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如月令嬢は『春宵の鼻端を笑わない』  作者: アリス・リゼル


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8/24

EP,Summer ~section1:『晩夏と、誘惑』~

 月見坂市を覆い尽くす晩夏の太陽は、ただひたすらに暴力的で、一切の容赦というものを知らなかった。

 空は抜けるような青というよりは、強烈な日差しによって白く退色してしまったかのような、目に痛いほどの白光を放っている。見上げるだけで網膜が焼かれそうになるその空の下、ひび割れたアスファルトの道は巨大な鉄板のように熱を持ち、靴の裏からじりじりとした熱気が容赦なく伝わってくる。遠くの景色は陽炎によってぐにゃぐにゃと歪み、まるで世界そのものが熱で溶け出しているかのようだった。

 まとわりつくような高い湿度は、呼吸をするたびに肺の中に生温かい泥を流し込まれているような息苦しさを伴う。どこまでも続く油蝉のけたたましい鳴き声は、もはや単なる環境音の域を超え、鼓膜を直接つんざく物理的な暴力となって街全体を支配している。


 しかし、そんな外界の苛酷な世界から完全に隔絶された場所が、この学園の片隅には存在している。

 重厚な木製の扉を押し開け、分厚い石造りの壁に守られた旧校舎の図書室へと足を踏み入れると、そこには別次元の空気が満ちていた。


 肌を撫でるひんやりとした冷気は、人工的なエアコンの風というよりも、古い石造りの建物自体が長い年月をかけて蓄え続けてきた静謐な冷たさだった。外の世界を支配していた耳鳴りがするほどの蝉時雨は、この分厚い壁と扉によって完璧に遮断され、代わりに部屋の奥に鎮座する年代物の大きな柱時計が、カチ、カチ、と規則正しく、そして恐ろしいほど正確に静寂の輪郭をなぞる音だけが響いている。


 高く設けられた窓には精緻な意匠のステンドグラスがはめ込まれており、そこを透過した傾きかけた西日が、床に敷き詰められた豪奢なペルシャ絨毯の上に、赤や青、緑といった色とりどりの光の模様を幾何学的に落としていた。空気中を漂う細かな埃の粒子は、その光の帯の中に入り込むと、まるで黄金の砂のようにキラキラと浮遊し、ゆっくりと床へと舞い降りていく。


 鼻をくすぐるのは、何十年、あるいは何百年という時間を経た古い紙とインクが発する、独特の甘く埃っぽい匂い。そして、アンティークのティーカップから静かに立ち上る、最高級のダージリンティーの芳醇で深い香りだ。


 僕は、部屋の中央に置かれた艶やかなマホガニーの重厚なテーブルの端に、まるで自分の存在をできるだけ小さくしようとするかのように身を縮めて座っていた。

 手元のタブレット端末の画面を意味もなく指先でスクロールさせながら、耳に深く押し込んだノイズキャンセリング機能付きのイヤホンに意識を集中させている。流れているのは、僕の推しである地下アイドル『GyoGyoっとラブ』の、アップテンポで少しチープな電子音が特徴的な楽曲だ。この歴史と静寂に支配された図書室の古典的な空気に、僕のガジェットとそこから漏れるかもしれないデジタルな音は、どこまでも絶望的にそぐわない。自分がひどく場違いな異物であるという感覚が、常に皮膚の表面を這い回っている。


 ふと、画面から視線を上げた。

 斜め前の席。この図書室における絶対的な特等席とも言えるその場所で、一人の少女が、分厚い古文書のような洋書に静かに視線を落としていた。


 如月瑠璃。

 彼女がわずかに首を傾げるたび、長く艶やかな黒髪のストレートヘアが、重力に従ってサラサラと微かな音を立てて肩口から滑り落ちる。その髪は、一本一本が夜の闇を直接紡ぎ出したかのように深く、そして滑らかだ。ステンドグラスから漏れる光が、彼女の透き通るような、血の通っていない陶器のような白い肌をふわりと照らし出している。

 本に視線を落とす彼女の長い睫毛は、白い頬の上に扇形の深い影を落としていた。時折、ページ上の文字を追うために伏せられた瞼が持ち上がると、そこに覗くのはアメジストのように澄み切った紫の瞳だ。その瞳の奥には、同世代の少女が持つような無邪気さや感情の揺らぎは一切なく、ただ底知れぬ知性と、物事の本質を冷徹に見透かすような鋭利な光だけが宿っている。


 彼女の机の上には、使い込まれた古い革の手帳と、キャップを外された銀色の万年筆、そして美しい装飾が施された銀のルーペが、まるでこれから何らかの厳粛な儀式を執り行うための祭具であるかのように、一切の乱れなく、ミリ単位の狂いもなく規則正しく並べられていた。

