EP,Spring ~section4:『石の旋律と、偽りの系譜』~
翌朝。月見坂市は今日も、淀みないアルゴリズムの恩恵を受けて完璧な秩序を保っていた。
通学路の交差点では、歩行者の接近をセンサーが感知し、立ち止まることなく渡れるよう信号のタイミングが自動制御されている。気温、湿度、風速に至るまで環境データが常にモニタリングされ、街路樹の散水システムが最適な水分を土壌に供給する。この街には、不快な摩擦も、予期せぬ停滞も存在しない。すべてがデジタルデータとして可視化され、最適化された、ガラス張りのようなスマートタウンだ。
しかし、僕の靴の裏には、昨日旧校舎の裏庭で踏みしめた、あの古井戸の周囲の湿った泥の感触がまだ微かに残っているような気がした。
ホームルームが始まる前の僅かな時間、僕は教室の隅にある個人用端末を開き、月見坂市の統合データベースにアクセスした。昨日、図書室で現像されたネガフィルムに写っていた二人の男。一人は市役所の腕章をつけ、もう一人は再開発の現場責任者らしき作業服を着ていた。如月さんがコンツェルンのアーカイブから割り出した彼らの所属と顔立ちを頼りに、三十年前の行政記録を検索する。
検索窓に『三十年前』『月見坂地区再開発』『現場責任者』『市役所都市計画課』といったキーワードを打ち込んでいく。統合データベースのレスポンスは速く、瞬時に数千件のテキストと画像がソートされた。
僕はその中から、該当する年代の人事録と、当時の広報誌のPDFデータを片っ端から閲覧していく。
やがて、一つの小さな記事に目が止まった。
再開発プロジェクトの起工式を報じる古い広報誌の隅に、あの写真と同じ顔の男たちが写っていたのだ。
一人は当時の市役所都市計画課長であった『水原』。もう一人は、市から基礎工事を請け負っていた中堅ゼネコンの現場監督『倉田』という名前だった。
彼らの経歴をさらに深掘りしようと、当時の工事進捗レポートのディレクトリにアクセスする。だが、そこで奇妙な現象に遭遇した。
三十年前の四月十五日から四月二十九日——遠野菜々美さんが図書室の本を借りてから『消滅』扱いになるまでの二週間——その期間の地質調査報告書と、基礎工事の進捗データだけが、ごっそりと欠落しているのだ。
ファイルナンバーは連番で管理されているはずなのに、『0414』の次が突然『0501』に飛んでいる。データベース上は『システム移行時のデータ破損』という無機質なエラーメッセージが表示されるだけだが、これほどピンポイントで、あのカメラが隠された時期の記録だけが消えているのは、偶然とは到底思えなかった。
誰かが意図的に、この期間の『何か』を歴史から消去した。
その確信を胸に抱いたまま、僕は午前の授業を上の空でやり過ごした。
昼休み、僕の端末に如月さんから短いメッセージが届いた。
『放課後、図書室へ来る前に、旧校舎一階の旧音楽室へ立ち寄るのじゃ。そこにあるアナログレコードの再生機を運んでこい。針は傷んでおっても構わぬ』
旧校舎の旧音楽室。
放課後、僕は指示通りに一階の薄暗い廊下を進み、防音扉を押し開けた。
室内には、新校舎には持っていかれなかった巨大なグランドピアノが白い布を被せられて鎮座し、隅にはひしゃげた金管楽器や、破れたティンパニが無造作に積まれている。そのガラクタの山の奥に、分厚い木製のキャビネットに収められた年代物のターンテーブルがあった。
持ち上げてみると、ずしりとした重みが腕に食い込む。現在のデジタルデバイスにはない、モーターと金属部品の塊としての物理的な質量。僕はそれに付着した埃を払い、落とさないように慎重に抱えながら、二階の図書室へと階段を上った。
「如月さん、持ってきました。デノン製の古いターンテーブルです」
