EP,Summer ~section2:『浴衣と、守護者』~
烏森神社の入り口にそびえ立つ、ひび割れて苔生した巨大な石造りの鳥居。その真下に立ち、僕はひたすらに流れる汗を首に巻いたタオルで拭い続けていた。
空はすでに深い群青色に沈みかけ、一番星が頼りなく瞬いている。しかし、旧市街の晩夏の熱気は一向に引く気配を見せない。昼間の苛酷な太陽光をたっぷりと蓄えたアスファルトとコンクリートの残熱が、足元からじわじわと靴底を熱し、僕の体力を削り取っていく。
鳥居の向こう側に広がる神社の境内は、すでに身動きが取れないほどの凄まじい人混みと喧騒に支配されていた。ずらりと並んだ無数の提灯が放つオレンジ色の強い光が、薄暗い旧市街の街並みを不自然なほど明るく照らし出している。
焼きそばのソースが鉄板で焦げる香ばしい匂い、綿飴の甘ったるい香り、焦げた醤油とイカ焼きの匂いが、重く湿った空気と混ざり合って鼻腔を容赦なく突く。遠くからはドンドンと腹の底を震わせるような和太鼓の重低音が響き、行き交う人々の笑い声や客引きの怒声が、途切れることのない一つの巨大なうねりとなって鼓膜を叩き続けていた。
僕はスマートフォンの画面を点灯させ、時刻を確認した。約束の時刻まで、あと一分。
僕の服装は、いつも通りの無地のTシャツにジーンズ、そして薄手のパーカーという、どこにでもいる平凡な高校生の出で立ちだ。こんな祭りの喧騒の中にあっては、背景の一部として完全に同化してしまう没個性的な格好である。
心臓が嫌なリズムで早鐘を打つ中、鳥居の前のひび割れたアスファルトの道に、場違いなヘッドライトの光が差し込んだ。
周囲の提灯の光を滑らかに反射しながら、音もなく、しかし周囲の空気を完全に威圧するような重厚感を持って滑り込んできたのは、漆黒の巨大なリムジンだった。
祭りに向かう地元のヤンキーや、家族連れ、浴衣姿の中学生たちが、何事かと一斉に足を止め、その異様な黒光りする車体へと視線を釘付けにする。周囲の喧騒が、その一帯だけ潮が引くようにスッと静まり返った。
リムジンが僕の目の前で静かに停止する。
運転席のドアが開き、巨漢の男がアスファルトの上に降り立った。
如月コンツェルンの警備担当であり、彼女の専属ボディガードでもある黒田さんだ。身長は二メートル近くあり、肩幅は常人の倍はあろうかというほどのゴリラのような体躯。四十代後半の彼は、どんな暴漢でも素手で捻り潰せそうな筋肉の鎧を纏っている。オーダーメイドの最高級の黒いスーツが、彼が少し動くたびにはち切れんばかりに悲鳴を上げているように見えた。
短く刈り込まれた髪に、夕闇の中でも決して外さない真っ黒なサングラス。どう見てもカタギの人間には見えないその圧倒的な風貌に、近くでたむろしていた柄の悪い地元の男たちが、明らかに顔を引きつらせて後ずさりしていく。不良や怖い人が極端に苦手な僕にとっても、本来なら絶対に目を合わせてはいけない部類の人間だ。
黒田さんがゆっくりとした、しかし隙のない動作で後部座席へと回り、恭しくドアを開けた。
「やっほー、光太郎くん。待たせちゃったかしら」
パッと花が咲いたような、よく通る明るく華やかな声が響いた。
車内から優雅な動作で降りてきたのは、大人びた濃紺の生地に、大ぶりな白い百合の花があしらわれた浴衣姿の翡翠さんだった。如月コンツェルンの会計と経理を一手に担う数字のスペシャリストである彼女だが、今夜の装いからは普段のオフィスでの冷徹な姿は微塵も感じられない。
綺麗にうなじを出してふんわりと結い上げられた髪からは、すれ違うだけで誰もが振り返るような、上品で高級な香水の香りが夜風に乗って漂ってくる。二十歳という年齢が醸し出す大人の色気と、祭りを前にした子供のような無邪気な笑顔が同居しており、その破壊力は凄まじいものがあった。帯の結び目も美しく、足元のぽっくりが石畳を鳴らすカランという音さえもが、計算され尽くしたかのように心地よい。
そして。
翡翠さんに続いて、リムジンの奥からもう一人の姿が降り立った瞬間、僕の脳内のあらゆる処理能力は完全に限界を超え、視覚情報以外のすべてが強制的に遮断された。
