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黒猫と戦国のお姫さま  作者: 市川甲斐
3 迷い猫
27/55

(5)

 再び静かになってしまったその場で、伊織は結月に尋ねた。


「それは一体、何のためなんですか」


 すると結月は大きくため息をついてしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「記憶と命は、実は同義なのです」


「えっ?」


「その人間を作っているのは、実はその人が生きてきた中での経験、つまり記憶です。普通なら記憶はその人の命とともに失われますが、その命が失われる前に、記憶だけを抽出して別の人間に受け渡すことができたらどうでしょうか。それこそ、その人間の命の限界を超えることになると思いませんか」


 結月が静かに言うと、皆が黙ってしまった。伊織も彼女の話した内容は信じられないが、その意味だけは何となく理解できる気がする。


「じゃあ、もしかして信玄公の目的って……」


「ええ。記憶の継承——すなわち永遠の命だったのかもしれません」


 結月がそう答えた時、強い風が吹いてきた。入口の引き戸がガタガタと音を立てて揺れて、思わずドキッとする。


「古文書では、記憶を受け渡した側の人間は、その世界で違和感なく生きていけるよう、記憶を受け渡された側の人間の元々の記憶に急速に順応していくとされています。つまり、梓姫は、この世界に来てから、山本さんの記憶を一気に吸収しているのではないでしょうか」


「まさか……それで私は、この世の学問が分かるようになってきたというのか」


 梓姫が口を開くと、結月は頷いた。


「そうですね。勉強もそうですが、毎日の衣食住、家族のことなども、意識せずとも分かるようになっていませんか?」


「それは……そうかもしれぬ。先日も気づいたら、何気なく『パン』というものを食べておったわ」


「そうなの?」


 伊織も驚いて隣の梓姫の顔を見ると、彼女は頷いた。


「そうでしょうね。だから、少しずつ意識しないうちに、梓姫は『山本さん』の記憶を蓄積していきます。そしていずれは、ある意味でほぼ完全な『山本さん』になるのです」


「梓姫が、山本さんに——」


 伊織は梓姫の方を向いて呟いた。彼女もこちらに顔を向ける。山本真穂の体に、その彼女の記憶まで持っていたら、それはもはや「山本真穂」本人だ。それであるならば、何も問題はないのではないか。しばらく黙っていたが、結月の声が聞こえてきた。


「梓姫。一つ伺いたいのですが」


「何じゃ」


「あなたは……昔の記憶が曖昧になってきていませんか」


「昔の記憶?」


「つまり、この世界に来る前の、戦国時代の記憶です。例えば、家族のこととか、周りにいた人のこととか」


「そんなもの忘れるはずがなかろう。父上は武田勝頼、母上は……」


 そこで梓姫はハッとしたように口を閉ざしてしまった。


「待て。母上は……母上の名が、思い出せぬ」


 梓姫はそう言って俯いた。


「ど、どういうこと? 確か、お母さんは何年か前に亡くなったって、前に言ってたよね」


「亡くなった? そんなことを話したか」


 梓姫は不思議そうに伊織の方を見つめた。すると、結月が向こうから静かに口を開いた。


「やはり、そうでしたか……。人間の記憶力には限界があるのです。つまり、受け渡した記憶と、受け渡される前の記憶の2人分の記憶を全て保持することはできません。この世界で生きるための記憶が優先され、それ以外のものは次第に記憶の底に埋められていくと言われています」


「では、私の記憶は……本当の母上のことは、思い出せぬというのか」


「ええ……。しかし、その辺りの事ははっきりとは分かりません。いずれ、梓姫がこの世界でしっかりと生きていくことができれば、思い出せる日も来るかもしれませんが、しばらくは難しいかもしれません」


 結月が悲しそうな顔で答えると、梓姫はその顔を見つめた。


「そんな……母上のことを忘れてしまうとは……」


 そこで彼女は俯いた。その頭の両側の長い髪がその横顔を隠し、次第にウウっと嗚咽する声が聞こえてくる。伊織は思わずその背中に手を置いた。すると彼女も伊織の方に体を寄せた。しばらくどうすることもできずにいたが、その場の雰囲気を変えようとして、一つ気づいたことを言った。


「あの……そもそもどうして梓姫は、記憶を別の人間に受け継ぐようなことになったんですか」


 伊織が結月の方を見てそう尋ねると、彼女は頷いて答えた。


「そうですね……。それは受け継がねばならない状況になったということでしょう」


「受け継がねばならない状況?」


「ええ。その記憶が失われるということ。つまり、生命の危機です。要するに、瀕死の状況になったということでしょうね」


「まさか……私は、死んだということか」


 梓姫がようやく嗚咽から落ち着いて、顔を上げた。


「そう……だと思います。そして、おそらくその月の石の力で、梓姫の記憶を受け継ぐ術が発動したのだと」


 結月が静かに言うと、梓姫は自分の胸元に提げた小さな袋をそっと握りしめた。その時、「あっ」と彼女が声を上げた。ドキッとして彼女の瞳を見つめる。


「どうしたの?」


「思い出したのじゃ」


「思い出した? お母さんのこと?」


「いや、そうではない……。山本真穂のことを」


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