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EP,Spring ~section1:『無菌室と、狂い咲き』~(1)

「如月さん、もう少し……いえ、あとほんの少しだけでいいので、歩く速度を落としてもらえませんか。……あ、いえ、すみません。僕の体力がなさすぎるだけなんです。分かっています、分かっているんですけど……」


 僕は、右手に自分の通学カバン、左手に如月さんの予備の資料や画材が詰め込まれた重たい紙袋を抱えながら、必死に彼女の背中を追いかけた。


 三月下旬、月見坂市の春。


 本来なら、寒さが緩み、花の蕾が綻ぶ喜びに街が満たされる季節だ。しかし、この『スマートタウン月見坂』の春は、どこか奇妙なほどに整いすぎている。


 見上げる空は、吸い込まれるようなコバルトブルーだ。雲一つないその青さは、高精細なLEDパネルを見せられているような錯覚を抱かせるほどに均一で、不純物がない。気温は街の至る所に設置された環境センサーと、地下を走る巨大な空調システムによって常に『最適』な状態に保たれている。暑すぎず、寒すぎず、湿度は肌をなでるのに最も心地よい数値。……だが、その『心地よさ』こそが、僕には薄気味悪く感じられてならない。


 道路には、風に舞った枯れ葉の一枚すら落ちていない。


 数分おきに、銀色の滑らかなボディを持った自律走行型の清掃ドローンが、音もなく路面を滑っていく。目に見えない微細な埃さえも吸引し、街を文字通りの『無菌室』へと変えていくのだ。歩道沿いに植えられた桜の並木もそうだ。それらはすべて遺伝子操作を施された、如月コンツェルン製の特注品だという。花びらが散りにくく、病気にも強く、すべての木が同時に、完璧な形状で開花するように制御されている。


『風情ある花吹雪』は、この街においては効率的な排水システムを詰まらせる『処理すべき廃棄物』に過ぎない。美しささえも管理され、計算され、逸脱を許されない街。


 そんな、どこか狂気すら感じるほど清潔な街並みの中で、僕の前を歩く少女だけが、異次元から迷い込んできたような濃厚な色彩を放っていた。


 如月瑠璃(きさらぎ るり)


 この月見坂市を築き上げた如月コンツェルンの現社長令嬢であり、僕と同じ高校に通うクラスメイト。


 今日は放課後の『調査』があるとのことで、彼女は学校指定のブレザーを脱ぎ、私服に着替えていた。落ち着いたネイビーのロングワンピースは、首元までボタンの詰まったクラシカルなデザインで、その上から淡いアイボリーのスプリングコートを羽織っている。三月の冷たい風を孕んでふわりと広がるそのコートの裾は、彼女が歩くたびに優雅な孤を描く。艶やかな黒髪は陽光を反射して青白く光り、彼女が歩くたびにサラサラと背中で踊る。


 黙って座っていれば、あるいは古い図書室の隅で本を読んでいれば、誰もが息を呑むような可憐な美少女だ。だが、彼女がひとたび口を開けば、その幻想は無惨にも打ち砕かれる。


「サクタロウ。何を後ろでぶつぶつと愚痴っておるんじゃ。修行が足りぬぞ。足腰の弱さは心の弱さ、心の弱さは観察眼の曇りへと直結する。お主、それでもわしの助手を自称するつもりか」


 如月さんは不意に立ち止まり、振り返った。


 深い紫――アメジストを思わせる瞳が、僕を射抜く。


 その視線に射すくめられると、僕はいつも、自分が何か重大な罪でも犯したかのような錯覚に陥り、心臓が跳ね上がる。僕は、同世代の女子に対して致命的なまでに耐性がない。これまでの人生で、女子とまともに会話をした経験といえば、コンビニの店員さんか、あるいは地下アイドル『GyoGyoっとラブ(通称:魚魚ラブ)』の特典会で推しメンに剥がされる数秒の間くらいなものだ。ましてや、如月さんのような圧倒的な気品と、どこか時代錯誤な威圧感を放つ相手となると、適切な距離を保つだけで精一杯なのだ。


