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如月令嬢は『春宵の鼻端を笑わない』  作者: アリス・リゼル


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EP,Spring ~section3:『図書室と、消えた名前』~

 放課後の旧校舎は、まるで巨大な深海魚の胎内にいるような静寂に包まれている。

 新校舎から伸びる連絡通路を渡り、この建物に足を踏み入れるたび、空気が数度下がるような錯覚を覚える。月見坂市の徹底した『無菌化』が進む中で、唯一この場所だけが、古い木材の脂や酸化した紙、そして窓辺に降り積もった歳月という名の埃を、そのままの形で保存していた。


 僕はギシギシと悲鳴を上げる階段を上り、二階の突き当たりにある図書室へと向かった。

 扉の重い木目を見つめ、一度だけ呼吸を整える。扉の向こうには、如月瑠璃さんが待っている。彼女という存在は、この古びた図書室の中で、そこだけが深く鮮やかな『点』となって浮かび上がっている。彼女の横顔は、教室で見せる微笑とは程遠い、獲物の足跡を追うハンターのような峻厳さに満ちていた。


「すみません、遅くなりました」


 僕は控えめに声をかけてから、扉を開けた。

 図書室の奥、西陽が差し込む閲覧席。彼女は既に鎮座していた。


「遅いのう、サクタロウ。お主、日直の仕事にかこつけて、わしとの約束から逃げようとしておったのではないか」


 如月さんは顔を上げず、カサリと古い台帳を捲った。


「そんなわけありませんよ。……それにしても、今日は一段と冷えますね、ここは」


 僕は彼女から一定の距離――いわば僕の精神的安全圏を保ちながら、対面の椅子に腰を下ろした。座る際、椅子の脚が床を打つ乾いた音が室内に響く。如月さんのように所作の一つ一つが完成されている人の前では、こうした雑音を立てる自分自身が、酷く不調法な存在に感じられてしまう。


「冷えるのではない。この場所に堆積した『時間』が、お主の未熟な皮膚を刺しておるだけじゃ。……見てみるがよい、サクタロウ。お主が昨日、あの老いぼれに返した『過去』の続きがここにあるぞ」


 如月さんはそう言うと、テーブルの上に置かれた一冊の本を、僕の方へと滑らせた。

 それは、背表紙のタイトルが刃物のようなもので執拗に削り取られた、無惨な姿の本だった。


「これ……昨日のおじいさんの件と関係があるんですか? モアイ像の中身は、ちゃんと返したはずですけど」


「モノの返還は、事象の終焉を意味せぬ。わしが興味を持ったのは、この本がなぜ『忘れ物箱』の底に沈んでおったか、という点じゃ。背表紙を見よ。タイトルは消されておるが、図書ラベルの分類番号は残っておる。『210』……郷土史じゃな」


 僕は本を手に取った。布張りの表紙は湿気で波打ち、端はボロボロに解けている。

 ページを捲ると、所々が切り取られたり、黒いインクで塗り潰されたりしていた。特に、三十年前の市街図や、かつての『石の家』があった界隈の集合写真が載っていたはずの箇所は、意図的に破壊されている。


「この本には、本校の蔵書印がある。だが、貸出管理用のバーコードが存在せぬ。つまり、この街がスマートタウンへと移行し、全ての資料をデジタル化する際、意図的に『無かったこと』にされた死蔵書なんじゃよ」


 如月さんはピンセットで、塗り潰された写真の一部を指し示した。


「昨日の老いぼれは言うたな。娘の菜々美という少女がいた、と。……だが、わしが昨晩、如月コンツェルンの全データベースを照合したところ、三十年前のこの地区に、その名の少女が存在した記録は一片も残っておらぬのじゃ」


「えっ……。でも、あの写真もあったし、勾玉のネックレスだって。あのおじいさんの表情、嘘を言っているようには見えませんでしたよ」


「嘘ではないじゃろう。あの老人の記憶の中には、確かに彼女は存在しておる。だが、この街の『公式な歴史』からは、彼女の存在そのものが、この本のタイトルと同じように削り取られておるんじゃ。……そして、この旧校舎の図書室こそが、その『抹消』から漏れた唯一の吹き溜まりなんじゃな」


 如月さんのアメジストの瞳が、暗い光を放つ。

 僕は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 昨日の感動的な結末の裏側に、何か得体の進れない『不自然な消失』が横たわっている。


「如月さん。でも、ここは高等部の校舎ですよね。三十年前の少女の記録なんて、ここにあるはずが……」


「お主は如月学園の歴史を知らぬのう。三十年前、この街の再開発と同時に、周辺の公立校は全て我が校へと統合された。その際、各校の備品や古い台帳はこの旧校舎に一時的に集約されたのじゃよ。新校舎が完成するまでの間、ここは全校種のアーカイブセンターとして機能しておった。……つまり、初等部の記録がここに紛れ込んでおっても、何ら不思議ではないということじゃ」


