それはある朝、くしゃみと共に。
その朝、セレナはくしゃみで目を覚ました。
「……ふぇっくしょん」
くしゃみ。それは、風邪の兆候か、あるいは部屋が冷えすぎているのか――あるいは。
「これは……」
セレナは寝台の上で上半身をゆっくり起こし、天井を無表情で見つめた。
「……寿命かもしれん」
声にはそれなりに感情がこもっていたが、顔には全然こもっていなかった。ピクリとも動かない。表情筋はほぼオフラインである。
セレナは長命種〈エルド族〉の数少ない生き残りであり、既に数千年を生きた、エルド族の中でもかなりの高齢者だった。数多の戦争をくぐり抜け、何度も世界の危機を救い、賢者として崇められ、隠居を決めたのが何百年か前。隠居先として選んだ村は、穏やかで個性的な住人が集まっており、セレナはそれなりに慕われていた。地元の子どもたちには「セレばーちゃん」と呼ばれ、外に出ればいつも纏わりつかれている。本人は「ばーちゃんではない」と訂正していたが、表情が無なので説得力がなかった。
「ふむ……腕も痛い。腰も重い。頭が……ああ、これは……」
セレナは静かに頷いた。
――完全に寿命である。
「ついに来た……。これが終焉の予兆……。何百年も看取ってきた者としてわかる、この感じ……」
本人のテンションは、数千年生きてきた中でも稀に見る程高いが、その数千年で凝り固まってしまった顔面は、依然として無表情を貫いている。
「ようやく、あっち側にいける…!」
小さくガッツポーズをしたセレナは、喜色満面といった声のまま、短く伸びをする。嬉しさに溢れた行動と声。それとは裏腹に、顔はずっと無表情。まぶたすら動いていない。見ようによっては、すでに死んでる人の顔に近いかもしれない、というざまである。
「やっとだ。やっと皆に追いつける……。ああ、嬉しい。本当に…。」
そう言うと、セレナはゆっくりとまぶたを伏せた。
記憶の奥で、幾人もの声が、笑い声や喧騒が、風のように立ちのぼる。
あの日の炎、木陰の匂い、無茶ばかりする誰かの背中──
今となっては顔も声も曖昧になってしまったけれど、それは確かに、大切な。
セレナは寝台から立ち上がり、ガウンを羽織って窓の外を眺めた。セレナの住む、山の麓に位置するその村は今日も平和そうで、小さな家々からは薪の煙が立ちのぼり、小鳥はさえずりを始め、お隣さん家の犬はセレナの家の門におしっこをかける。
「ふふ……さようなら、愛すべき日常……。私は、旅立つ……」
だが犬のおしっこの瞬間をちょうど目撃してしまったため、ちょっとだけ語尾が濁った。
まずは遺書を書くところから始めようか、それとも先に死装束でも選ぼうか、いやむしろ財産目録の整理が先だろうか、とあれこれ呟きながら、セレナは家の奥へと歩いていく。セレナにとって、それは”死に支度”というより、ちょっとしたイベント準備のような感覚だった。
「はは……楽しみ……」
無論、無表情ではあるが。