「愚痴なんて、そんな……。ただ、この荷物を持ってあの急勾配の坂を登るのは、僕のような軟弱な現代人には少し、いえ、かなり過酷でして。如月さんはどうしてそんなに平然としていられるんですか?」


「現代人、か。お主の言う現代とは、指先一つで情報を掠め取り、自分の足で大地を踏みしめることを忘れた腑抜けた時代のことを指すのかのう。わしから見れば、お主らは情報の海に溺れ、自らの五感という宝物を錆びつかせているだけじゃ」


 如月さんは小さく鼻を鳴らした。その仕草すら、どこか老成した老師のような貫禄を感じさせる。


 彼女のこの独特な口調は、幼い頃に出会った山内かえでさんというお婆さんの影響だという。最初こそ耳を疑ったけれど、今となってはこの古風な話し方こそが、彼女という複雑なパズルを構成する不可欠なピースであるように思える。


「とにかく、今日は旧校舎の図書室へ行くんですよね? そこで古文書の目録を作るって昨日おっしゃってましたけど……」


「予定は変更じゃ。サクタロウ、お主はあの川の方角から、何を感じる?」


 如月さんが、白い手袋をはめた指で西の方角を指差した。


 そこには、三十年前の都市開発という名の破壊から奇跡的に取り残された、古い一級河川が流れている。護岸こそコンクリートで固められているものの、その周辺だけはドローンの監視網が不自然に薄く、最新鋭のスマートタウンの死角となっている場所だ。


「何を感じるって……。ええと、微かに水の音が聞こえるとか、どこかから花の香りが漂ってくるとか?」


「凡百な答えじゃな。五感を研ぎ澄ませと言っておる。……空気が『淀んで』おる。いや、これは『異物』が混じった時の微かな揺らぎじゃな。この無菌室のような街において、排斥され損ねた不純物が、悲鳴を上げておる気配がするわ」


 如月さんの瞳が、好奇心という名の業火を宿して鋭く細められた。


 こうなった時の彼女を止めることは、如月コンツェルンの全戦力を持ってしても不可能だろう。たとえ、この後に僕が部屋の布団の中で正座して待機するはずだった『魚魚ラブ』の限定ライブ配信が控えていたとしても、彼女は止まらない。


 「……行くぞ、助手。遅れるでない」


 彼女はスプリングコートの裾を翻し、迷いのない足取りで川沿いの土手へと向かって歩き出した。僕は大きく溜息をつき、ずり落ちそうになった紙袋を持ち直して、彼女の背中を追った。


 土手へ降りると、舗装された道路の不自然な熱気が消え、湿り気を帯びた生々しい草の匂いが鼻を突いた。


 管理された公園の化学肥料まみれの芝生とは違う、野性味のある、泥臭い匂いだ。足元には、名前も知らない雑草が三月の冷たい土を割って、力強く芽吹いている。月見坂市の中心部では決して見ることのできない『生きた土』の感触。


「……あそこじゃ。見えるか、サクタロウ」


 如月さんが、急斜面の護岸の陰で歩みを止めた。


 川のせせらぎに混じって、カサリ、と何かが乾いた音を立てて転がった。


 そこは、コンクリートの壁が少しだけ崩落し、長い年月をかけて川の砂や泥、そして上流から流れてきた『不純物』が堆積している、小さな砂州のような場所だった。


「見てみよ。あれをどう思う」


 彼女が指し示した先を見て、僕は言葉を失った。


 そこには、月見坂市の清潔な景観には、およそ一万年ほど場違いな、奇妙なものが鎮座していた。


 それは、石造りの像だった。


 高さは三十センチほどだろうか。南の島の守護神を模したような、いわゆる『モアイ像』の置物だ。


 しかし、観光地で売っているような安っぽいプラスチック製ではない。ずっしりとした重量感を感じさせる本物の石だ。長年の雨風に晒されたのか、表面の石は黒ずみ、あちこちが鋭く欠けている。それがなぜか、川辺のゴミの中に、まるでもともとそこにあることが世界の真理であるかのように、不敵な面構えで立っている。