 如月さんはそう言うと、テーブルの隅に置かれていた古い木箱を指差した。

「サクタロウ。お主の手で、その箱を開けてみるがよい。わしの手は、今日のところはこれ以上汚したくないのでのう」


 僕は頷き、白い布手袋を嵌めて木箱に手をかけた。

 箱の表面には、埃が雪のように降り積もっている。

 蓋を開けると、中には黄ばんだ厚紙の『貸出カード』が、びっしりと並んでいた。


 僕は「と」のインデックスを指先で追った。

遠野(とおの)』……。

 カードを一枚ずつ捲っていくカサ、カサ、という音が、静まり返った室内で鮮明に響く。


「……ありました。これです」


 僕が抜き出したのは、一枚の貸出カードだった。

 そこには、幼さの残る、しかし一生懸命に書かれた筆致で、その名前が記されていた。


『東小学校三年 遠野 菜々美』


「……九歳。当時、如月学園に統合される直前の東小学校に通っておったようじゃな。だが、このカードの不思議な点はお主にも分かるじゃろう?」


 如月さんがカードを僕の方へと滑らせる。

 僕は記載内容を確認した。


 本のタイトル:『月見坂・石工の歴史』

 貸出日:四月十五日

 返却予定日:四月二十九日


 そして、返却日の欄には、赤いハンコで『紛失』という文字が押されていた。

 だが、その上に、さらに黒いインクで執拗に上書きされた跡があった。


『消滅』。


「紛失、じゃなくて、消滅……? こんな不自然な用語、図書の管理では使いませんよね」


「そうじゃ。紛失とは、モノがどこかへ行ってしまったことを指す。だが消滅とは、その存在自体が否定されたことを意味するんじゃ。……サクタロウ、この本。タイトルを削られたこの本と、同じ番号がこのカードに振られておる」


 如月さんは、先ほどのタイトルのない本を指差した。

 つまり、この本は遠野菜々美という少女が最後に借り、そして何らかの理由で『消去』されたとされた本だったのだ。


「如月さん。おじいさんは、娘さんは病気で亡くなったと言っていました。でも、このカードの書き方は……まるで、もっと別の、不自然な出来事が起きたみたいじゃないですか」


「病死、か。確かに公式のデータベースに記録がないことの説明にはなるが、これほど徹底した『抹消』の痕跡を説明するには至らぬのう。……見てみるがよい、サクタロウ。このカードの裏側を」


 僕はカードを裏返した。

 そこには、鉛筆の薄い跡で、小さな地図が描かれていた。

 昨日のモアイ像が置かれていた場所から、さらに川を遡り、この旧校舎の裏手にある『古井戸』を指し示す地図だ。

 そして、その横には一言だけ、震えるような文字でこう書かれていた。


『お父さん、ごめんね。宝物は、地下に落としちゃった』


「宝物……。昨日の勾玉とは別の、何かがあるっていうことですか?」


「モノは呼び合う。昨日、あの鼻毛モアイがお主の前に現れたのは、偶然ではないのかもしれぬぞ。この少女が、最後にこの本を抱えたまま、この街の隙間に消えていったのだとしたら……」


