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EP,Spring ~section2:『巨大な外壁と、秘密の庭園』~(2)

 老人が投げ捨てた古いプラスチックのジョウロが、ぬかるんだ土の上に重い音を立てて転がった。


 中に入っていた水が周囲にぶちまけられ、ただでさえ湿度の高い空間に、濃密な土の匂いが一層強く立ち込める。


 白髪交じりの髪を振り乱し、よれよれの作業着を着た老人が、血走った目で僕たちを睨みつけていた。その手は怒りで小刻みに震え、今にも台座の上のモアイ像を奪い返そうとするかのようだ。


「やめてください、誤解です! 僕たちはこれを壊したわけじゃありません!」


 僕は咄嗟に、台座の前に立ち塞がった。


 だが、その瞬間に自分の『弱点』を思い出して息が止まる。


 この狭い路地だ。僕が不用意に動けば、背後にいる如月さんとの距離が致命的なまでに縮まってしまう。泥だらけの僕の制服が、彼女の白磁のような肌や、非の打ち所がないネイビーのワンピースに触れる。それは僕にとって、暴徒に襲われることよりも恐ろしい、回避すべき『禁忌』だった。


 僕は奇妙な角度で上半身を捻り、壁に背中を強打しながらも、彼女との間に絶対的な『三十センチ』のデッドラインを死守した。


「拾ったんです。川に流れているのを! 如月さんと一緒に、これがどこから来たのかを調べていたら、ここに辿り着いたんです。……本当なんです、信じてください!」


「拾っただと? 嘘をつけ! ずっと、ずっとここに隠していたんだ。誰にも見つからないように、俺が三十年守ってきたんだ。それを、この不純物だらけの街のガキどもが……!」


 老人は聞く耳を持たず、再び一歩踏み出した。その目は、台座の上で鼻から枝を突き出したまま鎮座するモアイ像を、まるで自分の心臓そのものであるかのように凝視している。


 だが、その時だった。


「やかましいのう。老いぼれ」


 僕の背後から、氷の刃のように冷たく、そして不思議な威厳を持った声が響いた。


 如月さんだ。彼女は僕の肩越しにすっと前に出ると、一切の恐怖を見せることなく、手に持ったペンライトの強い光を老人の顔面へと真っ直ぐに照射した。


「まぶしっ……! 何をしやがる!」


「無駄に吠える前に、自分の目で現実を正しく認識するんじゃな。わしの助手が、その貧相な腕力でこの太い枝をへし折ることができると本気で思っておるのかのう?」


 如月さんは語尾を古風に響かせ、ライトの光を老人の顔から、台座の上のモアイ像と、そこから生えた桜の枝、そして母樹であるエドヒガン桜の断面へと移した。


 白日の下に晒されたその『断面』は、人間の手で引きちぎられたような荒いものではなく、何か鋭利な力が一瞬で加わったことを示す、異様な滑らかさを持って裂けていた。


「断面の組織破壊のパターンを見るんじゃ。これは面に対する純粋な剪断力ではなく、上方向への急激な牽引によって生じたもの。お主の頭上にある、物流センターの清掃ドローンのワイヤーが原因じゃ。システムがこの枝を『壁の汚れ』と誤認し、排除しようとした結果なんじゃよ。お主が憎むべきは我らではなく、お主が三十年放置し続けた、この街の『無菌化システム』そのものなんじゃな」


 如月さんの言葉は、氷の楔のように老人の怒りを打ち砕いた。


 老人はライトに照らされた断面を凝視し、やがてその場に力なく膝をついた。


「ドローン……。機械が、俺の桜を……」


「そうじゃ。モノは嘘をつかぬ。この断面の湿り気からして、折れたのは三時間以内。お主がここに到着するのが、少しばかり遅すぎたというだけの話じゃ。……だが、感傷に浸るのは後回しにするんじゃな。わしが興味あるのは、お主の涙ではなく、この『石塊』の真実なんじゃ」