黒を基調とした、息を呑むほどにシックな生地の浴衣。そこには、銀糸で流れるような細やかな流水紋が月光のように美しく描かれていた。帯は深い紫色で、彼女の澄み切った瞳の色と見事に調和している。
普段のサラサラとしたストレートのロングヘアは、今日は複雑に編み込まれてすっきりと結い上げられていた。その黒髪には、青い石があしらわれた豪奢な銀の簪が挿してある。彼女が車から降りてわずかに動くたびに、その青い石が周囲の提灯のオレンジ色の光を反射してキラリと鋭く輝き、銀の飾りが微かな、しかし凛とした音を立てて揺れた。
「遅れてはおらんじゃろうな、サクタロウ」
瑠璃さんが、硝子細工のように冷徹な紫の瞳で僕を真っ直ぐに見据える。
ただでさえ整いすぎているその容姿が、浴衣という和の装いによって、どこか人間離れした、吸い込まれそうなほどの妖艶さを放っていた。冷ややかでありながら、触れれば火傷をしそうなほどの圧倒的な美。
図書室で僕が抱いた懸念など、現実の彼女たちが放つ破壊力の前ではただの児戯に等しかった。僕の脆弱なキャパシティは、この最初の数秒で完全に消し飛んでいた。
「あ、はい。如月さん、その、翡翠さんも、すごく似合ってます」
僕の口からは、そんなひどく平凡で、気の利かない言葉しか出てこなかった。喉の奥がカラカラに渇ききっており、声がうまく出ない。
周囲のすれ違う男たちが足を止め、完全に言葉を失って二人の姿を凝視している。このままたった三人でこの雑踏に飛び込めば、僕の精神が五分と持たないことは明白だった。物理的な防波堤が、今すぐ必要だ。
僕は考えるより先に、周囲を鋭く警戒しているターミネーターのような巨漢のボディガードに向き直っていた。
「あの、黒田さん。もしよければ、黒田さんも一緒に回りませんか。さすがにこんな尋常じゃない人混みだと、僕一人でお二人を完璧にエスコートするのは不安ですし、何より、お二人の安全と警護のためにも、ぜひ僕たちに同行していただきたいんです」
早口で、半ばすがりつくように、そして『警護』という大義名分を最大限に強調して提案する。
黒田さんはサングラスの奥で少しだけ目を細め、眼前の群衆と僕の顔を交互に見た後、静かに、しかし力強く頷いた。
「お気遣い痛み入ります、光太郎さん。このような不特定多数が密集する場において、お嬢様方の安全確保は最優先事項。僭越ながら、同行させていただきます」
重低音の響く声でそう答える黒田さんの存在感は、僕にとってまさに地獄で仏だった。
道行く人々の視線や不用意な接触を物理的に防ぐ、分厚く巨大な筋肉の壁。彼という存在の強烈な圧迫感を横に置くことで、僕は姉妹の圧倒的な美しさに対する極度の緊張を、かろうじて中和、あるいは相殺することができる。
かくして、僕と美しき姉妹、そして周囲を睨みつけながら歩く黒田さんという、旧市街の夏祭りにおいてこれ以上ないほど極めて異質な、四人組の祭り巡りがスタートした。
**
神社の境内は、身動きが取れないほどの人で溢れかえっていた。
翡翠さんは普段の冷静で計算高い姿からは想像もつかないほど子供のようにはしゃぎ回り、金魚すくいの水槽を覗き込んでは歓声を上げ、射的の景品を指差しては僕の方を振り返った。
「ねえ光太郎くん、あれ見て。あのクマのぬいぐるみ、すごく可愛い」
「あ、はい。そうですね、可愛いですね」
翡翠さんが僕の腕を引こうとするたびに、僕は彼女の袖が直接僕の肌に触れないように、まるで高度な格闘ゲームの回避コマンドでも入力するかのように、必死でステップを踏んで距離を微調整し続けなければならなかった。少しでも気を抜けば物理的接触が発生し、僕の精神はそこでゲームオーバーとなる。
しかし、僕のその見苦しいほどの回避行動も、黒田さんの圧倒的な存在感によってなんとか誤魔化すことができていた。黒田さんは僕たちの斜め後ろを歩き、道行く人々をサングラス越しの鋭い眼光で睨みつけ、まるで砕氷船が氷の海を進むかのように、人混みの中に自然で安全な一本の道を作り出し続けているのだ。不良が苦手な僕だが、今日ばかりは黒田さんのこの威圧感が頼もしかった。
