第31話:小さな鱗と、初めてのブラシ
雨が上がり、ロシロ村には本格的な夏の陽光が降り注ぐようになった。
窓の外では、眩しい緑の木々が風に揺れ、生命の輝きを謳歌している。けれど、ジョゼクの家の中には、それとは対照的な、ひんやりと澱んだ空気が漂っていた。
ミヤコは、部屋の隅にある窓辺の椅子に座り、ただじっと遠くの森を見つめていた。
ジョゼクが用意してくれた服は、質素だが、糊が効いていて真っ白に透き通っている。彼女の手も、今は汚れ一つなく白く輝いていた。
(お家は、とても綺麗。私の手も、ピカピカ……)
ミヤコは、膝の上で自分の指を一本ずつ見つめた。
清潔であることは、彼女にとって唯一の心の拠り所だ。けれど、外側がどれほど清らかになっても、胸の奥に溜まった重たい澱みだけは、どうしても消えてはくれなかった。
目を閉じれば、今でもあの不快な泥の匂いと、冷たくなった両親の服の感触が蘇る。
ガタッ、という重厚な音が玄関から響いた。
卵の世話や飼育舎の仕事を終えたジョゼクが戻ってきたのだ。彼は、家の中に「汚れ」を持ち込まないよう、玄関先で泥にまみれた大きなブーツを、驚くほど丁寧に脱いでから上がってくる。
それは、この小さな同居人に対する、彼なりの不器用な配慮だった。
「……ミヤコ、ずっとそこにいても退屈だろう。少し、手伝ってほしいことがあるんだが」
ジョゼクの声が、部屋のしじまを優しく揺らした。
ミヤコがゆっくりと顔を上げると、ジョゼクは脇に小さな、編み込みの籠を抱えていた。
「……おてつだい、ですか?」
ミヤコの消え入りそうな問いかけに、ジョゼクは静かに頷き、その籠をテーブルの上に置いた。
ジョゼクが籠の蓋をそっと開けた、その瞬間。
ミヤコの鼻先を、あの忌まわしい「不純物」の匂いが掠めた。
籠の中で震えていたのは、ジョゼクが森から獲ってきた卵から、今朝がた孵ったばかりのユニコリザードの「幼獣」だった。
その全身は、卵の殻の残滓と、粘り気のある泥のような汚れにべったりと覆われている。人工孵化の際に付着した不浄な何かが、幼い命の輝きを曇らせていた。
「あ……っ!」
ミヤコは、その姿を認めた瞬間に悲鳴を上げた。
椅子の背もたれに激しく体を打ち付け、転げ落ちるようにして後退する。
「嫌……嫌ぁ! あの子よ……あの子たちが、お父様とお母様を……!」
震える指先が、目に見えない脅威を指し示す。
幼いミヤコの脳裏に、あの日、馬車を壊し、大好きだった両親を引き裂いた「あの怪物」の姿が鮮烈にフラッシュバックした。姿形は小さくとも、それは間違いなく、自分の世界を奪った憎い種族だった。
ミヤコは耳を塞ぎ、蹲った。呼吸が浅くなり、全身がガタガタと小刻みに震え出す。
けれど、ジョゼクはそんな彼女のパニックを、静かな眼差しで受け止めた。
「落ち着け。……よく見るんだ。この子はまだ、何者でもねぇ。ただの、生まれたばかりの赤ん坊だ」
ジョゼクは、自身の大きな掌を幼獣の背中に添えた。
「見てみろ。この子は、ひどく汚れている。……不潔なままだと、この小さな命の火はすぐに消えちまうんだ。……お前のその綺麗な手で、この子を助けてやってくれないか」
「……たすける……?」
ミヤコが、指の隙間から恐る恐る顔を上げた。
籠の中の幼獣は、自分に向けられた敵意など知る由もなく、「キュゥ……」と、か細い、今にも途絶えそうな声で鳴いていた。
その瞳は濁り、全身を覆う汚れのせいで、呼吸をするのさえ苦しそうに見える。
「……この子も、……汚れだらけで、苦しいの?」
ミヤコの胸の奥で、恐怖とは別の、ちりちりとした疼きが生まれた。
自分を苦しめてきた「不潔」という重みが、この小さな命にも覆いかぶさっている。
