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ローズ・スペンサーと言う名を初めて聞いたのは、主である殿下が気になる令嬢がいるという事を耳にした時だった。
王太子であるレオンは令嬢達から非常に人気がある。だが、それは王太子という肩書と見た目に引き寄せられた者ばかりで、内面まで見ようとする者はいなかった。
命を拾ってもらった恩があるゼノは、ローズがどんな者か知る必要があった。もし、不埒な考えの令嬢ならば、レオンが何と言おうと諦めさせる必要がある。それが自分に出来る恩返しでもあると思っていた。
だが、その考えは杞憂だった。
ローズはレオンの王太子でない、人として弱い部分も全てを受け止めたうえで好いているのだと分かった。何より、レオンに向けられる笑顔は花が咲いたように愛らしく、頬を染めて寄り添う姿は可憐で思わず目を奪われる。
(あんな顔で縋れちゃな)
簡単に勘違いしてしまいそうだと思っていた。
そんな人物に「好き」と言われる日が来るとは思わず……
ローズから好きだと言われ最初は驚いた。だが、すぐにその驚きが怒りに変わった。
それは、レオンを騙していたローズと、それに気付けなかった自分にだ。
その怒りをローズにぶつけたが、彼女は諦める所か感情を露わにして脅迫をしてきた。
レオンに向けていた可憐な雰囲気は一変、強気な雰囲気に変わっていた。
こんな女は初めてで、率直に面白いと思った。
それからのローズは、ゼノの姿を見れば傍に駆け寄ってきては愛の言葉を伝えていくと言うのが日課になっていた。
最初の頃は煩わしく思っていたのに、日が経つにつれて自分の中の感情が変化していくのが分かった。
何度突き放さしても諦ない頑固で強情な彼女は、レオンに見せていた可憐で可愛らしい雰囲気はない。だが、今の彼女の方が生き生きしているように見える。
自分と目が合えば嬉しそうに手を振る彼女は眩しくて、愛おしいと思ってしまった。
(この人は主の婚約者だ……こんな気持ちは抱いてはいけない)
そう自分に言い聞かせ、一線を越えてしまう前に改めてローズを突き放した。
その結果、泣かしてしまう事になったが、これが一番最善な方法だと信じていた。
「女の涙は見慣れてるはずなんだけどな……」
城を出たゼノは、夕暮れで赤くなる空を見上げながら呟いた。
◈◈◈
ゼノが屋敷に着くと、使用人たちが慌ただしいくしていることに気が付いた。
「どうしたんだい?」
「あ、ゼノ様!!」
近くにいた一人に声を掛けると、その顔は青ざめていた。それだけで只事じゃない事は分かった。
「お嬢様を見ませんでしたか!?」
「は?」
「朝から姿が見えないんです!!」
「は?」
自分でも驚くほど冷たい声が出たという自覚があった。全身の血の気が引くのも同時だった。
朝と言えば、いつものように大人しくしているよう約束したはずだ。今までその約束が破られたことはない。
ゼノが窓に視線を送ると、もう日が暮れ始めている。外に出たとなれば早めに見つけないと、夜になると手掛かりすら見落とす可能性がある。
ギリッと歯を食いしばり、飛び出そうとした時――
「どうしたんだい?随分騒がしいね」
アシェルが声をかけてきた。
すぐに使用人たちがローズの事を話すが、取り乱すかと思っていたアシェルは至って冷静に聞いていた。
「そう……実は、ローズの部屋からこんな手紙を見つけたんだ」
そう言って見せてきたのは、真っ白な封筒に薔薇のスタンプが押された手紙。中には綺麗な文字で「ごめんなさい」とだけ書かれていた。それは紛れもなくローズの筆跡だった。
「ローズは王太子妃という肩書に重圧を感じていたからね……最近は殿下の元にも顔を出していなかったみたいだし……」
「まさか、お嬢様が!?あれほどお喜びになっていたのに……」
アシェルの言っている事は半分あっているが、重圧など感じているはずがない。
「愛だけじゃ王太子妃は務まらないんだよ。そこに気が付いたんだろうね」
「そんな……それじゃあ、お嬢様は一体どこに……!?」
使用人たちは目に涙を浮かべながら縋っている。そんな使用人らを落ち着かせるように「大丈夫」と言うと
「思い当たる場所をいくつか探ってみるから、あとの事は僕に任せて君らは休んでいいよ」
傍からみれば気遣いの出来る素晴らしい主だと思うが、ゼノから見れば不自然で仕方ない。
(一刻も早くこの場を収めたいのが丸分かりだな)
その理由は言わなくても分かる。十中八九この男が絡んでいるという事だ。
アシェルに促されるまま部屋に戻って行く使用人達の後姿を黙って見ていたゼノだが、二人になったところで口を開いた。
「………………姫さんを何処へやった」
「おや?先ほどの話を聞いていなかったのかい?」
「ふざけるなよ……!!お前が姫さんを隠したんだろ!?」
鋭い眼光を向けて問い詰めるが、とぼけた様な答えが返ってきて思わず胸倉を掴み怒鳴りつけた。
「へえ?たかが影の分際で僕に手を出すなんて、碌な躾されてないね」
「そんなことはどうでもいい。早く居場所を言え」
「だから、僕は知らないよ。そういう君こそ、ローズの護衛だろ?こちらからすれば、こんな失態許せるものじゃないよね?」
「………………」
痛い所を突かれた……確かに護衛の身で傍を離れたのはこちらの失態だ。だが、自分が離れることをローズにはちゃんと話したうえで納得してもらっていた。だから、ローズが自らどこかに行くという事は考えられない。
確実に目の前の男が絡んでいるのは分かっている。出来ることならこのまま首を絞め上げたいぐらいの感情があるが、必死に抑え込んでいる。
アシェルは手を振り払い、襟を正しながらゼノを睨みつけた。
「こんなことしているより早く殿下に報告しに行った方がいいんじゃないの?」
そう言いながらゼノの横を通り過ぎ、自身も部屋に戻ろうと足を進めたが「ああ」と思い出したように足を止めた。
「殿下に伝えておいて。ローズは渡さないって」
捨て台詞を吐いてから、その場から去って行った。
「………………は、自分が犯人だって言ってるようなもんじゃん」
失笑しながら言うと「クソッ!!」と力強く壁を殴りつけた。