 だが、何よりも異様だったのは、その『鼻』だった。


 モアイ像の大きく平らな鼻の穴から、一本の枝が突き出していた。


 それは、今まさに満開を迎えようとしている桜の小枝だった。


 淡いピンク色の花びらが、無骨で冷徹な石の鼻から生えた『鼻毛』のように、あまりにも不自然な角度で空を仰いでいる。


 「……鼻毛、ですかね」


 僕の口から漏れたのは、あまりにも語彙力のない、救いようのない感想だった。


 けれど、他に形容のしようがなかった。石の巨人の鼻から、春の風に揺れる桜が勢いよく飛び出している光景。それは、一見すると悪ふざけの極致のような滑稽さを放ちながらも、同時に、何か大切な理がねじ曲げられたような、生理的な嫌悪感を伴う不気味さを孕んでいた。


「ふむ……。鼻毛、か。お主にしては、珍しく本質を突いた表現じゃな。形に囚われず、その異質さを直感的に捉えた点は評価してやろう」


 如月さんは動じない。それどころか、まるで数世紀ぶりに発見された聖遺物でも見るかのような、陶酔に近い熱っぽい視線をその像に注いでいる。


 彼女は三月の冷たい泥が堆積した河岸に、躊躇なく膝をついた。高価であろうネイビーのワンピースに泥がつくことも、冷たい水がコートを濡らすことも、今の彼女の意識には存在しない。


「如月さん、泥だらけですよ。そんなに近づかなくても……」


「静かに。……聞こえるぞ。この石に刻まれた、微細な『呼吸』がのう。……そして、この石そのものが発する『声』が」


 彼女は静かに目を閉じ、鼻をわずかに動かした。五感を極限まで研ぎ澄ませ、モノがその身に宿したあらゆる情報を引き出そうとしている。如月瑠璃の真骨頂。科学的な分析でも、AIによるパターン認識でもない。彼女という人間そのものをセンサーとした、残酷なまでの物理的観察。


「この石……組成からしてこの土地の物ではないな。……安山岩。それも、遠方の火山地帯……そうじゃな、伊豆のあたりから運ばれたものかのう。表面の風化具合、クラックに詰まった土壌成分の重なり……。これは長い間、屋外で直射日光を浴びておったはずじゃ。だが、川に落ちて、この湿った泥にまみれてからはまだ日が浅い。せいぜい三時間というところか。……そして、この香り」


 彼女は、鼻から生えた桜の枝に顔を近づけ、深く、深く息を吸い込んだ。


「……エドヒガン。それも、接ぎ木を繰り返した古い種じゃな。このスマートタウンの並木道にあるクローン桜のような、味気ない無菌の匂いはせぬ。……土と、雨と、老いさらばえた命が最後に振り絞る、濃厚な死の匂いがするわ。……誰かが、この死んだ石の鼻に、無理やりこの『命』をねじ込んだわけじゃな」


 如月さんはようやく、首から下げた銀のルーペを目に当てた。


「サクタロウ。お主は端末を使い、この市内でかつて『特定の安山岩を用いた土産物』を扱っていた店を洗うのじゃ。……検索結果のトップに出てくるような広告付きの情報に頼るのではないぞ。お主のそのオタク特有の執着心で、データベースの裏側に沈んだ『この街の残滓』を釣り上げてみせよ」


 如月さんの紫の瞳が、確信を持って僕を見据えた。


 彼女の興味は、もはやこの『鼻毛のような桜』が誰かの救いになるとか、誰かを喜ばせるといった、人間社会における副産物にはない。


 ただ、この『不自然な拾得物』が、なぜ、誰の手によって、どのような経緯でここにあるのか。その「ルーツ」という名の真理だけを、彼女は求めている。


 僕は、彼女のその異常なまでの純粋さに、いつも畏怖と、そして少しだけの憧れを感じてしまう。


「……わかりましたよ。僕の検索能力、舐めないでくださいね」


 僕は諦めてタブレットを取り出した。かじかんだ指先で画面を叩く。


 月見坂市の公式アーカイブは、効率化の美名の下に『過去』を次々と消去し、上書きしていく。普通に検索すれば、出てくるのは如月コンツェルンが提供する最新のインフラ状況や、流行りのカフェばかりだ。だが、情報の海には必ず澱がある。