 如月さんは跪く老人を冷たく見下ろすと、台座の上のモアイ像へと視線を戻した。


 彼女は、まるで彫刻品としての美しさを確認するかのような手つきで、ルーペを石の底面へと近づける。


 「サクタロウ。お主、これが見えるか?」


 「え、どれですか?」


 僕は如月さんに触れないよう、最大限の注意を払いながら身を乗り出した。


「ここじゃ。この底の部分。安山岩の自然なクラックに見せかけておるが、明らかに人工的な『継ぎ目』がある。一度底を抜いて、別の部材で再び塞いでおるのじゃな。……お主のような素人の目には、ただの土産物の欠けに見えるかもしれんが、わしの目は誤魔化せぬぞ」


 如月さんの指摘通り、モアイ像の平らな底面には、極めて精巧に、かつ隠されるように一本の線が走っていた。石と石を、特殊な樹脂か何かで接着した跡だ。


「継ぎ目……。如月さん、まさかこの中に、何か入っているって言うんですか?」


「それを今から、この老いぼれに語ってもらうのじゃ」


 如月さんはライトを消すと、地面に座り込む老人を静かに見据えた。


「お主、何を知っておる。この石の持ち主だったというなら、隠さずに言うんじゃな。なぜ、土産物店の安物石像に、これほどの手間をかけて『空洞』を作ったのかをのう」


 老人は、震える手で桜の折れた断面に触れた。その目は遠い過去を見つめているようだった。


「……それは、娘のタイムカプセルだったんだ」


 かすれた声が、暗い路地に響く。


「娘さん……?」


「三十年前……この辺りが再開発されるって決まった時、俺の親父の店『石の家』は最後まで立ち退きに反対した。だが、結局は抗えなかった。娘の菜々美は、まだ小学生だった。引っ越しが決まった日、彼女は泣きながら言ったんだ。『この桜の木の下に、私の宝物を埋めておきたい』ってな」


 老人の目に、うっすらと涙が浮かぶ。


「だが、ここはコンクリートで固められるのが分かっていた。埋めても二度と掘り出せなくなる。だから俺は、売り物だったこの石像の底を抜いて、中に娘の宝物を隠したんだ。そして、工事の死角になるこの隙間に、桜の苗木と一緒に置いておいた。……いつか、この街の熱が冷めた頃に、娘と一緒に取りに来ようと約束してな」


「……それで、三十年間。あなたはずっと、約束を守り続けていたんですね」


 僕は、台座の上で沈黙を守る石像が、急に温かみを帯びたような錯覚に陥った。


 三十年前、一人の少女が信じた『宝物』。それを守るために、この老人は周囲がどんなに無機質なスマートタウンに変わろうとも、雨の日も風の日もこの暗がりに通い続けてきたのだ。


「だがな、娘はもう……来ないんだ」


 老人は顔を覆った。


「十年前、病気で逝っちまった。この石を取りに来るっていう約束、果たせないままにな。俺は、独りぼっちであの世へ行く娘に、これを持たせてやりたかった。だが、肝心のこの石は、桜の枝にがんじがらめに抱え込まれて、俺の力じゃどうしても動かせなかった。……無理に動かせば、娘と一緒に植えたこの桜が死んでしまう。そう思ったら、どうしても手が出せなかったんだ」


「なんという皮肉じゃな」


 如月さんが、静かに口を開いた。その声には、先ほどまでの冷徹さの中に、ほんのわずかな……本当に微かな感傷の色が混じっていた。


「桜は、娘との約束を忘れぬようにと、その枝で石を抱き寄せた。だがその執着が、かえって石を地上に留めてしまったというわけじゃ。……そして今日、無慈悲な機械のワイヤーがその抱擁を断ち切り、石は川へ放り出された。……サクタロウ、この石を開けるぞ」


「如月さん! それは、僕たちが勝手にやっていいことじゃ……」


「開けるんじゃ。主のいなくなったタイムカプセルを、いつまでも石の牢獄に閉じ込めておくのは、それこそ『モノ』への冒涜というものじゃ。お主もそう思うじゃろう、老いぼれ」


 老人は、ゆっくりと頷いた。


「……ああ。開けてやってくれ。俺にはもう、その勇気がなかったんだ」


 如月さんは、スプリングコートの隠しポケットから、精密工作用の小さなタガネと小型ハンマーを取り出した。常に何かを分解し、中身を確かめずにはいられない彼女の「七つ道具」だ。