図書室の扉を開けると、如月さんは既にテーブルの上を片付け、何かの準備を終えていた。
彼女の手元には、昨日井戸の底から引き上げたカメラの中に隠されていた、あの『石の円盤』が置かれている。さらに、ポータブルのアンプと、二つの小型スピーカーが結線されていた。
「大儀であった、サクタロウ。それをこの防振マットの上に置くのじゃ」
僕は彼女の指示に従い、ターンテーブルを設置した。
如月さんは慣れた手つきで電源ケーブルを繋ぎ、ターンテーブルのアーム部分を精査する。彼女の横顔は、未知の数式を解き明かそうとする学者のように冷徹で、そして美しい。僕は彼女の作業の邪魔にならないよう、一歩引いた位置からその手元を見つめた。
「如月さん。まさか、この普通のレコードプレイヤーで、あの石の円盤を再生するつもりですか? いくら何でも、材質が違いすぎませんか。石の溝を塩化ビニール用の針でなぞったら、針の方が折れてしまいますよ」
「お主は相変わらず常識の枠内に囚われておるのう。音というものの本質を考えてみるがよい」
如月さんは、テーブルの上に置かれた小さな金属製の箱を開けた。中には、細いピンセットや精密ドライバー、そして宝石箱のように仕切られた空間に、様々な形状の『レコード針』が収められていた。
「音とは、すなわち空気の振動じゃ。エジソンが発明した初期の蓄音機は、音の振動を振動板)で受け止め、その震えを針の先から直接錫箔や蝋の筒に物理的な『溝』として刻み込んだ。再生する時はその逆じゃ。溝の起伏を針がなぞり、その振動を再び音波に変換する。……つまり、この石の円盤の表面に刻まれた同心円状の傷も、何らかの振動を物理的に記録した『溝』であることに変わりはないんじゃよ」
如月さんはピンセットで、一本の太く鋭い針をつまみ上げた。
「かつての石工たちの中には、石の表面に特殊な酸や薬品を塗り、鋭利な鋼の針を接続した集音喇叭に向かって声を出すことで、その振動を石の表面に直接(腐食彫刻する技術を試みた者がおったという。もちろん、録音時間はごく僅か、音質も劣悪じゃが、この手法の最大の利点は『絶対に劣化しない』ことじゃ。塩化ビニールや磁気テープは数十年で加水分解を起こすが、石に刻まれた物理的な溝は、千年以上残る」
彼女はターンテーブルのカートリッジから古いダイヤモンド針を引き抜き、代わりに先ほどつまみ上げた鋭い針を慎重に装着した。
「これはSPレコードの再生用に使われる、鉄製のサファイヤコーティング針をさらに独自に研磨したものじゃ。これなら、石の荒い溝に負けることはない。もちろん、カートリッジ側のサスペンションも硬めに調整しておる。……さあ、サクタロウ。三十年間の沈黙を、今ここで破るぞ」
如月さんは、石の円盤をターンテーブルのプラッターに静かに置いた。
スピンドル(中心の軸)が、円盤の中央に開けられた穴にぴったりと収まる。
アンプの電源が入り、スピーカーから微かなホワイトノイズが漏れ始めた。
「…………」
如月さんがスイッチを入れると、プラッターがゆっくりと回転し始めた。
彼女はトーンアームを持ち上げ、円盤の外周、最も溝の深い部分へと慎重に針を下ろした。
ガリッ、という硬質な音が図書室に響く。
続いて、ザザザザッという、激しい砂嵐のようなノイズがスピーカーから爆発的に吐き出された。
「うっ……」
僕は思わず耳を塞いだ。それは音楽や声と呼べる代物ではなく、ただ石と金属が削れ合う破壊音にしか聞こえなかった。
「慌てるな、サクタロウ。石の表面の不純物と、エッチングの粗さがノイズを生んでおるだけじゃ。ここから『意味』を抽出する」
如月さんは全く動じることなく、アンプのイコライザーのつまみに指をかけた。
