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EP,Spring ~section2:『巨大な外壁と、秘密の庭園』~(1)

 建物の巨大な排気ダクトが幾重にも入り組む、人一人がようやく通れるほどの狭い路地。


 そこは、如月コンツェルンが誇る最新鋭のAI物流センターの漆黒の外壁と、三十年前に造られた古い河川のコンクリート護岸に挟まれた、いわば都市のクレバスだった。


「如月さん、本当にここを入るんですか。道幅が狭すぎます。それに、足元はヘドロみたいにぬかるんでいて、靴が完全に駄目になりますよ」


 僕は、通学カバンの中でゴトゴトと不穏な音を立てる【鼻毛モアイ像】の重みを感じながら、圧倒的な暗がりを前にして立ちすくんだ。月見坂市のメインストリートを照らす、計算し尽くされた完璧なLEDの光は、この建物の隙間には一切届いていない。排気ダクトから絶え間なく吐き出される生ぬるい風が、古い泥の匂いと混ざり合って、ひどく息苦しい空間を作り出していた。


「何を恐れる必要がある。この暗がりの奥に、わしを呼ぶ声があるのだ。靴の汚れなど、真理に近づくための些末な代償にすぎない」


 如月さんは躊躇うことなく、その細い体を暗がりへと滑り込ませた。


 アイボリーのスプリングコートが、苔むして汚れたコンクリートの壁に擦れそうになる。僕は慌てて彼女の背中を追ったが、すぐに自分の不用意さを激しく呪うことになった。


 狭い。あまりにも狭すぎる。


 両肩が壁に触れるほどの隙間を、体を横に向けながらカニ歩きのように進まなければならない。そして何より致命的なのは、前を進む如月さんとの距離感だった。


 少しでも僕の歩幅が大きくなれば、僕の泥まみれの制服が、彼女の美しいネイビーのワンピースに触れてしまう。僕は同世代の女子に対する耐性が完全に欠如している。もしこの密室のような極小空間で、クラスメイトである彼女に物理的に接触してしまったら、僕はパニックを起こして自ら川に身を投げるか、あるいは心臓発作でこの場に倒れ伏すかの二択しかない。


 僕は冷や汗を流しながら、背中を冷たくて汚い護岸の壁に文字通り擦り付け、彼女との間に絶対的な三十センチの安全地帯を死守し続けた。極度の緊張で、呼吸すら浅くなる。


「サクタロウ、動きが鈍いぞ。壁にへばりついて何をしておる。ナメクジの真似事か」


「違います。これは、如月さんの服を汚さないための、僕なりの最大限の配慮と防衛本能です。頼むから急に立ち止まったりしないでくださいね」


「ふん。潔癖症も極まれりだな。だが、その神経質さは観察者としては悪くない資質だ」


 如月さんは呆れたように小さく鼻を鳴らし、さらに奥へと進んでいく。


 十五メートルほど進んだだろうか。巨大な排気ダクトの低いモーター音が急に頭上へと遠ざかり、代わりに別の音が聞こえてきた。


 規則正しく水滴が落ちる音。そして、かすかに風に擦れる、葉の音だ。


「着いたぞ。ここだ」


 如月さんが足を止めた。僕は壁に背中を張り付けたまま、彼女の肩越しにその空間を覗き込んだ。


 そこは、二つの巨大な建造物の間に奇跡的に生まれた、四畳半ほどの『空洞』だった。


 上空は物流センターのせり出した庇に覆われており、雨風はしのげる構造になっている。そして足元には、コンクリートで舗装されていない、黒々としたむき出しの土があった。


 だが、僕の目を何よりも釘付けにしたのは、その土の真ん中に鎮座する異形の姿だった。


 それは、一本の桜の木だった。


 月見坂市の表通りに整然と並ぶ、クローン技術で生み出された直立不動の桜とは全く違う。太くねじ曲がった黒い幹は、まるで苦悶する老人のように身をよじりながら、限られた空間の中で必死に枝を伸ばしていた。


「エドヒガン桜の老木。おそらく、樹齢は百年を超えている」


 如月さんは静かな声でつぶやき、ゆっくりとその木に近づいた。


「どうしてこんな所に。三十年前の再開発で、この辺りの植物はすべて徹底的に伐採されて、土壌も入れ替えられたはずじゃありませんか」


「生命の執着を甘く見るな、サクタロウ。いや、正確には人間の執着だ」


 如月さんはスプリングコートのポケットから小型のペンライトを取り出し、桜の根元を照らした。光の輪の中に浮かび上がった光景に、僕は息を呑んだ。


 太い根が、周囲のコンクリートを砕きながら深く地中へと潜り込んでいる。しかし、それだけではない。木の根元には、市販の肥料の空き袋や、古いプラスチックの水差し、それに園芸用のスコップが整然と置かれていた。