 如月さんは立ち上がり、窓の外を見つめた。

 赤い西陽が彼女のシルエットを黒く縁取り、その影が図書室の床を長く這う。


「如月さん。……僕が先に行きます。懐中電灯を持ってますから」


「ほう、助手の分際で殊勝なことを。……よかろう。お主のその背中が、闇の中で震えておらぬか、わしが後ろから厳しく見張ってやることにするぞ」


 僕たちは図書室を後にし、一階の備品倉庫へ立ち寄った。

 如月さんの指示で、僕は錆びついた清掃用の伸縮ポールと、先端がフック状になったワイヤー、そして強力な業務用懐中電灯を持ち出した。


 旧校舎の裏庭は、背の高い雑草が生い茂り、湿った土の匂いが立ち込めている。

 新校舎の明るい光ファイバーの網目から外れた、この街の『死角』だ。


「……あれですね」


 雑草をかき分けた先に、石組みの廃井戸があった。

 かつては防火用か、あるいは庭園の水源として使われていたのだろうか。周囲は錆びたフェンスで囲まれ、厳重に石蓋がされていた。


 僕は懐中電灯を口に咥え、両手で重い石蓋を横にずらした。

 ズズ、という石同士が擦れる不快な音が闇に響く。

 蓋が開いた瞬間、中から吹き出してきたのは、冷蔵庫を開けた時のような、冷たく湿った風だった。


「サクタロウ、照らせ」


 如月さんの短い命令に従い、僕はライトの光を暗黒の底へと投じた。

 井戸の深さは、およそ五メートル。九歳の子供であれば、一度中にモノを落としてしまえば、自力で取り出すのはまず不可能だ。


 ライトの強い光が、堆積した落ち葉と泥にまみれた底を捉える。

 そこには、鈍い銀色の光を反射する『モノ』があった。


「……あれだ。如月さん、見えますか? 金属製の……カメラみたいです」


「ほう、カメラか。三十年前の光学機器……。サクタロウ、ポールを使うのじゃ。レンズを傷つけぬよう、ストラップの部分を狙え」


 僕は伸縮ポールを最大まで伸ばし、先端のワイヤーを慎重に操作した。

 暗い井戸の底で、ライトの光が揺れる。ポールの先が金属体に触れるたび、カチッという硬質な音が井戸の壁に反響し、僕の心臓の鼓動を早めた。


「落ち着け。モノを扱う際に焦りは禁物じゃ。モノの声を聞き、その重みが手に伝わるのを待つのじゃぞ」


 如月さんの静かな、しかし威圧感のある声が背後から聞こえる。

 僕は深く息を吐き、ワイヤーをカメラの革製ストラップに引っ掛けた。

 確かな手応え。僕はゆっくりと、壊れ物を扱うようにポールを引き上げた。


 地上に現れたのは、泥と錆に覆われた古い一眼レフカメラだった。

 レンズは割れ、金属の筐体は腐食が進んでいたが、その佇まいには三十年間の沈黙を守り通した「証人」としての重みがあった。


「如月さん、取れました。……ひどい汚れですけど、重さはしっかりあります」


「図書室に戻るぞ、サクタロウ。……ここでは、この街の『目』が多すぎるからのう」


 如月さんは井戸の底を一度だけ一瞥すると、翻って旧校舎へと歩き始めた。彼女の足取りは、真実を掴み取った確信に満ちていた。


**


 図書室に戻ると、如月さんは手際よくテーブルに防水シートを広げた。

 僕は彼女の指示に従い、カメラをシートの上に置いた。

 懐中電灯の光の下で、僕は持参したタオルでカメラの表面を慎重に拭っていった。


「見てください、如月さん。ここ……」


 汚れを落としたカメラの底部に、僕は奇妙な細工を見つけた。

 それは、昨日のモアイ像にあった「継ぎ目」と、全く同じ手法で施された金属の象嵌(ぞうがん)だった。


「石工の技術……。おじいさんの家、『石の家』の技術が、なぜカメラの金属部分に?」


「お主も気づいたか。これは単なるカメラではない。……外部から情報を守るための『石の封印』が施された、一種のハードケースなんじゃよ」


 如月さんはピンセットを取り出し、カメラの底部にある小さな隙間に差し込んだ。

 微かな手応えとともに、カメラの底板が外れる。

 そこから現れたのは、フィルム室とは別に設けられた、密閉された小さな空間だった。


 中には、小さな『石の円盤』が収められていた。

 安山岩を薄く、精密に削り出した円盤。その表面には、肉眼では判別できないほど細かな溝が、同心円状に刻まれている。


「これは……何ですか? フィルムじゃない……」


「石のレコードじゃ。……サクタロウ、かつての石工たちの中には、石の表面に振動を刻み込み、音を保存する技術を持つ者がおったという。……少女はこのカメラで何かを写し、そしてこの石に、何かを『刻んだ』のじゃな」


 如月さんの声が、図書室の闇に溶けていく。

 三十年前、一人の少女がこの井戸に隠した『宝物』。

 それは、病死という言葉では片付けられない、この街の歴史を根底から覆すような、誰かの『告発』の記録だったのかもしれない。


「如月さん。この石の円盤に何が入っているのか、分かりますか?」


「それを解き明かすのが、これからのわしたちの仕事じゃ。……だが見てみるがよい。このカメラの内部に残された、最後の一枚を」


 如月さんがカメラのシャッター幕を慎重に開いた。

 そこには、レンズは割れていても、フィルム室の中に奇跡的に残された、最後の一枚の『ネガ』があった。


 僕はライトをネガに透かした。

 そこには、再開発前の月見坂市の風景。

 そして、巨大な重機を背景に、冷徹な目でこちらを見つめる、如月コンツェルンの作業服を着た現場責任者らしき男と、市役所の腕章をつけた男が写し出されていた。


「……如月さん。これ、コンツェルンの社員と、市役所の人ですよね」


「そうじゃな。一族の人間ではないが、当時の開発計画を現場で指揮しておった連中じゃろう。……だが、見てみるがよい、サクタロウ。この男たちが手に持っておる書類。そこには、この街の地図から抹消されたはずの『ある境界線』が記されておる」


 如月さんは不敵な笑みを浮かべ、ネガを大切にフィルムケースに収めた。

 その瞳には、身内への忖度などは微塵もなく、ただ『失われた真実を拾う』という純粋な探究心だけが燃え盛っていた。


 窓の外では、月見坂市の人工的な街灯が、今日も完璧な秩序を照らし出している。

 だが、僕たちの手元にあるこの泥だらけのカメラは、その光が塗り潰したはずの、泥臭くも切実な『人間の記憶』を、確かにそこに留めていた。


「サクタロウ。今日はここまでじゃ。……この石の円盤を読み解く準備をせねばならぬからのう」


「……分かりました。僕も、もう少し調べてみます。……如月さん」


「何じゃ」


「……いえ、何でもありません。お疲れ様でした」


 帰り際、図書室の扉を閉める時、もう一度だけあの廃井戸の方を振り返った。

 そこにはもう、少女の泣き声は聞こえなかった。

 ただ、春の夜風が、折れた桜の枝を揺らしているだけだった。


 僕と如月さんの放課後は、まだ終わらない。

 拾得物が語り始める真実は、これからさらに深く、僕たちの日常を侵食していくことになるのだろう。



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