 ただそこに座り、静かに本を読んでいる。たったそれだけの動作が、息を呑むほどに美しく、一枚の完璧な名画として成立してしまっているのだ。不用意に近づいたり、気安く声をかけたりすれば、彼女の周囲に張り巡らされた見えない美しさの刃によって、精神の根幹から切り裂かれてしまいそうな、そんな強烈な近寄りがたさがあった。


 僕は手元のタブレットの画面をスリープ状態にし、ゆっくりとイヤホンを片方だけ外した。

 ノイズキャンセリングが解除された瞬間、部屋の静寂が、柱時計の秒針の音とともに僕の耳の奥へと流れ込んでくる。冷房が効いているはずの室内なのに、僕の手のひらにはじっとりと嫌な汗が滲んでいた。ズボンの生地で手汗を乱暴に拭い、喉仏を上下させて小さく息を吸い込む。


「如月さん。あの、少しよろしいですか」


 僕が静寂を破って声をかけると、彼女はページをめくろうとしていた指先の動きをピタリと空中で止め、ゆっくりと、本当にゆっくりとした動作でこちらへ顔を向けた。硝子細工のように冷たく、どこまでも透明な紫の瞳が、僕の存在そのものを値踏みするように真っ直ぐに射抜く。


「何用じゃ、サクタロウ。その奇妙な板切れの操作なら、勝手にやっておればよかろう」


 静かな空間に、鈴を転がすような澄んだ声が響いた。外見の可憐さとは裏腹な、ひどく達観した年寄りのような古風な言い回し。僕はその冷ややかな視線に射すくめられそうになりながらも、ズボンのポケットに手を入れた。


「いえ、作業じゃなくて。今週末の話なんですけど」


 ポケットの奥で四つ折りにしていた一枚の紙を、指先で慎重につまみ出す。紙が擦れるカサリという小さな音が、ひどく大きく聞こえた。手汗でインクが滲まないように注意しながら、その紙をマホガニーのテーブルの中央へとそっと滑らせる。

 それは、赤や黄色、極彩色に近い派手なインクで刷られた『烏森神社 夏祭り』のチラシだった。提灯や花火、そして金魚すくいや屋台のイラストが所狭しと描かれたそのチープな紙片は、この部屋の気高い雰囲気の中で異物感を放ちまくっている。


「僕の家の近くの神社で、夏祭りがあるんです。もしよかったら、如月さんもどうかなと思って。あ、もちろん、お姉さんの翡翠さんも一緒に。いつもお世話になってますし、たまには息抜きも必要かと思いまして」


 言ってしまってから、心臓の鼓動が急激に早鐘を打ち始めたのがわかった。

 彼女はテーブルの上に置かれた極彩色のチラシに、ほんの一瞬、氷のように冷ややかな一瞥をくれただけで、すぐに興味を失ったように窓の外へと視線を逸らした。


「遠慮するぞ。人混みと無駄な喧騒は好まぬ性質じゃ。非科学的な見世物や、衛生面が保証されない屋台の食事に時間を割く意味もわからん」


 一切の感情を交えない、ただ事実だけを述べるような冷酷な拒絶。

 しかし、僕の心臓はさほど跳ねなかった。落胆もなかった。ここまでは、僕の頭の中で構築したシミュレーション通り、完全に想定内の反応だったからだ。

 普通の女子高生が好むような娯楽に一切の関心を持たない彼女が、ただの泥臭い夏祭りに興味を示すはずがない。僕が用意した本命の仕掛けは、ここからだ。僕はテーブルの下でギュッと拳を握り締め、一つ深呼吸をしてから、チラシの右下の隅、不格好な提灯のイラストの横に小さく書かれた一文を指先でトントンと叩いた。


「そうですか。残念です。ここの屋台でしか出ない幻のメロンクリームソーダ、結構有名なんですけどね」


 ピクリと、彼女の華奢な肩がわずかに揺れた。

 僕はその針の穴を通すようなわずかな反応を見逃さず、立て続けに言葉を重ねる。


「なんでも、ただの市販の安っぽい緑色のシロップじゃないらしいんです。果汁百パーセントの厳選された最高級メロンの特製シロップに、門外不出の配合で強めの炭酸と数種類のハーブをブレンドした、採算度外視で徹底的にこだわって再現された調合物だとか。その上に乗っているのも、市販のラクトアイスなんかじゃありません。地元の牧場からわざわざ取り寄せた新鮮な生乳で作られた、極めて濃厚で、そして溶けにくいかためのバニラアイス。氷も普通の製氷機の氷ではなく、老舗の氷屋が三日かけてゆっくりと不純物を抜いて凍らせた純氷を使っているそうです。こだわりの強すぎる屋台の親父さんが気まぐれにしか作らないらしくて、祭りの期間中でも数杯しか出ない、まさに幻のメニューらしいですよ」


