日本滞在 3日目
教師は元教師になっていた。
数回豊平警察署のお世話になったあと、今は平岸四丁目のシャレート99に住んでいる。家賃は高く見積もって、二万ぐらいだろうか。震度五強で倒壊しそうな外観だ。元担任がというか、顔見知りの三十代後半女性が暮らしているとは思いたくないくたびれた建物だった。
新型ウイルスの影響で仕事があろうがなかろうが、教師がのたれ死ぬのは時間の問題ではないだろうか。
先生の部屋の呼び鈴を鳴らす。
出てこなかった。粘る。
先生がコンビニで購入した大判コミックを読んでいることはわかっている。五分ほど等間隔に呼び鈴を鳴らす。
しびれを切らしたようにチェーンロック付きで扉が激しくひらかれた。
「誰よあんたっ」
「先生。教え子の顔も忘れましたか」
唾をとばしながらの怒声に、僕はつとめて冷静な声音で応じる。
「忘れたっ。いちいち覚えてないっ。でも今の私をみても教師って呼ぶってことは間違いなく元教え子ね」
先生にかつての教師の面影はほとんどなかった。
三十代後半のはずだが、疲弊と不摂生のせいか、五十代前半の顔つきだ。あとおデコと瞼上と頬の青痣が酷い。痛々しい。
「DVですか」
「だからなに? お金でもくれるの」
「そのつもりでしたが。少しお話しましょうか」
先生がわずかに開けてくれた扉を閉めてしまう前に、二十枚ほどを束ねた万札を見せつけた。
一度扉が急いで閉まり、すぐに開いた。
部屋は文字通りの汚部屋だ。
黄色いビニール袋が所狭しと置いてあり、足の踏み場がない。踏み場というか、実質床が見えない。ゴミ袋を破かないように、かき分けように進行し、慎重に居間へ。
布団が一組だけ敷かれており、そこだけはゴミ袋があまり、なかった。
「座ってて」
どうやら敷きっぱなしの布団の上に座って待っていて、ということらしい。
僕が異世界帰りでよかったね先生、と思っておいた。
野宿や粗末な動物小屋で寝泊まりすることが多かったから、こういう扱いをされても気にならないが、気にする人にとっては絶縁級の対応だろう。
そもそもこんな床面積九割がゴミで埋もれている部屋に案内してしまう時点で、先生のメンタルはすでに壊れている。
先生はもう僕の知っている先生ではないのかもしれない。
案の定、水道水をだされた。
コップには何の汚れかわからない、おそらくこびりついた水垢が浮かんでいる。新型ウイルスよりもこの部屋の中で生活するほうが危険かもしれない。
「で、金ちょうだいよ。なにか条件あるの」
条件などはなにもなかったが、この惨状を見せつけられた以上、何かを提案しなくてはいけない気持ちにさせられた。
粗末な布団の上に先生もあぐらをかく。
いつから履いているのか定かではないショートパンツに、いつから手入れしていないのか定かではない髪の毛。直視はしたくなかった。
「どうしてこんな生活になったんですか、先生。それを教えてくれたら、お金を渡します」
先生は教えてくれた。
誰かと会話することが久しぶりだったのか、いやに饒舌だった。
僕と田村さんの脅迫材料となったPC奥に眠っていた、あの痛々しいコンプラ活動の記録。あれが社会的に露呈してしまったそうだ。
じつにあっさり自主退職の流れになり、そのままそれを引き金に児ポ関連でお縄。執行猶予はついたが、きちんと週刊誌報道もされてしまい、まともな働き口はなくなったそうだ。
すすきの界隈はもとよりのお店に働き口を求め、そのまま今にいたるとのことだ。
ここ最近の新型ウイルスの影響でそんな仕事すらもなくなってきた、とうそぶいている。彼女の様子を見ると、そういう業界からも居場所がなくなったんだと想像できるが、口にはしなかった。
「私のかわいそうな物語は以上よ。早くお金ちょうだい」
十五年という歳月はもはや彼女をどうしょうもなく変えてしまった。
いまだ僕の名前すら聞いてこない。
ただ二十万円をくれるという男のことを無為に信用、いや頼っている。
僕が詐欺師だったらどうするのだろうか。女性専用の殺人鬼だったら、先生はもう二十回以上は殺されている。
そんなことを考えるまでもなく、ただお金が欲しいのか。
悲しくなってしまった。
そしてそんな悲しさすらも、あっさり更新される。
酷く荒っぽい音がして、玄関がひらいた。
「なんだそいつは。出てけ、おれの家から」
現場用のつなぎを着た中年男性が入ってきた。だらしなく靴を脱ぎ捨てる。髭が延びっぱなし。性格のゆがみっぷりが、全力で表情筋に浮き出ていた。涙すら流すこともできない。
ため息すらつけない。
「家の名義は、こちらの元先生のものでしょう」
「出てけ、こちとらまたくそ負けていらいらしてんだよ」
悲しい。
ほんと。
救われない。
世界がこんな状態でもパチンコ狂のようだ。ほんと、救いたくないし、救われない。
「先生。どうやらこいつを殺さないと、あなたは救われないようだ」
それから先は、見るも悲惨な光景の連続だった。
軽いボクシングの体勢になり、殴り合いが始まった。
正確には左ジャブを、中年男性の鼻頭を当て続け、顔はみるみるうちに膨れてあがっていく。何度か突進してこようとしたが、それのタイミングでショートアッパーで顎をかちあげ、タックルもさせなかった。
フルボッコ状態。
素手だったので僕の拳も血まみれであり、傷だらけだったが、そういう肉体的な損傷は秒で治るので気にならない。
いい加減殴るのも飽きてきた頃、背後から膝に抱きつかれた。先生だった。
「もうやめてお願い」
「先生。この人に金をむしられ、暴力を受け、パチンコにいかれてウイルスまで持ってくるかもしれない。それでもいいんですか。こんな、こういう男から離れることのできる唯一のチャンスかもしれませんよ」
「そんなひとでも一緒にいてくれる人はいない。あんたは一緒にいてくれないんでしょ。だからもうやめて」
殴られ、金むしられ、ウイルス持ってきて。
それでも先生は、一緒にいてくれるから。
だからやめて、という。
僕は血だらけになって膝をついて丸まっている男の横を通りすぎ、先生の部屋から出た。
先生の言葉が胸に響く。
だって。
誰も一緒にいてくれないんだもん。
そんな言葉が、ひどく強く重く心に残った。
先生の部屋の集合ポストに札束を二十枚ほど突っ込み、その場から離れた。
一緒にいてくれるから。
独りは嫌だから。殴られても。
帰ってきてくれるから。お金を持って行かれても帰ってきてくれるから。
だからもうやめて。
それが今の先生の意思だった。
先生を救う言葉を僕は持っていなかった。
お金だけ置いていくしかなかった。
せめて少しでも先生にお金が行くことを願うしかなかった。
そうはならないんだろうな、と確信しながら、そう願うしかなかった。
いつか街中で笑いながら、美容室へ行って、美味しい料理食べて健康になって、誰か本当に好きな男や友達と一緒に遊んでいる先生とすれ違ってみたいと願った。
先生とは二度と会うことがなかった。