「高音域を完全にカット。低音域のランブルノイズを減衰させ……人間の声が存在する中音域だけを極端に増幅させる」
彼女の白い指先が、幾つかのつまみをミリ単位で調整していく。
すると、鼓膜を劈くような砂嵐のノイズが、まるで分厚い壁の向こう側で鳴っているようなくぐもった音へと変化した。
そして。
『……だから、言ったはずだ……』
ノイズの奥底から、突如として人間の声が浮かび上がった。
僕は息を呑み、スピーカーの前に身を乗り出した。
声はひどく歪み、幽霊の囁きのように頼りなかったが、確かに二人の男が会話している音声だった。
『……このまま基礎工事を強行すれば、十年、いや五年で地盤沈下が起きるぞ。第四区画の地下には、古い水脈の空洞が広がっているんだ。当初の地質調査のデータは完全に間違っていた』
焦燥感に駆られた、野太い男の声。昨日写真で見た、作業服姿の現場監督・倉田の声だろうか。
『今更計画は止められんよ、倉田くん。このスマートタウン構想は、市長の悲願だ。ここで地盤に致命的な欠陥があると公表すれば、国からの補助金はすべて打ち切りになる。コンツェルン側も黙ってはいないだろう』
冷静で、酷薄な響きを持つもう一つの声。市役所の腕章をつけていた男、水原のものに違いない。
『しかし、あの石工……遠野の親父は、慰霊碑の石材を切り出している時にあの空洞を見つけてしまったんだ。あいつは職人だ、地盤の誤魔化しは許さないと言っている。市役所に直接告発に行くとな』
『……なら、告発される前に、彼の信用を社会的に抹殺するまでだ』
スピーカーから流れる水原の声は、一切の感情を排した機械のように冷たかった。
『彼の石材店が、市の認可を受けていない違法な採掘を行っていたという噂を流す。いや、書類をでっち上げればいい。営業許可を取り消し、この再開発エリアから強制的に立ち退かせる。……狂った石工の妄言など、誰も信じないように仕立て上げればいいだけの話だ』
『そんな無茶な……。あいつには、まだ小さい娘もいるんだぞ』
『街の未来のための些細な犠牲だ。……それより、第四区画の基礎は、空洞の上にそのまま鉄筋コンクリートの蓋をして塞いでしまえ。我々が退職するまでの三十年間、表面上持ち堪えればそれでいい』
そこまで再生された直後、ガサッ、という別の音がノイズに混じった。
男たちの会話とは違う、もっとマイクに近い位置――録音している者のすぐ傍で鳴った音。
枯れ枝を踏み折るような音と、短く息を呑む子供の声。
『誰だ!? そこで何をしている!』
男の怒鳴り声。
直後、ザザッという激しい摩擦音と共に、バタバタと走り去る足音が録音され――そこで、石のレコードの溝は唐突に終わり、針が内周で虚しく空転する音だけが図書室に響いた。
沈黙が降りた。
西陽が差し込む図書室で、僕はスピーカーを見つめたまま、しばらく言葉を発することができなかった。
冷や汗が背中を伝う。
三十年前、この街の再開発の裏で行われた、致命的な地盤欠陥の隠蔽。
そして、それを偶然知ってしまった石工――昨日のあのおじいさん――に対する、組織的な弾圧と社会的抹殺。
「……これが、真実」
僕の呟きに、如月さんはターンテーブルの針を静かに上げながら応じた。
「そうじゃ。あの遠野菜々美という九歳の少女は、父親を助けようとしたのじゃろう。父親が試作していたこの石の録音機とカメラを持ち出し、男たちの密談現場に忍び込んで、この告発の記録を残した。……じゃが、彼女は見つかり、追われた」
如月さんは、テーブルの上のカメラを指先でなぞった。
「逃げ場を失った彼女は、この旧校舎の裏手にあった古井戸に、カメラごとこの石のレコードを投げ込んだ。男たちに奪われるくらいなら、絶対に手の届かない闇の底へ隠すことを選んだんじゃ。……そして、彼女がこの本を借りたという記録も、彼女の存在自体も、市の権力と開発側の結託によって『消去』された」
