第32話:ロシロ村の日常と、同年代のともだち
ロシロ村を囲む深い森が、最も鮮やかな深緑に染まる季節が巡ってきた。
頭上の空はどこまでも高く、突き抜けるような青。吹き抜ける風には、乾いた土と、力強く芽吹く若草の匂いが混じっていた。
ジョゼクの家の前では、小さな少女が一人、一心不乱に手を動かしていた。
(ここを、こうして……よし、あともう少しね)
ミヤコは玄関先の石段に屈み込み、使い古した雑巾で一段ずつ丁寧に拭き上げていた。
あの日、泥だらけの山道から救い出されてから数ヶ月。彼女にとって「お掃除」は、もはや単なる習慣ではなく、崩れそうになる自分の心を支える、祈りのような儀式となっていた。
石畳が陽光を浴びて、うっすらと白く輝き始める。その磨き上げられた表面に、自分の影が映るのを見て、ミヤコは小さく満足げに頷いた。
「……ミヤコ。石段はもう十分だ。……お前の髪より光ってるぞ」
背後から響いた、地響きのような低い声。
振り返ると、仕事道具の手入れを終えたジョゼクが、強面の顔に微かな苦笑を浮かべて立っていた。
「でも、ジョゼクさん。隅っこの方に、まだ砂が残っていたの。不潔なまま夜を迎えるのは、石段さんも可哀想でしょう?」
「……石段の気持ちか。相変わらずお前さんは、目の付け所が他の奴らとは違うな」
ジョゼクは大きな掌でミヤコの頭を不器用になでた。その手は固く、驚くほど温かい。
「今日は天気がいい。村の広場に同年代の子供たちが集まっているはずだ。たまには掃除の手を休めて、お天道様の下で騒いできな。……泥にまみれるのも、子供の仕事だぞ」
「騒ぐ……? お掃除じゃなくて、泥まみれになるの?」
ミヤコは不思議そうに小首を傾げた。彼女にとって、外の世界はまだ眩しすぎて、どこか恐ろしい場所だった。けれど、ジョゼクの期待を裏切りたくないという想いが、彼女の背中をそっと押した。
「……うん。この子も一緒に、連れて行っていいかな」
ミヤコが抱き上げたのは、ジョゼクが端材を削って作ってくれた、小さなユニコリザードの木彫り人形だった。
ミヤコはそれを、自分の宝物のように大切に抱きしめ、軽い足取りで広場へと歩き出した。
村の中心にある広場には、十人ほどの子供たちが集まっていた。
彼らは木の棒を剣に見立て、石ころを魔獣に見立てて、元気いっぱいに駆け回っている。
「おーりゃあ! 食らえ、必殺の騎士斬りだ!」
「ぎゃーっ、やられたー!」
子供たちの中心で指揮を執っているのは、鼻の頭にそばかすを散らした少年、レオだった。
彼らは汗にまみれ、膝を真っ黒にして地面を転げ回っている。
ミヤコはその喧騒から少し離れた場所に立ち、呆然とその光景を見つめていた。
彼女が着ているのは、ジョゼクが特別に用意してくれた、一点の曇りもない白いワンピース。髪には、あの時もらった鮮やかな赤いリボンが結ばれている。
その清らかな姿は、泥だらけの子供たちの中で、まるで迷い込んだ一羽の白鳥のように浮き上がっていた。
「おーい、ジョゼクおじさんのとこの居候! 何ぼーっと立ってるんだ?」
レオがミヤコに気づき、土足のまま近づいてきた。
ミヤコは、彼が歩くたびに舞い上がる土埃に、思わず一歩後ずさった。
「こんにちは、レオ……君。……皆さん、随分とお洋服を汚してるのね。お母様に叱られないのかしら」
「は? 何言ってんだよ。騎士なら泥なんて恐れちゃいけねーんだぞ! ほら、お前も仲間にいれてやるよ。……なんだ、そのトカゲ? ユニコリザードじゃんか」
レオの視線が、ミヤコの手元の人形に止まった。
「これは、私の大切なお友達なの」
「へっ、そんなピカピカじゃ強そうに見えねーよ。もっと傷だらけで汚れてる方が、戦い抜いた騎士の幻獣っぽくて格好いいんだぜ! よし、お前ら、『泥砲撃』だ! ぶつけろ!」
「えっ、待って、だめ……っ!」
ミヤコの制止も虚しく、レオの合図で子供たちが泥を固めて作った爆弾を一斉に投げ込んだ。
