第33話:蜥蜴草の香りと、三歳の儀式
朝霧がロシロ村を白く包み、森の奥からはまだ眠たげな鳥のさえずりが微かに届く、ひっそりとした早朝。
飼育舎の中には、寝藁の乾いた匂いと、ユニコリザードたちが発する穏やかな体温の熱が混じり合っていた。
ミヤコはいつものように、朝のブラッシングの準備を整えていた。けれど、今日のジョゼクの様子は、いつもとはどこか違っていた。
作業台の上に並べられたのは、使い慣れたブラシやオイルではない。鋭く磨き上げられた金属のドリル、そして見たこともない細い管のような道具たち。
(……あの道具、なんだか怖い。冷たくて、凶暴で……)
ミヤコは、背筋に走る小さな震えを隠すように、自分のエプロンの裾をぎゅっと握った。
「ミヤコ。今日はお前に、飼育屋としての避けられぬ仕事を見せておく」
ジョゼクの声は、いつもに増して重たかった。
彼は、一頭の若いユニコリザードを連れてくるようミヤコに指示した。昨日まで放牧場で元気に走り回り、ミヤコの足元に鼻を寄せて甘えていた、三歳になったばかりの個体だ。
「……その尖ったお道具、何に使うのですか? なんだか、あの子たちが怯えているみたい……」
ミヤコの問いに、ジョゼクは答えず、ただ作業台の脇にある古い香炉に火を灯した。
香炉から、一筋の紫煙がゆらゆらと立ち上った。
鼻腔を突いたのは、花の蜜を煮詰めて、そこに深い森の苦みを足したような、独特の芳香。
「蜥蜴草」と呼ばれる草の、甘く、それでいて頭の芯が少しだけ痺れるような重たい香りだ。
「これは、蜥蜴草だ。幻獣、特にユニコリザードの痛みと、心を安らげる力がある。……これ無しで、今日からやることは、命の冒涜に等しい」
煙が飼育舎の中に広がっていくにつれ、それまで不安げに足をバタつかせていたユニコリザードの瞳が、うっとりと微睡むように曇っていった。
身体の力が抜け、大きな頭がゆっくりと台の上に横たわる。
(御香の匂いで、あの子の怖い気持ちが消えていく……)
ミヤコは、その不思議な現象に目を丸くした。
この香で、幻獣を大人しくさせる方法があるなんて知らなかった。
「ミヤコ、香を絶やすな。……火が弱くなったら、この粉を足せ!」
「……はい」
ミヤコは真剣な面持ちで、香炉を見守った。
紫の煙が、あの子の心を優しく包み込んでいる。けれど、その先に待っているのが、耐え難い痛みであることを、彼女はまだ知らなかった。
ギリギリギリィィィン……ッ!
鼓膜を直接引っ掻くような、鋭い音が飼育舎に響き渡った。
ミヤコは思わず耳を塞ぎたくなったが、ジョゼクの厳しい視線に射抜かれ、手を止めた。
専用のドリルが、ユニコリザードの乳白色の角へと沈んでいく。
削り出された白い粉が舞い、香草の煙と混ざり合う。
三歳になったら、その角に魔力を通わせるための蜥蜴手綱を通すための横穴を開けなければならない。それが、この国でユニコリザードが人間と共に生きるための、絶対的な儀式。
眠っているはずのユニコリザードの体が、ビクンと跳ね、「ギュゥ……」と苦しげな吐息を漏らした。
ミヤコはその痛みを、自分の体が削られているかのように感じて、顔を青くした。
「……痛そう。とっても痛そうよ、ジョゼクさん。どうして、あんなに綺麗な角に、穴を開けちゃうの?」
「……こいつらに、言うことを聞かせるためだ」
ジョゼクは手を止めず、冷徹かつ正確にドリルを操り続けた。
「人間が手綱を握り、ユニコリザードが道を歩く。その均衡を守るための、いわば『契約の印』さ。これがない幻獣は、ただの暴力となって街を壊す。……支配することが、共に生きる唯一の道なんだ」
「契約……? でも、あの子は泣いている。そんな……かわいそうな契約」
ミヤコの瞳に、強い拒絶の光が宿った。
便利な道具として扱うために、大切な角を傷つける。それはミヤコにとって、何より耐え難い「命の冒涜」に見えた。
「……だから、俺たちは最善を尽くす。清潔に、手際よく、最短の時間で、痛みを感じさせないように。それが、命を預かる俺達飼育屋の最低限の義務だ。目を逸らすな、ミヤコ。お世話をするなら、この痛みまで引き受けろ」
ジョゼクの言葉が、杭のようにミヤコの心に打ち込まれた。
単に磨いて綺麗にするだけではない。生きていくために負わなければならない「汚れ」や「傷」さえも、全てを受け入れて磨き上げること。それが、真の飼育屋の姿なのだと、彼は背中で語っていた。
施術は、数十分のうちに終わった。
角には、直径三センチほどの、見事な円形の横穴が開けられていた。
ジョゼクが道具を置くと、ミヤコは吸い寄せられるようにして、ユニコリザードの元へ歩み寄った。
穴を開けられた周辺は、熱を持ち、痛々しく赤らんでいる。
「もしここに汚れや不純物が混じれば、角は内側から膿んでしまう。そうなれば、手綱の合図も届かず、いつか角そのものが折れることになる。……忘れるな、ミヤコ。穴を開けた瞬間から、その場所は『お掃除』が必要な場所になるんだぞ」
「……折れる。……不潔なままにしておくと、あの子が壊れてしまうのね」
ミヤコは、震える指先にそっと息を吹きかけた。
彼女は桶に汲んできた、魔力を伝えた温かな湯に清潔な布を浸すと、傷口を優しく拭い始めた。
「ごめんなさいね。痛かったわね。……でも、大丈夫。私がずっとピカピカにしてあげるから」
ミヤコの指先から、淡い桃色のまたたきが漏れ出した。
無意識に生活魔法の「洗浄」が、傷口の澱みをさらさらと洗い流していく。
不快な熱が引き、ユニコリザードが安堵したように長く、深い溜息をついた。
ユニコリザードはゆっくりと目を開けると、自分の傍に頭を寄せてきたミヤコの顔を、慈しむように一度だけ舐めた。
「ジョゼクさん。私、もっとお勉強します」
ミヤコは、磨き上げたばかりの角に頬を寄せ、凛とした声で言った。
「この子たちの角が、折れたり汚れたりしないように。世界で一番清潔な、誰も傷つかない『手綱』の通し方。……私が、いつか見つける」
ジョゼクはその様子を、黙って見守っていた。
自分よりも遥かに高く、清らかな場所を目指そうとする少女の横顔。
(この子は……ただの獲卵屋で終わる器じゃない)
飼育舎の外では、朝陽が霧を払い、金色の光が草原へと降り注ぎ始めていた。




