(2)
伊織は布団の中が暑くなったように感じて目が覚めた。カーテンの向こうから外の光が漏れている。もう朝になったようだ。
横を向いていたすぐ目の前に、黒い物が見える。黒猫が布団に潜り込んで丸くなっていたのだろう。思わず可愛く感じて、その背中を撫でた。
(うん?)
その黒い背中を撫でたと思ったが、どういう訳なのか、猫の毛とは違うような気がする。柔らかい感じではないが、もっとサラサラとした感触だ。すると、その黒いものがモゾモゾと動いた。
「えっ——」
思わず声が出てしまった。黒い物が動いて、現れたのは目を閉じた人間の顔だ。ドキッとして慌てて布団から起き上がる。そして、その顔を見て息を呑んだ。
(や、山本さん……?)
そこには、上を向いてしっかりと目を閉じて寝ている山本真穂の顔があった。捲った布団の下で、彼女は昨日と同じように高校の紺色の制服を着ている。黒く綺麗な長い髪のその頭を枕に乗せていた。
伊織は思わず自分の頬をつねった。しかし、痛みはある。夢ではないらしい。
(いや待て……。どうして彼女が?)
昨日の事を思い出してみる。彼女とは塾でその姿は見たものの、結局一言も話せずに彼女は帰ってしまった。それから後は会っていない。その彼女がどうしてここに寝ているのだろう。
本当に彼女なのだろうか。まだ顔の下半分には布団がかかっていたので、そっと布団を捲っていく。すると、彼女が「ううん」と言いながら、少し目を開けた。
「ん……」
彼女と視線が合った。しかし何も言えない。すると、彼女が突然ガバッと体を起こした。
「虎政!」
彼女は伊織に顔を寄せた。その勢いに思わず体を引く。そして彼女はその手を伊織の両肩に乗せたと思うと、伊織の体に飛び込んできた。
「そなた……生きておったか」
「えっ……」
耳元で彼女が「うう」と嗚咽するような声が聞こえてくる。訳が分からないまま、抱きついた彼女の体温がじわじわと体に伝わってきて胸が高鳴っていく。すると、彼女は急に体を引いて少し顔を赤らめて俯いた。
「いや……すまぬ」
「あっ……いや」
伊織も恥ずかしくなり、顔が赤くなるのが自分でも分かった。すると、彼女はもう一度こちらを見て不思議そうな顔をした。
「そなた、どうしたのじゃ。その格好は。髪をなぜそのように切った」
「えっ? いや……別に切ってないけど」
伊織が困ったように答えると、彼女も自分の姿を見回した。
「な、何じゃ、この着物は。私の着物はどうした」
「どうしたって……高校の制服だよ」
「セイフク? い、いいから、私の着物を持って参れ」
彼女はそう言って、スカートの裾を恥ずかしそうに押さえて、布団を足元に掛けた。その様子を見て、伊織も声を掛ける。
「あ、あの……山本さん?」
しかし、彼女はこちらを不思議そうに見ている。
「誰を呼んでいるのじゃ」
「い、いや……君だけど」
「何を寝ぼけたことを言っておる。私ではないか」
そう答えると、彼女は伊織の姿を上から下まで見下ろした。
「うん? そなた……虎政ではないのか」
「トラマサ? 一体、誰のこと? それより、君は山本さんじゃないの?」
「だから、違うと言っておるではないか。それより、そなたこそ何者じゃ」
「何者って……僕だよ。内藤伊織だよ」
「内藤じゃと? 誰じゃ、一体。……まさかそなた、織田か徳川の手の者か。私をどうしようと言うのじゃ!」
彼女はそう叫んで体を引いた。
「お、織田? 徳川? 何のこと?」
伊織は訳が分からないまま、彼女が怯える様子を見て体を引いた。その時、部屋のドアが急に開いた。
「もう! 朝からうるさいわね。こっちは二日酔いで気持ち悪いんだから!」
その方を振り向くと、そこにはボサボサの髪をした姉の海未が立っていた。表情からも機嫌が悪そうなのが明らかだ。しかし彼女は、部屋の様子を見て、ハッとしたように立ち止まった。
「えっ——」
海未はもう一度、伊織と、同じベッドの端に座っている彼女を順番に見た。そして、急に恥ずかしそうに俯いた。
「なっ、何やってるのよ。もう」
そう言ってドアを閉めようとする。それを見て、伊織は慌ててドアまで走って、ノブを掴んで引っ張った。
「い、いや、待って。違うんだって」
「ごめん。伊織を見くびってた。そういう事には縁のない奴だと思ってたけど、今のは見なかった事にする」
海未はさらに力を入れてドアを閉めようとする。すると、後ろから声が聞こえた。
「待て。……そなた、女子か」
その声に、海未は力を緩め、部屋の中にいる彼女の方を見た。
「お、オナゴ……?」
「そなたに頼みがあるのじゃが」
彼女はそう言って海未を見つめた。
「そなた……もっと裾の長い着物を持っておらぬか」