン様、あんなに顔を赤くして……。きっと、慣れない山歩きで疲れてしまったのね。でも、騎士団長ともあろう方が、この程度で疲れるものかしら……)
私は鍋から一口分を掬い上げ、ふーふーと息を吹きかけて冷ました。
そして、ソファーで借りてきた猫のように小さくなっているグレン様の元へ歩み寄る。
「グレン様。シチューの味見、していただけますか?」
「え……? ああ、味見か。わかった」
グレン様が顔を上げたけれど、私の顔が近づくと、またしてもその顔が赤くなっていく。
「はい、あーん。良いお出汁が出ているとおもいますが」
「…………っ」
私がスプーンを口元へ運ぶと、グレン様は心臓が止まりそうなほど目を見開いた。
彼は震える唇で、しぶしぶとシチューを口に含む。
ゴクリ、と喉が鳴る音が、このしじまの中で妙に大きく響いた。
「……どうかしら。塩気が少し足りないかしら」
「……いや、完璧だ。……本当に美味い……」
「よかった! では、仕上げをしてきますね」
グレン様の視線が、私の背中にちりちりと突き刺さっているのを感じるけれど、きっと「もっと食べたい」という空腹の合図に違いない。
(騎士団長様ともなると、食欲も旺盛なのね。たくさん作って良かったわ)
夕食を終えた後の台所。
シンクの中では、ミヤコ特製の洗浄剤がふんわりと白い泡の山を作っていた。
ランプの火が水面に映り、小さな虹がまたたいている。
「洗い物、せめてこれくらいは、俺に手伝わせてほしい」
グレン様が袖を捲り上げ、隣に並んだ。
狭いキッチン。二人の肩が触れ合うほどの間近な距離に、グレン様の荒い呼吸が伝わってくる。
「ふふ、グレン様、力が入りすぎですわよ。お皿も幻獣と同じ。怖がらせないように、優しく撫でるように磨いてあげてくださいな」
あまりにも手つきが危なっかしいので、私は後ろから彼の手に自分の手を重ねた。
大きな騎士の手。剣を握り、国を護るためのその固い皮膚が、私の掌の下でピクリと跳ねる。
「ほら、こうですわ。お皿の裏に、まだ少しだけ脂汚れが残っていますでしょう? ここを、くるくる、と」
「……ミヤコ、殿……ちょっ」
グレン様の声が微かに震えている。
私は彼の横顔を覗き込み、納得したように頷いた。
「やっぱり、相当お疲れなのね。手がこんなにガタガタ震えるなんて、不摂生ですわ。お皿を割る前に、貴方はもうお休みになってください」
私はグレン様の手から布巾を奪い取ると、彼をリビングへと押し戻した。
グレン様は何かを言いたげに口を動かしていたけれど、最後には力なく肩を落とし、ソファーへと腰を下ろした。
数分後。
片付けを終えてリビングへ戻ると、そこには珍しい光景が広がっていた。
グレン様はソファーに座ったまま、力尽きたように深い眠りに落ちていた。
しかも。
ちょうど彼の横で丸まっていたモップの背中を、枕にするような形で。
「グルル……」
看板犬であるモップは、これ以上ないほど嫌そうな顔をしていた。
顔をくしゃりと歪め、「おい、ミヤコ以外が俺に触るな」とでも言いたげに、鼻息を荒くしている。
「モップ、ごめんね。もう少しだけ、我慢してあげて。……ブラッシング、明日はいつもの二倍にしてあげるから」
私が小声で交渉すると、モップは「ちぇっ」という顔で一度だけ尻尾を叩き、しぶしぶと重荷を受け入れる姿勢を見せた。
私は棚から、丁寧に洗ったばかりのふかふかの毛布を取り出し、グレン様の肩を優しく包んだ。
鎧を脱いだ彼の寝顔は、一国の騎士団長というより、ただの疲れた青年のようだった。
日中に見せていたあの峻烈な眼差しも、今は穏やかなしじまの中に溶けている。
「……お疲れ様、グレン様。明日からはまた、この事件と戦わなければなりませんもの。今はゆっくり休んでください」
私は彼の額に、もう一度だけ手を当てた。
「お熱、少し下がったかしら。……きっと、栄養満点のシチューのお陰ね」
私は窓の外を見上げた。
満天の星空が、山あいの店を優しく見守っている。
「さあ、モップ。私たちも休みましょうか。明日は朝から、お出かけするから、しっかり休んで起きいましょう」
「わふぅ……」
モップは深いため息を吐きながら、主人の隣で静かに目を閉じた。
オレンジの香りがたゆたう室内で、二人の寝息が重なり、穏やかな夜が更けていく。
ユニコリザードたちを救ってあげたい。杜撰で残酷な横穴を開けた人たちを、決して許さない。
そして、解決したらまた、この温かで平穏な毎日が、ずっと続きますようにと、私は心の中で静かに願った。




