18-人に足りないもの
「よいしょっと」
しばらくにこにこと笑った後、マルタはまたしてもエルドを驚かせる行動に出る。それは、せっかく濡れる前に降ろしたというのに、結局自ら湖の中に入ることだ。
場所によってはかなり深く、子どもには危ない湖なのだが、浅瀬ならば入れないこともない。わざわざワンピースの裾を持ち上げながら、再び彼に近寄っていく。
「おいおいおい、貴様はまたなぜ来る!?
ここは俺が浸かれるほど深いのだぞ!?
濡れるのは好きにすればいいが、溺れたらどうする!?」
それを見たエルドは、もちろん声を荒げる。
彼が助けたのは、濡れないようにというより頭などを打たないようにだったので、陸地から来る分には問題ないのだが……
それはそれとして、この湖が深く、気をつけなければ危ない場所なことに変わりはない。人を軟弱な存在だと認識している彼なので、過剰とも思える反応を見せていた。
さっきのこともあるので、これだけ強く言われればマルタの足も流石に止まる。綺麗な波紋の中心に立ち、戸惑った様子で首を傾げていた。
「え? 助けてくれたお礼に洗ってあげようかと思って」
「だから、俺がゆったり浸かれる深さだと言っている!!
まず、貴様は泳げるのか!? 話はそれからだ!!」
「えっと、特別泳ぐ練習をしたことはないかな。
でも、水は苦手じゃないよ。お風呂にもよく入るから」
「風呂と湖を一緒に……いや、川や海のように流れがないだけマシなのか? まぁ、どちらにしても細心の注意を払えよ。
さもなくば、俺は貴様が溺れないよう心を砕く羽目になる。
お礼どころか、負担をかけることになることを忘れるな」
「は、はーい……」
予想外に過保護だったことで、もうお礼ができる雰囲気など弾け飛んだ。なんとか許可をもらったマルタは、妙な緊張感を持って、慎重に湖の浅瀬を進むことになる。
だが、実際にエルドの体を洗おうと思ったら、その大部分は深い場所に浸かっているのだ。厳しい注意もあながち間違いではない。彼女は上から降ってくる指示を聞きながら、無駄にゆっくりと歩み寄る。
「それからな、どうせ入ったのならば自然を意識してみるがいい。水そのものになったイメージで、寄り添うのだ」
「それで何かあるの?」
「人が神秘に成り遅れたのは、一言でいえば獣よりも自然に馴染みがなかったからだ。少しは効果があるだろうよ」
「へー」
エルドの前にやってきたマルタは、浅瀬に置かれた顔に手を添えて目を閉じる。ここには危ない獣はいないし、もしいたとしても竜が負けるなどありえない。
どこよりも安全な場所で、水に意識を向けていた。
「ふぁ……」
「……」
この湖に、魚の類はいるのか。いたとしても、エルドがいるせいで奥に隠れてしまっただろうか。川に続く流れも穏やかであるため、水はほとんど揺らがず、静かに満ちている。
明確な波紋になるのは、エルドが身じろぎをした時や尻尾を動かした時、あとは彼女自身が足を動かした時くらいだ。
「……うーん。わかったよーな、わからないよーな」
無言のまま数分経ってから、マルタはようやく目を開く。
こればっかりは、知識や努力などでどうにかできるものでもない。彼女ははっきりとした成果を得られなかったようで、残念そうに肩を落としている。
しかし、エルドとしては当然予想できていたことのようだ。
同じく目を開きながらも、全力でリラックスしている様子で波紋を生み出していた。
「フハハハハ、一度でわかれば人の苦労などないわな。
うむ、今日のところはこの辺にしておくがいいさ。
ほれ、我の体を洗ってくれるのだろう?
さっきの暇な時間に、足場は作っておいたぞ」
「えぇぇっ、すっごいノリノリだねぇ!?
あれ、わたし怒られなかったっけ!?」
「危険を知らずに動くのと、知った上で動くのでは話が違うだろう? 今は注意した後だし、準備もした。油断していると心臓に悪い事態になるが、ひとまず問題はないとも」
「そりゃそうだけど、落差ぁ……」
先程とは真逆の対応を受けて、マルタは思わず脱力していた。だが、言われるがままにその足場に目を向けると、予想を超えた光景に全身を硬直させることになる。
目の前にあったのは……
「ちょ、えぇぇぇぇッ!? 準備した足場!? これ!? 金!?」
土台は水面の少し下で輝き、水上には危なくないように柵のような出っ張りまで伸びた金の足場だった。
この短い時間で作られていることに加えて、素材がどこからどう見ても黄金であること。
あらゆる要素が驚きの塊で、彼女は目を丸くして叫んでいる。その声を一身に受けるエルドは、心底誇らしげだ。
「おうとも。我は黄金竜だからな。金は生み出せる。
ちなみに、あの洞窟も我が加工したものだ。
目立つ訳にはいかんから、金以外でだがな。
ここでは目視しやすいよう、金にした」
「えぇぇぇぇっ、神秘ってすごーっ!!」
「フハハハハっ、そうだろうそうだろう!!