一方の瑠璃さんは、射的の景品にも、色鮮やかなヨーヨー釣りにも、香ばしい匂いを放つ屋台の食事にも、一切の関心を示していなかった。
周囲の喧騒など全く耳に入っていないかのように、ただひたすらに真っ直ぐな視線で屋台の看板だけを一つ一つ確認しながら歩を進めている。時折、焼きそばやたこ焼きの屋台の前を通り過ぎる際、彼女はその小さな鼻をわずかにしかめ、冷ややかな声を落とした。
「あのような、何度も使い回されてひどく酸化した劣悪な油で炒められた炭水化物など、人間の胃袋に入れる価値もないぞ。衛生管理の概念も皆無じゃ。あんなものを喜んで口にする者たちの気が知れん」
「まあまあ、瑠璃。お祭りの雰囲気なんだから、そういう細かいことは気にしないの」
翡翠さんが苦笑いしながらとりなすが、瑠璃さんの表情は微塵も崩れない。彼女の興味の対象は、この雑多な空間においてただ一つ、僕が提示した『幻のメロンクリームソーダ』の品質とその真偽にのみ向けられていた。その他のすべてのものは、彼女の高度な思考のフィルターによって即座にノイズとして切り捨てられているのだ。
境内の一番奥、大きな御神木の裏手にある、少し薄暗く人通りの少ない場所に、その目的の屋台はひっそりと存在していた。
色褪せた紅白の幕が張られ、古びたベニヤ板の看板に、下手くそな手書きの文字で『自家製メロンクリームソーダ』と書かれている。他の屋台のような派手な装飾や客引きの声は一切なく、ただパイプ椅子に腰掛けた初老の無愛想な親父さんが、不機嫌そうにタバコを吹かしているだけだ。
「サクタロウ。あれじゃな」
瑠璃さんの足がピタリと止まり、その声には微かな、しかし確かな熱がこもっていた。
僕は財布を取り出し、親父さんに声をかけた。親父さんは僕たちの異様な四人組、特に背後の黒田さんの巨体を訝しげに見つめながらも、無言でクーラーボックスから氷を取り出した。
その氷は、確かに普通の製氷機で作られた白く濁ったものではなく、ガラスのように透明で美しい純氷だった。親父さんはそれを手際よくカップに入れ、深い緑色の特製シロップを注ぎ、炭酸水で割る。そして最後に、クーラーボックスから取り出した丸く大きなかためのバニラアイスを、慎重にその上に浮かべた。
渡されたプラスチックのカップには、目が覚めるような鮮やかなエメラルドグリーンの液体がシュワシュワと細かな泡を立て、その上に完璧な球体を保ったバニラアイスが乗っている。
瑠璃さんはそれを受け取ると、両手でカップを包み込むように大事に持ち、真っ赤なストローにそっと口をつけた。
長い睫毛を伏せ、ゆっくりと喉を鳴らす。純氷がカップの内側に当たって、カランと涼しげな音を立てた。彼女がその液体を味わっている瞬間だけは、周囲の喧騒や熱気が、彼女の周りだけスッと引いていくような錯覚に陥る。彼女が静かに息を吐き出す姿は、まるで一枚の宗教画のように神聖で、美しかった。
「悪くないのう」
彼女の薄い唇から漏れたその短い一言は、彼女にとっての最大の、そして最上級の賛辞だった。僕が心底ほっと胸をなで下ろし、このまま無事に祭りの最大のミッションを終えられると確信した、まさにその時だった。
少し離れた場所でイカ焼きを買っていた翡翠さんが、小走りでこちらへ駆け寄ってきたのだ。
「あーっ、瑠璃だけズルい。ねえ光太郎くん、あっちにすごく面白そうなものがあったの。絶対に行きましょうよ」
翡翠さんが興奮した様子で指差した先。
それは、神社のさらに奥まった暗がり、古い木造の蔵を利用して作られた、巨大で異様なプレハブ小屋だった。
黒いビニールシートとベニヤ板で覆われたその建物の入り口には、『戦慄、烏森の怨霊』という、赤いペンキでおどろおどろしく書かれた巨大な看板が掲げられている。入り口からは、不気味な青い照明とともに、ドライアイスの白い煙が地面を這うように漏れ出していた。
僕の心臓が、先程とは全く違う種類の、冷たくて重い音を立てて跳ねた。
お化け屋敷。
それは、女性との接触とはまた別の意味で、僕が人生において最も避けて通りたい、恐怖と混乱の迷宮だった。