「見ておれ、三十年の時を止めた石の心音を」


 彼女は、石の継ぎ目にタガネを当て、迷いのない手つきでハンマーを振り下ろした。


 カン、カン、という硬質な音が、物流センターの排気音を切り裂いて響く。


 数回の衝撃の後、石の底面がパカリと外れた。


 中から転がり出たのは、錆びついた小さなビスケットの缶だった。


 三十年という歳月は、缶の表面を赤黒く変色させていたが、如月さんの手によって慎重に蓋が開けられると、そこからは信じられないほど鮮やかな『色』が溢れ出した。


 中に入っていたのは、数枚のおはじき。


 折り紙で折られた、少し不格好な鶴。


 そして、一枚の古びた写真だった。


 写真の中には、まだ若い頃の老人と、満開の桜の下で屈託なく笑う小さな少女が写っていた。


 その少女の首には、手作りのネックレスがかけられている。


「……これ」


 僕は、缶の底に残っていたもう一つの物を見つけ、息を呑んだ。


 それは、写真の少女がかけているものと同じ、小さな『石の勾玉』だった。


 安山岩を丁寧に磨き上げて作られた、その店でしか作れない、世界に一つだけのネックレス。


「菜々美……」


 老人は、錆びた缶を震える手で受け取った。


 おはじきを指でなぞり、折り鶴の感触を確かめ、そして勾玉を胸に抱きしめた。


 彼の止まっていた三十年という時間が、今、一気に溢れ出し、温かな涙となってその頬を伝っていく。


「モノは、届くべき者の元へ届く。わしはただ、その物理的な必然を少しだけ早めてやったに過ぎぬ」


 如月さんは、ハンマーをポケットに仕舞い、立ち上がった。


 彼女の視線は、もはや泣き崩れる老人にも、感動的な再会の場面にも向いていなかった。彼女が見ているのは、主を失い、枝を折られながらも、春の風に揺れているエドヒガン桜の梢だった。


「サクタロウ。……拾得物は、無事に主の元へ返された。今日のわしの調査は、これにて終了じゃ」


「如月さん……」


 僕は、彼女の冷たさが、実は誰よりも『モノ』とその背後にある時間を尊重しているからこそのものなのだと、初めて理解したような気がした。


 彼女は、老人の感謝の言葉を待とうともせず、また、この物語を安っぽい美談として締めくくろうともしない。彼女にとって重要なのは、あくまで『何が起きたのか』という真実の解明であり、その結果として誰かが救われたとしても、それは彼女にとっては『副産物』に過ぎないのだ。


「おじいさん、その勾玉……大切にしてくださいね」


 僕は最後にそう声をかけ、彼女の背中を追って路地を駆け出した。


 後ろを振り返ると、老人は夕闇の迫る秘密の庭で、桜の木に寄り添いながら、ずっと泣き続けていた。


 物流センターの敷地を出ると、月見坂市の整然とした夜景が広がっていた。


 計算し尽くされた光の中に、不自然なほど静まり返った街。


 だが、その無機質なコンクリートの奥底に、確かに『人の想い』が息づいていたことを、僕は知っている。


「如月さん、お疲れ様でした。……結局、あの石像の『殻』の方は、おじいさんに返さなくて良かったんですか?」


「何を言っておる。中身は返したが、外側の『鼻毛モアイ』はわしがもらうと合意済みじゃ。三十年の時を物理的に刻み込んだ見事な標本じゃからな。如月邸のコレクションルームに飾るに決まっておろう」


「ええっ!? いつの間にそんな合意を……! 結局また、僕がこれを持って帰るんですか?」


「当り前じゃ。さあ、運ぶのじゃ、助手。夕食の冷製スープが温まってしまうからのう」


 如月さんは悪戯っぽく、しかし絶対的な命令を含んだ口調でそう言い放つと、待たせていた送迎車の方へと軽やかな足取りで向かっていった。


 僕は大きな溜息をつき、カバンの中……ではなく、両腕に抱えた『石の器』の重みを噛みしめた。


 鼻の穴から覗く折れた桜の枝が、春の夜風に吹かれて、かすかに笑ったような気がした。



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