 明らかに、誰かが定期的にここを訪れ、手入れをしている痕跡だ。


 そして、桜の太い幹のすぐ傍らに、コンクリートブロックを積んで作られた簡易的な台座があった。


 台座の上には何も乗っていない。だが、長年そこに重い物が置かれていたことを示す、四角い跡と苔の剥がれがはっきりと残っていた。


「如月さん。もしかして、あのモアイ像は」


「その通りだ。カバンから石像を出せ」


 僕は慎重にカバンを下ろし、中からタオルに包んでおいたモアイ像を取り出した。ずっしりとした石の冷たさが両手に伝わる。鼻から突き出した桜の枝は、幸いなことに花びらを散らすことなく無事だった。


 如月さんは像を受け取ると、台座の上の跡と像の底面を見比べ、迷いなくその上にモアイ像を置いた。


 完璧に一致した。


 モアイ像が本来あった場所。三十年前の土産物店『石の家』の主が、この像を最後に安置した場所がここだったのだ。


「見てみろ、サクタロウ。この見事なまでの物理的帰結を」


 如月さんがライトの光を像の上部へ向けた。


 モアイの鼻の穴から突き出した桜の枝。その枝の断面と、すぐ横にあるエドヒガン桜の太い幹から不自然に折れた枝の断面が、パズルのピースのようにぴったりと噛み合う位置にあった。


「信じられない。モアイ像の鼻の穴を突き抜けて、桜の枝が成長していたっていうんですか?」


「結果から見ればそうなる。おそらく三十年前、この店の主は立ち退きを迫られた際、大切にしていたこの桜の木の傍らに、売り物だった石像を並べて置いたのだろう。長い年月の中で、桜の枝は光を求めて伸び、偶然にもモアイ像の鼻の空洞を通り抜けた。そしてそのまま三十年間成長を続け、枝は太くなり、石の穴と完全に一体化した」


 如月さんは首から下げた銀のルーペを取り出し、像と枝の接合部分を舐め回すように観察し始めた。彼女の関心は、ここで何が起きたのかという『物理的な事象』にのみ集約されている。三十年間この木を守り続けた人間の感情や、再開発の犠牲になった店の悲劇には一切触れようとしない。


「見事じゃ。三十年という時間が作り上げた、天然の接ぎ木。石という無機物と、桜という有機物が、これほどまでに完璧な摩擦係数で結合しているとは。人間の浅知恵では到底計算できない、偶然と執念の産物じゃ」


 彼女の顔には、純粋な知的好奇心を満たした者だけが浮かべる、恍惚とした笑みがあった。


「でも、如月さん。だとしたら、なぜ今日になってこの石像は川に落ちたんですか? 三十年間もここに留まっていたのに」


 僕の疑問に、如月さんはルーペから目を離し、スッと表情を戻した。


「良い質問だ、助手。モノは自らの意志では動かない。必ず外的なエネルギーの介入がある。枝の断面を見てみろ」


 彼女に促され、僕は顔を近づけた。枝の折れた部分は、風や重さで自然に裂けたようなささくれ立った断面ではなく、何か鋭利な力で斜めに断ち切られたような痕跡があった。


「自然に折れたわけじゃない。外部からの強い衝撃だ。しかも、断面の繊維の湿り気から見て、折れたのはほんの数時間前」


 如月さんは立ち上がり、頭上の暗闇を見上げた。


 物流センターの黒い外壁が、どこまでも高くそびえている。


 「サクタロウ。端末を出せ。今日の午後、この物流センターの外壁周辺で、何らかの異常な物理的干渉がなかったか調べるのじゃ」


 僕は頷き、冷え切った指先でタブレットの画面をスワイプした。


「わかりました。物流センターの運用ログを……いや、公式の記録はセキュリティが高すぎて僕の権限じゃ入れません。外側からアプローチします」


 僕は、月見坂市の公共インフラ管理データベースの末端へとアクセスした。物流センター自体の内部データは見られなくても、建物の外周を飛ぶ清掃用ドローンや、河川管理局の定点カメラのログなら、僕の執念深い検索技術で何とかかすめ取ることができる。


