豊穣の神 -Dionysos- ep.1
緑色の海の中に、一本の茶色い線が伸びていた。
それは、土を固めただけの簡単な道で、周囲には膝丈ほどの草が風によって踊るように波打っている。
道の真ん中に、一つの人影があった。
他に人や動物の姿は見えず、その人影は、道なりにまっすぐ歩いている。
旅人の顔は若く、十代の半ば程に見える。背中まで伸びた黒髪が、風によってなびいている。白いシャツに黒いベスト。
その上から、明らかに体に合っていないであろう大きなロングコートを羽織り、それが風ではためかないよう、ベルトを使って腰のあたりで留めていた。
そして、傍らには小さな猫が一匹。
ベストと同じく、漆黒の毛並みをした猫は、悠々と旅人の前を歩いている。
「いい景色………こんな景色が見られるなら、やっぱり旅も悪くないね」
旅人が、口を開いた。その声は少年のような、しかし少し高い声だった。
目の前には彼方まで広がる広大な草原が風に揺れている。空の青と草原の緑、その二色だけで作られた世界がそこにはあった。
「カロン。君が旅をしなかったら、一生見られなかった景色だ」
別の声が答えた。今度はハスキーな壮齢の男性の声。
答えたのは、前を歩く黒猫だった。カロンと呼ばれた旅人は話しながら歩を進める。
「そろそろ次の街が見えてくるはずなんだけど。……見える? ディー」
「見えない。だが、確かにもうそろそろだろうな」
ディーと呼ばれた黒猫が答える。
「なんでもう少しってわかるの?」
「地面が固くなってきている。人や乗り物が多く通る場所は踏まれ続けて地面が固くなるんだ」
「なるほど………」
小高い坂を登りきると、ディーの言葉を証明するかのように、高くそびえる城門が確認できた。
灰色の城壁は左右へと伸び、カーブして円を描いている。その湾曲具合から国の広大さが見て取れる。
「神様の治める国へようこそ!!旅人さんは久しぶりです!!歓迎いたしますぞ!!」
「ディオニューソス様ねぇ……」
「まずは真贋を見定めるところから、だな」
城門へと近づいてきたカロンを見るなり必要以上に大きな声で歓迎した門番は、大した審査もせずにすぐに門を開けた。
城門の中には、整った道路に歩道、美しく区画された住宅街、そして所々に作られた緑豊かな公園が並び、まさしく完成された町並みが広がっていた。
そしてそんな街の中でも旅人は珍しいのか、城門をくぐったカロンは好奇の目で見られ、時に声をかけられる。
一人の少年はそんな観衆の中に紛れるようにしてやってきた。
少年は、人々の足元を縫うように駆け抜けると、カロンの前で立ち止まり、
「旅人さんは、神様のこと好き?それとも、嫌い?」
唐突にそんなことを口にした。
「わたしは、神様に会ったことがないからわからないな。君は?」
カロンがそう問いかけると、少年は大きくかぶりを振った。
「嫌い! だって、神様のせいでお兄ちゃんが大変そうだもっ………!」
少年がそう言った瞬間、母親らしき人が現れ、一瞬にして子供抱きかかえ、連れて行った。
「なんだったんだろう……」
「さぁな」
その後、カロンは歓迎ムードの人々に、値段が高くなく、シャワーがついているホテルがないか尋ね、住民に案内されたホテルへと足を向けた。
シャワーを浴びたカロンは、休憩もそこそこに再び街へ繰り出す。
「休まなくていいのか?」
「大丈夫。お金もないし、仕事でも探しに行くよ」
世界に点在する国々では、旅人の為の仕事が集まる場所、一般的には”依頼所”と呼ばれる施設が存在する。
集められる依頼は一般家庭の猫探しのようなものから、国家単位のものまで幅広い。
旅人はその依頼をこなすことによって、路銀を稼いだり、旅に必要な物資を得たりする。
やがて、町の人に聞いて辿り着いた依頼所の中には、依頼を受けるための受付と、簡単な談笑をするためのスペース、そして、巨大な黒板のような形をした依頼板があった。
依頼板には、大小さまざまな大きさの紙が貼り付けてあり、手書きの依頼書が、所狭しと並んでいる。
「それなんてどうだ? 簡単そうな依頼だぞ」
ディーが示したのは『急募!家事お手伝い!調理、洗濯できる方!優しい方待ってます‐南町 赤い小さな家‐』という依頼書。
明らかに朗らかそうな字体で、依頼書の片隅には子供が書いたのであろう親子の絵が添えられている。
「却下。わたしがそういう事出来ないの知ってって言ってるんでしょ。………そうだな………これにしようかな」
カロンが選んだのは『東の山に潜む凶悪な山賊を退治求む。謝礼は弾む。 ‐国家守衛隊‐』
それを見たディーは黒猫の姿でありながらやれやれと言った様子で首を振った。
「また君は……まぁ、さっきの依頼よりかは数段マシか」
「うん。それに、神様の話を聞くんなら、民家よりも国家守衛隊の方がよさそうでしょ?」
そんな問答をしていると、依頼所のドアが勢いよく開いた。
入ってきた青年はカロンの目の前まで歩を進め、依頼板を見まわした後カロンの手元へと視線を降ろす。
「さっき来た旅人さんだよね。その依頼、俺に譲ってくれよ」
青年は軍服のようなものを着込み、腰には剣をさげていた。
その体は筋骨隆々といった様子ではないが、鍛えられて引き締まっているように見受けられる。
「俺は○○○、坊やにその依頼は難しいんじゃないかな? 相手は本物の山賊だぞ?」
「お気遣いありがとうございます。ですが知ってます、大丈夫です。
……それにわたしは”坊や”じゃありません」
カロンはそれだけ言うとスタスタと受付へと歩いていく。
軍服の青年が後ろから話しかけるが、カロンは意にも介さず手続きを済ませ、山賊の出没するとされている場所を聞くと、すぐに依頼所から出て行った。
青年は大きく舌打ちをすると、苛立ちをぶつけるように床を蹴る
「くそっ、あの依頼なら死ねると思ったのに……」
次回更新予定:11月13日




