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如月令嬢は『春宵の鼻端を笑わない』  作者: アリス・リゼル


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EP,Spring ~section1:『無菌室と、狂い咲き』~(2)

 西の空が、毒々しいほどのオレンジ色に染まり始めていた。


 月見坂市の夕暮れは、気象制御システムによって大気中の微粒子が調整されているためか、毎日判で押したように完璧なグラデーションを描く。空を覆うオレンジ色は次第に深い紫へと溶け込み、一番星がAIの計算通りの座標に瞬き始める。


 だが、僕たちが歩いている一級河川の土手の下は、その美しい光の恩恵から完全に見放されていた。


「如月さん、足元がかなり暗くなってきました。これ以上進むのは危険じゃありませんか。それに、いくら如月コンツェルンの令嬢とはいえ、稼働中の物流センターに無断で近づけば、警備システムが黙っていませんよ」


 僕は息を切らしながら、前を歩く華奢な背中に向かって声をかけた。


 右手のカバンと、左手の重い紙袋。それに加えて、先ほど泥の中から拾い上げたあの奇妙な【鼻毛モアイ像】は、如月さんの厳命により僕の通学カバンの中に厳重に収められている。


『花びらを一枚でも散らしたら、お主の端末の検索履歴を市内全域のデジタルサイネージに投影するぞ』


 そんな恐ろしい脅迫を受けたため、僕は石の重みと精神的なプレッシャーの板挟みになりながら、ぬかるんだ川べりを慎重に歩かなければならなかった。


「危険、か。サクタロウ、お主はいつも安全な箱の中から世界を傍観しようとする。だが、真理というものは、常に管理された箱の外側、泥と暗闇の中にこそ転がっているものじゃ。警備システムなど恐れるに足らん。あれは父が作った、ただの融通の利かぬ案山子に過ぎぬ」


 如月さんは振り返りもせず、淡々と答えた。


 スプリングコートの裾が風に煽られ、僕の顔のすぐ近くを掠めそうになる。僕は慌てて上半身をのけぞらせ、彼女との間に明確な安全圏を確保した。


 同世代の女子との身体的接触など、僕にとっては致死量の毒を浴びるに等しい。万が一、僕の泥まみれの服が彼女の高価なワンピースに触れでもしたら、僕は緊張のあまりこの冷たい川に身を投げてしまうかもしれない。だから僕は、どんなに道が険しくなろうとも、彼女から常に一メートル以上の距離を保ち続けることを己に厳しく課していた。


「それにしても」


 僕は話題を変えるべく、カバンの中でゴトゴトと重い音を立てる石像について口を開いた。


「このモアイ像に、なぜ桜の枝が刺さっていたのか。如月さんはどう推理しますか。ただの悪戯にしては、わざわざ三十年前に消滅した店の石像を使うなんて、手が込みすぎていますよね」


「推理などという、曖昧なパズル遊びをするつもりはない。わしはただ、事実を拾い集めるだけじゃ」


 如月さんは歩みを止めず、冷ややかな声で応じた。


「お主も先ほど見たであろう。あの石の鼻の穴に、桜の枝は『刺さって』いたのではない。まるで、石そのものが桜を吸い込み、そこから芽吹かせたかのように、見事に密着しておった。接着剤の匂いも、人工的な加工の痕跡もなかった。つまり、あれは生きた桜の枝を、ミリ単位で石の空洞に合わせ、長期間かけて馴染ませたということじゃ。その辺の輩が悪戯でできるような所業ではない」


 僕は驚きに目を見張った。


「長期間かけて馴染ませた? でも、桜の花は今まさに満開でしたよ。切られた枝があんなに綺麗に咲くなんて、普通はあり得ません」


「そこじゃ」


 如月さんがピタリと足を止め、振り返った。アメジストの瞳が、夕闇の中で妖しく光を放っている。


「あのエドヒガンは、切られた枝ではない。根を持った『生きた木』の一部として、直前まで養分を吸い上げておったはずじゃ。そして、あのモアイ像はずっと、その生きた桜の木の側に置かれていた。桜の枝が成長し、石の空洞を埋め尽くすほどに、長い時間をかけてな」