 一気にまくし立てる僕の言葉を聞き終わるか終わらないかのうちに、窓の外を向いていた彼女の顔が、ほんの数ミリ、いや数センチだけこちらへ戻った。


「ほう。幻、じゃと」


 声のトーンが、ほんの半音だけ上がった。

 確実に手応えがあった。かためのプリン、オムライス、そしてクリームメロンソーダをこよなく愛する彼女の急所を、見事に、そして正確に撃ち抜いた確信があった。僕は内心でガッツポーズを決めながら、とどめを刺す。


「ええ。採算度外視で徹底的に追求された、究極のメロンクリームソーダだそうです。まあ、如月さんが興味ないなら仕方ないですね。残念ですが、僕一人で並んで飲んでくることにします」


 僕がわざとらしくため息をつき、テーブルの上のチラシを引き寄せようとした瞬間だった。

 彼女の白く細い手が視界の端から弾かれたように素早く伸びてきて、僕の指先に触れる数ミリ手前でピタリと空中で静止し、そのままチラシの端をピンと人差し指で強く押さえた。

 爪の先が紙とテーブルに当たる、カチリという硬い音が鳴る。僕の行動を完全に制圧する、有無を言わせぬ明確な意思表示だった。


「その言葉、偽りではないじゃろうな。サクタロウ」


 僕を射抜く紫の瞳には、先程までの冷淡さは微塵も残っていなかった。ただ一点、その幻の調合物の存在を己の五感で確認し、味わい尽くそうとする、獲物を狙う猛禽類のような鋭く強い、圧倒的な光が宿っている。


「嘘なんてつきませんよ。如月さんにそんなことしたら、後で何をされるか」


「よかろう。姉にも伝えておく。今週末、指定の時刻に車を出させるぞ」


 彼女はそれだけ短く言い放つと、チラシから指を離し、再び手元の洋書へと視線を戻した。しかし、ページをめくる指先の動きが、先程よりもわずかに弾み、リズムが早くなっているように見えた。

 見事に罠にかかった。僕は小さく安堵の息を吐きながら、スマホのカレンダーアプリを開き、週末の欄に予定を入力し始めた。


 しかし。

 文字を打ち込んでいる途中で、僕の指先は唐突に凍りついた。

 スマホの画面を見つめたまま、僕の脳内で急速な状況の再計算が行われ、やがて導き出された最悪の結論に、背筋にぞくりと冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。図書室の冷房のせいではない。純粋な、底知れぬ恐怖と後悔による悪寒だった。


 自分で誘っておいて今更なのだが、僕はとんでもないことをしてしまったのではないか。

 指定の時刻に車を出すと言った。つまり、お姉さんの翡翠さんも本当に来るということだ。

 僕のことを『光太郎くん』と明るく親しげに呼び、二十歳という年齢以上の大人びた色気と美貌を放つ、あの翡翠さん。そして、目の前にいる、息を呑むほど完成された容姿と、近寄りがたいオーラを放つ瑠璃さん。


 同世代の女性と少し肌が触れそうになるだけで思考が完全にフリーズし、まともな会話すら困難になるこの僕が、あんな絶世の姉妹二人と、あのむせ返るような熱気と人混みに溢れた祭りの会場を歩くのだ。

 ただでさえ目立つ二人が、もし浴衣姿などで現れた日にはどうなる。周囲の視線を一身に集めることは火を見るより明らかだ。すれ違う見知らぬ男たちの欲望を含んだ視線、雑踏の喧騒、逃げ場のない人だかり。そして何より、彼女たちとの圧倒的な物理的距離の近さ。

 人がすれ違うのもやっとの屋台の並びで、もし翡翠さんの腕が僕の肩に触れたら? 瑠璃さんが振り返りざまに、至近距離で僕を見つめてきたら?


 僕の脆弱な精神が、果たしてそんな過酷すぎる状況でどこまで持つというのか。推しのアイドル相手ならともかく、現実の、しかもこれほど美しい女性二人をエスコートするなど、僕の手に余るどころの話ではない。キャパシティを遥かに超えている。

 どう考えてもハードルが高すぎる。なぜ僕は、こんな自爆行為に等しい誘いをしてしまったのか。幻のメロンクリームソーダという完璧なエサを思いついたことで、一時の達成感に目が眩み、その後のリスク計算を完全に放棄していたとしか思えない。


 激しく、いや、死ぬほど後悔した。

 胃の奥がギュッと縮み上がり、口の中がカラカラに渇いていく。もはやメロンクリームソーダどころの騒ぎではない。僕自身の精神が崩壊する危機だ。


 図書室のひんやりとした静寂の中で、僕はこれから訪れるであろう過酷で絶望的な晩夏の夜の情景をありありと想像し、誰にも聞こえないほどの小さな声で絶望的なため息をこぼしながら、深く、深く天を仰いだ。



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