ベチャッ、という嫌な音がして、ミヤコの腕の中にある人形の背中に、湿った黒い泥がべったりと付着した。
(あ……、そんな。……あんなにピカピカだったのに……)
人形にこびりついた泥。それが、彼女には耐え難い「痛み」のように感じられた。
レオたちは「やった、命中だ!」と無邪気に笑っているけれど、ミヤコの瞳には、絶望にも似た悲しみが宿っていた。
彼女は何も言い返さず、人形を抱えたまま、弾かれたように広場を飛び出した。
背後から「なんだよ、ノリが悪いなぁ」「変なやつ」という声が聞こえたけれど、今の彼女にとって大切なのは、腕の中のお友達を救うことだけだった。
村の端を流れる、清らかな小川。
ミヤコは川べりの平らな石に座り込むと、指先を冷たい水に浸した。
「ごめんね。今、綺麗にしてあげるから。……すぐに、お顔も背中もピカピカに戻してあげるわ」
ミヤコは、指の腹を使って、丁寧に泥を撫で落としていった。
水の中で泥が溶け出し、下から再び美しい木目が現れる。その変化を見つめているうちに、彼女の早鐘を打っていた鼓動が、次第に穏やかな凪へと変わっていく。
そこへ、後を追いかけてきたレオたちが姿を現した。
「お前、本当に洗ってるのかよ。そんなの、放っておけば乾いて落ちるのに」
レオは不思議そうに覗き込んできた。
「不潔なままなんて、この子がかわいそう。見て。……こんなに嬉しそうな顔に戻ったでしょう?」
ミヤコが掲げた人形は、水に濡れて宝石のようにしっとりと輝いていた。
彼女の表情には、先ほどまでの怯えはなく、凛とした誇りが満ちていた。
「……ふーん。やっぱりお前、変な奴。きれい好きなんて、俺たちとは全然違うよ。……行こうぜ、あいつと遊んでもつまんねー」
レオたちは呆れたように去っていった。
「変な子」。
その言葉は、けれどミヤコの心に傷を残すことはなかった。むしろ、自分が他人とは違う「何か」を大切に持っていることの、証左のようにさえ感じられた。
一人残された川辺。
陽が傾き始め、空は淡い茜色に染まりつつあった。川面には金色のまたたきが躍り、世界は一瞬のしじまに包まれる。
ミヤコは、濡れた人形をじっと見つめた。
(このままじゃ、木が傷んでしまうわね。……乾いてほしいのに)
そう願って、人形を両手でそっと包み込んだ、その刹那だった。
ふわっ、と。
ミヤコの小さな手のひらから、淡い桃色の光と共に、春の陽だまりのような温かな風が漏れ出した。
彼女自身も気づかないうちに、生活魔法の「乾燥」が発動したのだ。
濡れていた人形は、瞬く間にさらさらとした、吸い付くような感触を取り戻していった。
その実、人形の表面からは不純物も水分も完全に消え去り、鮮やかな輝きを放っている。
「……わあ。温かい……」
ミヤコは自分の手のひらを見つめ、それから人形を愛おしそうに頬に寄せた。
こうして「綺麗にすること」で得られる、胸の奥がすっと軽くなるような感覚。
それは、世界中で自分だけが知っている、特別な魔法に感じられた。
家路につくと、玄関先ではジョゼクが待っていた。
ミヤコは駆け寄り、胸に抱いたピカピカの人形を彼に見せた。
「おかえり。……なんだ、随分と晴れやかな顔をしているな。泥遊びは楽しかったか?」
「いいえ、ジョゼクさん」
ミヤコは弾けるような笑顔で、凛と答えた。
「泥落とし遊びを、してきたの。……とっても、たのしかったわ!」
ジョゼクは一瞬、目を丸くしたが、すぐに大きく肩を揺らして笑った。
「……くっ、ふふふ! そうか、お前らしいな、ミヤコ」
夕焼けに染まるロシロ村。
村人たちとは違う道を歩み始めた少女の足跡は、どんな石畳よりも清らかに、黄金の光を弾きながら続いていた。
「さあ、お湯が沸いているぞ。……夕食の前に、お前もピカピカに洗ってきな」
「はい!」
山あいの静かな夜に、清潔な石鹸の香りがふわりと溶けていった。