「午後二時頃の記録……ありました。如月コンツェルンの施設管理部が発注した、外壁の自動清掃プログラムの実行記録です。旧式の有線型ドローンが、この真上の排気ダクト周辺の苔落とし作業を行っています」


 「有線型、じゃと?」


 如月さんの声のトーンが一段下がった。


「はい。最新の完全自律型ではなく、強風時の落下を防ぐためにワイヤーで吊り下げながら作業する旧型機です。記録によれば、午後二時十五分に『一時的なワイヤーの引っ掛かりによるテンション異常』が報告されていますが、ドローン自体が強い力で牽引し、すぐに復旧して作業を完了しています」


 「エラー、か。なるほど、すべての辻褄が合った」


 如月さんは満足げに頷き、再びモアイ像の鼻を見下ろした。


「上空から壁沿いに降りてきた清掃ドローンのワイヤーが、この暗がりに伸びていた桜の枝に引っ掛かった。ドローンの強力な牽引力によって枝は限界まで引っ張られ、ついに折れた。そして、枝と完全に一体化していた重いモアイ像も、その反動で台座から弾き飛ばされ、急斜面を転げ落ちて川へ落下した。これが、この石像が今日の夕暮れに我々の前に姿を現した全容じゃ」


 物理的な事象の完全な解明。


 彼女にとって、この事件の『謎』はこれで完全に解き明かされたのだ。


 石が意志を持って歩いたわけでも、何かの呪いでもない。三十年間の歳月と、清掃ドローンのワイヤーという極めて現実的な要因が重なり合った結果に過ぎない。


「謎は解けましたね。さすがです、如月さん」


 僕は感嘆の息を漏らした。しかし、僕の心の中には、まだ大きなつかえが残っていた。


「でも、それならこの木を三十年間世話してきたのは誰なんでしょうか。肥料の袋も古びてはいますが、まだ中身が残っています。それに、この防犯網を掻い潜って、定期的に水をやりに来るなんて、相当な覚悟と執念がないと……」


「そんなことは、どうでもよい」


 如月さんは冷たく言い放ち、ペンライトの明かりを消した。


「わしの興味は、この石像がいかにしてその奇妙な形を成し、いかにして川を流れてきたかという一点のみにある。誰がこの木を愛し、誰が三十年前にこの場所を追われたかなどという人間の感傷は、わしの探究の領分ではない。それは歴史のゴミ箱にでも捨てておくがいい」


 彼女はスプリングコートの埃を手で軽く払い、未練なく背を向けた。


「調査は終了じゃ。その石像は、如月邸のコレクションルームに飾ることにしよう。三十年の時を物理的に刻み込んだ見事な標本だ。サクタロウ、カバンにしまえ」


「えっ、持って帰るんですか? これ、元の場所に……」


「元の場所とはどこの事を言っておる? この台座か? それとも三十年前に消滅した『石の家』か? モノの価値は、それを正しく評価できる者の手元にあってこそ輝く。さあ、帰るぞ。夕食の時間が遅れる」


 如月さんは僕の反論を一切許さず、再びあの息苦しい隙間を通って帰路につこうとした。


 僕は足元のモアイ像を見下ろした。三十年間、この暗がりでじっと桜を見守り続けてきた石の守護神。それが今、僕たちの手によって永遠にこの場所から切り離されようとしている。


 だが、僕には彼女の圧倒的な論理を止める権利も、説得する言葉もない。


 僕は諦めてモアイ像をタオルに包み直そうと、泥土の上に身を屈めた。


 その時だった。


 背後の暗闇――路地の入り口の方角から、コンクリートを踏みしめる鈍い足音が聞こえたのは。


「誰だ、あんたたちは」


 しゃがれた、地を這うような低い声。


 僕は反射的に振り返った。


 路地の入り口、わずかに差し込む外の光を背にして、小柄な人影が立っていた。


 よれよれの作業着を着た、白髪の老人だった。片手には、水がたっぷりと入った古いプラスチックのジョウロが握られている。


 老人の目は、僕の足元にあるモアイ像と、そして無惨に枝を折られた桜の木を交互に見つめ、やがて激しい怒りと絶望の色に染まった。


「俺の……俺の桜に、何をしやがった!!」


 老人がジョウロを投げ捨て、血走った目で僕たちに向かって突進してきた。



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