「でも、おじいさんは、娘さんは病気で亡くなったって……」
「逃げ切った後、過労か恐怖からか、実際に重い病に倒れたのかもしれぬな。彼女がこの事実を父親に話す間もなく、命を落としたのだとしたら。……あの老人は、自分が市とゼネコンの陰謀で店を潰されたことも知らず、ただ時代の流れに負けたのだと自分を納得させ、三十年間、娘の帰りをあの場所で待ち続けていたことになろう」
残酷すぎる結末だった。
スマートタウンとして賞賛される月見坂市の完璧な舗装の下には、三十年前の汚悪な隠蔽と、一人の少女の必死の抵抗が、分厚いコンクリートで封じ込められているのだ。
しかも、録音の中で男は言っていた。『三十年間、表面上持ち堪えればいい』と。
それはつまり、あの第四区画――現在の月見坂市における中枢データセンターが建っているエリアの地盤が、今まさに崩壊の危機に瀕しているということを意味している。
「如月さん。これは……大変なことですよ。もしこの録音が公になれば、市の根幹を揺るがす大事件になります。すぐにこの証拠を警察か、あるいは監査機関に……!」
僕が身を乗り出して訴えかけると、如月さんはふっと、冷たくも艶やかな笑みを浮かべた。
「サクタロウ。お主は本当に、正義感に溢れた凡人じゃのう。……忘れたか。わしが興味を持っておるのは、あくまでこの『拾得物』が内包する歴史的価値とその証明だけじゃ」
彼女は石の円盤をプラッターから外し、愛おしむようにベルベットの布で包んだ。
「デジタルデータは、権力者のキーボード一つでいかようにも改ざんされ、消去される。先ほどお主がデータベースで見た欠落ファイルのようにな。しかし、この石に刻まれた物理的な傷は、絶対に嘘を吐かない。これこそが、モノが持つ絶対的な『声』じゃ。わしは、この図書室の片隅でその声を聞き届けることができた。……それだけで、充分に満足しておる」
「そんな……! じゃあ、このまま見過ごすっていうんですか? おじいさんの無念も、この街の危険も、全部知らなかったことにするんですか!」
思わず声を荒げた僕に対し、如月さんは全く表情を変えることなく、アメジストの瞳で僕を真っ直ぐに射抜いた。
「わしは『見過ごす』とは言っておらぬ。この拾得物の真なる価値は確認された。ならば、次はこのモノが指し示す場所――三十年間隠蔽されてきた『空洞』の正体を、この目で確かめねばなるまい。……それに、この告発の記録をあの老人に届けるか否かは、助手の分際でわしに噛み付いたお主自身が決めることじゃ」
如月さんは立ち上がり、窓の外を見下ろした。
眼下には、完璧な区画整理によって作られた、美しい月見坂市の街並みが広がっている。だが、今の僕には、その整然とした風景が、巨大な嘘の上に薄皮一枚で成り立っている砂上の楼閣にしか見えなかった。
「サクタロウ。本日の探究はここまでじゃ。だが、物語はまだ終わっておらぬ。……明日、放課後。第四区画の地下構造へ潜るぞ。お主のその震える足が、どこまでわしについて来れるか、見せてもらうとしよう」
如月さんの言葉は、有無を言わせぬ絶対的な響きを持っていた。
彼女は決して正義の味方ではない。ただ、隠された真実という名の『希少なコレクション』を追い求める、純粋な探究者だ。
そして僕は、彼女が踏み入るその深い闇から、もう目を逸らすことはできないと悟っていた。
テーブルに残された、泥だらけのカメラと、一枚の古い貸出カード。
スマートタウンの光が届かない場所で、三十年の時を超えて響いた石の旋律は、僕たちの平穏な日常を確実に、そして後戻りできないほどに浸食し始めていた。