ジョゼクは何も言わず、棚から一本の小さなブラシを取り出した。
それは、銀の装飾が施された、驚くほど柔らかい猪の毛のブラシ。
「今のお前にできる、唯一の仕事だ。やってくれるかい?」
ミヤコは、吸い寄せられるようにしてブラシを受け取った。
彼女はおずおずとテーブルに歩み寄り、籠の中の幼獣へと手を伸ばした。
触れた瞬間、指先から伝わってきたのは、しっとりと柔らかな鱗の質感。そして、その下で懸命に、けれど不安げに刻まれる心臓の鼓動。
(生きてる……。……あったかい……)
その熱が、ミヤコの凍りついていた感覚を呼び覚ましていく。
彼女は深く息を吐くと、小さな背中にそっとブラシを当てた。
「……痛くない? ……そう、いい子ね。今、綺麗にしてあげるから」
ミヤコがブラシを滑らせた、その刹那。
彼女の指先から、本人さえ気づかないほど淡く、温かな桃色の光が漏れ出した。
綺麗にしてあげたいという彼女の清らかな意志が、無意識のうちに魔力となってブラシに乗る。
カサ、カサ……。
ブラシが動くたび、粘ついていた汚れが、魔法の泡に包まれてさらさらとした粉へと変わっていく。
汚れが剥がれ落ちるたび、下から現れたのは、真珠のように美しい、乳白色の鱗の輝き。
ミヤコは、いつの間にか夢中になっていた。
ブラシを入れる角度、汚れを浮かす力加減。彼女の指先は、以前から知っていたかのように、幼獣が求めている場所を的確に捉えていく。
汚れを落とすたびに、自分の胸を圧迫していた「黒い霧」も、一緒に吸い取られていくような不思議な感覚。
「……きれいになってきた。もっと、ピカピカにしてあげましょうね」
幼獣は、あまりの心地よさに驚いたように目を丸くしていたが、次第に力を抜き、ミヤコの手のひらに甘えるように顎を乗せた。
ジョゼクはその様子を、背後で黙って見守っていた。
幼獣が、少女の手のひらで一瞬にして凪いでいく。
その実、ミヤコの横顔には、あの日以来一度も見せなかった、少女らしいまたたきが宿っていた。
鱗の掃除が終わったとき、籠の中にいたのは、もはやあの汚れた塊ではなかった。
朝の光を全身に浴びて、七色の光を弾く宝石のような、美しいユニコリザードの幼獣。
「……うん、できた。おわり」
ミヤコがブラシを置くと、幼獣は誇らしげに胸を張り、ミヤコの頬をペロリと一度だけ舐めた。
ざらりとした温かな舌の感触。
「ふふ……、くすぐったいわ」
ミヤコの唇から、小さな笑みがこぼれた。
それは、あの日からずっと消えていた、生きた喜びの微笑みだった。
「……ジョゼクさん。見て、この子……笑ってるみたい。綺麗になったら、とっても嬉しそう」
「ああ。……お前が、そいつを磨き上げたんだ」
ジョゼクは岩のような顔をわずかに緩めると、棚から新しい赤い色のリボンを取り出した。
彼はミヤコの白銀の髪に、不器用な手つきでそのリボンを結び直してやる。
「これからは、この子が寂しくねぇように、お前が毎日手入れをしてやってくれ」
「……はい! 私、この子のこと、もっとピカピカにしてあげたい」
ミヤコは幼獣を大切に抱きしめた。
その腕の中で、命が柔らかく脈打っている。
(そうか。綺麗にすれば、この子も。……私も。少しだけ、苦しくなくなるんだわ)
彼女はこの時、自分自身の「救い」を見つけた。
どんなに悲しい記憶も、不潔な過去も。この手で磨き続ければ、いつか本来の輝きを取り戻せるはずだという予感。
山あいの静かな家。
幼い少女と、小さなユニコリザード。
温かなスープの匂いに包まれながら、世界で一番小さな幻獣トリマーは、静かに、その活動を始めたのである。
ミヤコの瞳に宿った新しい光は、窓の外の夏の太陽よりも、ずっと眩しく澄み渡っていた。