我を崇め讃えるがいい、小娘マルタよ!!」
「ははー、色々教えてくれてありがとっ、お兄ちゃん!」
「フハハ……うん?」
素直に尊敬の眼差しを向けるマルタだったが、そんな中でもからかう心は忘れない。若干威厳のない褒められ方をして、遅れて気がついたエルドは首を傾げていた。
「それでさ、結局人が神秘に成れなかった理由って……」
黄金の足場が生み出されて、数分後。
湖の奥側に立っているマルタは、背伸びをしてエルドの鱗を洗いながら、直前までの疑問を投げかけた。
先日の授業の延長だが、今回は水に浸かって自然を馴染ませるから、人と神秘についてだ。気持ちよさそうにしている彼も、快くその問いに応じている。
「うむ、今日はそれについて話すか? その答えについては、もうほとんど出ているようなものだがな。単純に、科学で生きていた人類にとって、自然は馴染みのないものだったというだけよ。おまけに、安全な生活が保障されていたことで、獣のような生存本能もない。だから、出遅れた」
「でも、出遅れたってことは、成れはするのよね?
あなただって、竜人ってことは元々人なんだろうし」
「まぁな。では次に、竜人を含んだ3つの戦闘民族について話そうか。この時代の初期、人類は神秘に順応できずに逃げ惑った。科学も神秘によって錆付き壊れたと聞くから、本当になすすべもなく敗走したのだろう。だが、一部の人間の中には、自分の意思とは関係なく、心の準備ができないままで神秘に順応しようとしてしまった者がいた。
それは病気と変わりなく。俺が人の体に竜の特徴を持つように、異形の存在になったのだ」
前回と同じように、エルドの説明は普段とは違って淀みなく紡がれる。だが、内容は心躍る御伽噺というよりは歴史で、かなりドロドロとしていた。
これまで神のように聞いていた竜人が、本当はただの異形であるという真実に、マルタは言葉を失ってしまう。
「……異形の、人類。それがあなた達なの……?」
「そうだ。我らは迫害される存在になった代わりに、生まれながらの神秘――天竜族という独立した種族になった」
「……? こんなに大きくて、力を持っているのに?」
「貴様は初めて持った武器を完璧に使いこなせると思うか?
我らの祖先は、移動にすら苦労して逃げたんだよ」
授業を受けながらも洗い続ける鱗は、包丁どころか立派な剣でも簡単に貫けるものではない。
それでも、きっと様々な方法でたくさん傷つけられてきたことは想像に難くなく、マルタは黙り込んでいた。
「続けるぞ。初期の人間は、異形になって人から外れる以外で神秘に成る方法はなかった。たとえ成っても、それを操る術を持たなかった。今でこそ人は自然の中で生きているが、それでも他の獣の追従を許さないほど安全な領域で暮らし、生存本能などでは勝てはしないのだ。しかし、人の強さとは正にそこである。連帯、社会性、知恵などなど……
つまりは精神性であり、心の強さ。異形の亜人は、その一点のみで力を操る方法を覚え、より高めている。
その他の人類の中にも、強い覚悟や恨みを持ったことで、チラチラと神秘に成る者が現れ始めた。
未だ、人に獣を凌駕する生存本能などないだろう。
だが、人は強い意志や感情によって、自然を捉えるのだ」
「それが、人が神秘に成れなかった理由と、成る方法」
「うむ。貴様も強い覚悟を秘めたなら、いずれ成るかもな」
エルドによる授業は終わり、同時に彼を洗う手も止まる。
さっきまでの言葉が染み込んだかのように、湖に浮かぶ世界は静まり返っていた。
「フ……」
やはり情報量が多すぎたのか、マルタはまったく動かない。
それを見たエルドは、話の内容も含めて自身は崇高な存在であるとより強く確信したようだ。
磨きのかかった黄金の体をゆっくりと持ち上げ、派手に神秘的な水飛沫を立てて立ち上がっていく。
少女が見上げる黄金竜は、事実、この辺りに存在している者の中で最も美しく崇高な存在である。
崇高な存在ではあるのだが……
「キャーっ!? エルドさんなんで急に立ち上がったの!?
せっかく気をつけてたのに、びしょ濡れなんだけど!?」
「ぬわぁ、すまん!! テンション上がっちまって……!!」
「はぁぁぁぁぁ!?」
水を思いっきりマルタにかけたことで、全力で叱られることになる。リュックは毎回持ってきているが、着替えなど入れているはずもなく、こんな格好では帰れもしない。
時刻はまだ昼頃。水辺を離れて放っておけば、帰る時間までには乾くだろうか。
ドヤる黄金竜、神獣として崇め称えられてた時には、決して起こり得なかったであろう失敗だ。