 僕は、この街がスマートタウン化の産声を上げた30年前――まだここが『旧市街』と呼ばれ、泥臭い人間たちの営みが溢れていた頃の、極めて断片的な記録を漁り始めた。


『魚魚ラブ』の、運営から黒歴史として削除された過去のライブ映像を掘り起こす時に培った、僕の『執念』が、静かに火を噴く。


「……見つけた。如月さん、見てください。30年以上前の、地域広報誌の個人デジタルアーカイブです。再開発が始まる直前、この川の少し上流……今は如月コンツェルンのAI物流センターが建っている場所のあたりに、一軒の奇妙な店があったみたいです」


 僕は画面を彼女に向けた。そこには、セピア色に劣化した写真とともに、小さな記事があった。


「『月見坂民芸・石の家』。店主が各地から取り寄せた珍しい石で、勝手にオブジェを作って売っていた……。記事によれば、30年前の再開発の際、立ち退きに最後まで激しく抵抗した店の一つとして記録に残っています。店主は、自分の石たちが壊されるくらいなら一緒に埋まるとまで言っていたとか」


「石の家、か。……ふむ、悪くない名じゃな。石に命を吹き込もうとした狂人の棲家か」


 如月さんは泥の上に膝をついたまま、僕のタブレットを覗き込むこともせず、ただ銀のルーペを通してモアイ像の『目』をじっと見つめていた。その像の目は、何も語らない。ただ、30年分の恨みか、あるいは祈りか、重い沈黙を湛えているように見えた。


「サクタロウ。その店は、今はどうなっておる?」


「30年前、この街が今の姿に生まれ変わる時に、強制執行の対象になって完全に消滅しています。更地になり、今は如月コンツェルンの最新鋭の物流拠点が建っています。跡形もありません。店主も、その後の足取りは不明です。……でも、如月さん。おかしいですよ。30年も前に無くなったはずの店の品物が、どうして今さら、こんなに鮮やかな『桜』を咲かせて流れてくるんですか? まるで、タイムスリップでもしたみたいに」


 如月さんはゆっくりと立ち上がり、スプリングコートについた泥を払うこともせず、小さく溜息をついた。その息は、三月の冷たい空気に白く混じり、すぐに消えた。


「タイムスリップなどという非科学的な言葉で逃げるな。形あるものは壊れ、公式の記録は書き換えられる。だが、モノに宿った『執念』……あるいは『履歴』だけは、こうして30年の時を超えて、川を流れてでもわしの前に現れる。……このモアイ、鼻に桜を挿されたのではない。まるで、この桜を自らの意思で『呼吸』しておるように見えぬか?」


「……いや、流石にそれは考えすぎですよ。誰かが最近、古いストックを見つけて悪戯しただけに決まってます」


 僕は苦笑いしながらも、その言葉を完全に否定しきれない自分に気づいていた。


 如月瑠璃の隣にいると、ただの『石のゴミ』が、まるで数千年の歴史を背負った『語り部』のように見えてくるから不思議だ。


 彼女は再び、白い手袋をゆっくりと嵌め直し、凛とした佇まいで川上を見据えた。その瞳には、すでに『物流センター』という名の無機質な巨塔は見えていない。その背後にあるはずの、30年前に封印された『不純物』の正体を捉えている。


「行くぞ、サクタロウ。このモアイがどこから流れてきたのか、その『上流』には、30年前の再開発でも計算しきれなかった、人間臭い残滓がまだ息を潜めておるはずじゃ」


「えっ、今から遡るんですか? もうすぐ暗くなりますよ! それに、物流センターの敷地は立ち入り禁止ですし、セキュリティドローンが……」


「暗闇こそ、真実が光る時間じゃ。セキュリティなど、わしの家の庭を歩くようなもの。……ほら、さっさと荷物を持て、助手」


 僕は肩をすくめ、再び重い荷物を抱え直した。


 月見坂市の完璧な、非の打ち所のない夜景が始まろうとしている中、僕たちは管理された街のルールという名の檻をすり抜けるように、薄暗い川べりを歩き始めた。


 僕たちの影が、春の冷たい水面に長く、長く伸びていく。


 モアイの鼻から生えた桜が、風に揺れて、カサリ、と笑うような音を立てた。



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