 如月さんの言葉の重みに、僕は生唾を飲み込んだ。


 三十年前の再開発で消滅した土産物店。そこにあったはずの石像。


 それが長い年月をかけて生きた桜の木と一体化し、今日、この三月の夕暮れに川へ落ちた。


「三十年間、誰かがあの石像を保管し、桜の木のそばに置いていたということですか」


「保管、という生易しいものではないじゃろう。執着じゃ。あるいは、懺悔か。いずれにせよ、三十年前の亡霊が、この無菌の街にふさわしくない春の残骸を吐き出したことだけは事実じゃ。それを確かめるために、我々はこの上流へ向かっておる」


 彼女の口調には、一切の感傷がない。


 誰かが三十年間抱え続けた思いや、それにまつわる悲劇があったとしても、彼女の心を揺さぶることはないのだろう。如月瑠璃の関心は、常に『モノ』が語る物理的な履歴と、その背後にある真理の解明にのみ向けられている。人がどう傷つき、どう救われるかは、彼女にとって純粋な謎解きの副産物に過ぎないのだ。


 僕たちは再び歩き出した。


 やがて、頭上を覆っていた空が、巨大な人工構造物によって完全に遮られた。


 如月コンツェルンが誇る、月見坂市最大のAI物流センターだ。


 窓一つない漆黒の巨大な立方体が、川沿いの土地を威圧するようにそびえ立っている。外壁には無数の青いLEDランプが明滅し、建物の周囲を警戒する無人ドローンが、規則的な羽音を響かせながら空域を巡回していた。


「着いたぞ、サクタロウ。三十年前、『石の家』という悪趣味な土産物店があった場所の、現在の姿じゃ」


 如月さんは、巨大な黒い壁を見上げて小さく鼻を鳴らした。


 僕たちが立っている川の護岸から物流センターの敷地までは、高いフェンスと強固な電子ロックで隔てられている。


「如月さん、ここから先は本当に無理ですよ。ドローンの警戒網が張り巡らされています。いくら如月コンツェルンの施設でも、無断侵入すれば即座に警備部隊が飛んできます」


 僕は後ずさりしながら再度警告した。しかし、如月さんは全く意に介する様子がない。彼女はスプリングコートのポケットから手を出して、フェンスに設置された電子ロックのパネルへと迷いなく指を伸ばした。


「案山子には、案山子なりの礼儀を教えてやるまでじゃ」


 彼女がパネルに指を触れた瞬間、無機質な警告音が鳴り響くかと思われた。


 しかし、パネルの赤いランプは一瞬だけ躊躇うように点滅した後、静かに緑色へと変わった。


『生体認証を確認。如月瑠璃様。本施設へのアクセス権限を承認いたします』


 合成音声が恭しく告げ、重厚なフェンスの扉が音もなく横へとスライドした。


「さあ、入るぞ助手。あの鼻毛モアイがどこから転がり落ちてきたのか、この無菌室の裏側を覗いてやろうではないか」


 彼女は振り返り、悪戯っぽく、しかし冷徹な笑みを浮かべた。


 僕は大きな溜息をつき、カバンの中の石像の重みを確認してから、彼女に続いて薄暗い物流センターの敷地内へと足を踏み入れた。


 コンクリートで完全に舗装された敷地内には、土の匂いなど欠片も存在しなかった。


 巨大な自動搬送車が、僕たちの存在を無視して決められたルートを黙々と走り去っていく。人間が存在することを前提としていない空間特有の、冷え切った空気が肌を刺す。


 この完璧に管理されたコンクリートの砂漠のどこかに、あのエドヒガン桜を生み出した土と、三十年前の記憶が隠されているというのか。


「如月さん、どこを探すつもりですか。ここは広すぎます」


「においじゃ。サクタロウ、あのモアイから嗅ぎ取った、生きた土と老いさらばえた桜のにおいを思い出せ。この無機質な空間で、必ずどこかに『ほころび』があるはずじゃ」


 如月さんは目を閉じ、冷たい風のにおいを嗅ぐように顔を上げた。


 僕も彼女に倣い、深く息を吸い込んでみたが、鼻腔を満たすのはモーターの排気熱と、コンクリートの乾いた匂いだけだった。


 しかし、如月さんは違った。


 彼女は突然目を見開き、敷地の最も奥、物流センターの巨大な建物と、川の護岸の間に生じたわずかな隙間へと視線を向けた。


「あそこじゃ。防犯カメラの死角。AIが計算を放棄した、唯一の暗がり。サクタロウ、急ぐぞ」


 彼女が指差した先は、建物の排気ダクトが入り組む、人一人がようやく通れるほどの狭い路地だった。



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