(2)
その1週間は何事もなく過ぎ、土曜日になった。結局、その週は2回しか弓道部に顔を出せておらず、少し体がなまっている感じがしたので、まずはジャージで校庭をランニングした。それから弓道場に戻って着替え、ひとまず弓を射った後だった。
「伊織くーん」
声の方を振り向くと、同級生の太田がニヤニヤしながら近づいてきた。彼とはその週は一度も顔を合わせていなかった。
「な、何だよ」
「久しぶりだねえ。今週は部活にあまり来ていなかったみたいだけど。楽しいことでもあったのかな」
「……別に」
「部活をサボって、路上で女子と抱き合っていたという噂を聞いたけど」
「ま、まさか……」
「あのお喋りな琉美も口が重いし、一体どういうことだよ。正直に教えろよ」
太田が小声で近づいて来た。さすがの琉美も梓姫の事は話さなかったようだが、やはり梓姫と登下校しているところを誰かに見られていたのかもしれない。
「ちょっと。太田の番よ」
古屋が声を掛けたので、太田はしぶしぶな様子で準備に向かう。その代わりに古屋がこちらに近づいてきて、道場の端の方に行くよう指で示したので、そちらに歩いていった。
「あのさ、伊織。真穂のことなんだけど」
彼女は小声で話し始めた。
「どうかしたの?」
「いや……何となくなんだけど、真穂——あの梓姫のことだけどね。何か変わった感じがしない?」
「変わった?」
「そう。何となく、普通になってきてるような気がするんだけど。前の真穂みたいに」
「前みたいに……」
「うん。授業中にもノートに何か書いているみたいだったし、勉強も分かっているような気がするし。昨日、一緒に帰る途中で塾の前を通ったら、『この場所は知ってる』って言ったの。もしかして、事故に遭って、本当に一時的に記憶がおかしくなってただけなんじゃないかって」
そこまで古屋が言った時、誰かが「琉美の番よ」と呼んだ。古屋はそれで慌てて戻ってしまった。
その日は、大して運動した訳ではなかったが、意外に疲れたような気がした。帰宅して昼ご飯を食べ、ベッドでウトウトしていたつもりが、目が覚めると既に陽が傾いていた。
机の上に置いていたスマホを何気なく見た。すると、海未から何度か着信が入っていた。留守電にも「すぐに電話しろ」とメッセージが入っている。どうやらマナーモードにしていて気づかなかったらしい。海未に電話をかけると、彼女はすぐに出た。
『遅い!』
電話の向こうで海未が大声で言った。
「何だよ。ちょっと昼寝してて気づかなかった」
『昼寝? 家にいたの? じゃあ、今から迎えに行くから、玄関で待ってて』
海未はそれだけ言って電話は切れた。
(何だよ。何を急いでいるんだ?)
不思議に思いながら、カーキ色のダウンジャケットを着てから、家の玄関の外に立っていた。空には僅かに雲が出ているが、陽が傾いているので気温も下がってきているような気がした。今日は土曜日だが、4時を過ぎており、もうすぐ母も仕事から帰って来るだろう。すると、茶色の小型車がやって来て、玄関前で停まった。海未が運転席の窓を開ける。
「早く乗って」
助手席側に回ってドアを開けて乗り込むと、車はすぐに発進した。
「どうしたの?」
「先週会った菜月から連絡があったの。すぐに梓姫を連れてきてほしいって」
伊織は、その綺麗な女性のことを思い出す。今週は梓姫の登下校や学校でのことばかり気にしていたので、菜月に会ったことをすっかり忘れていた。そういえば彼女は、何か気になることがあるから調べてみると言っていた。
「だからすぐに梓姫を呼び出して」
「えっ、僕が? もう夕方だけど、大丈夫かなあ」
「いいから、何とかしてよ」
仕方なくスマホから「山本真穂」の電話番号に掛ける。3回ほど呼び出し音が鳴って、彼女が電話に出た。
「あっ……僕だけど」
『分かっておる。どうした』
「あの……これから出かけたいんだけど』
『出かける? どこに行くのじゃ』
「先週会った、菜月さんのところだって」
『ああ……あの女子か』
「あと少しで家に着くから、いつもの場所で待ってて」
そう伝えると、彼女は「分かった」と言って電話は切れた。
車はすぐに彼女の家から200メートルほど離れた小さな公園の前に着いた。そこが登校時にいつも彼女と待ち合わせしていた場所だ。彼女は既にそこに来ていた。
「ごめんね。急に」
後部座席に乗り込んだ梓姫に海未が言うと、「大丈夫じゃ」と彼女は答えた。乗り込む時に彼女を見ると、今日は薄いグレーのロングコートに、ハーフアップのような髪型をしていた。何かの雑誌でも見ながら自分で結んだのだろうが、どう見ても普通の女子高生にしか見えない。
「お母さんに何か言われなかった? こんな夕方から出かけるなんて」
海未が尋ねると、梓姫は首を振った。
「ちょっと琉美に会いに行くと言ってきた」
「古屋に? ……マジで」
彼女の母親は琉美の電話番号まで知っている。もし彼女に電話して一緒にいないことがバレたら、また心配しないだろうか。そう思って、琉美に「梓姫をちょっと連れ出さないといけないから、お母さんから連絡があったら古屋と一緒にいることにして」とメッセージを送ると、しばらくしてOKとの返事が来た。
車は甲府市内から北の方に向かって進んでいるようだった。ナビがどこかに設定されていて、目的地までは40分ほどだと表示されている。
「どこに向かってるの?」
「菜月ちゃんの住んでる真月村よ」
海未はそう答えた。夕方になり道路の交通量も増えてきた気がする。国道のバイパスに出る交差点でかなりの渋滞に巻き込まれてしまった。その時、伊織はふと思い出して、後部座席を振り向いた。
「そういえば、梓姫。記憶が戻って来てるんじゃないかって、古屋が言ってたけど、それって本当?」
「うむ……。いや、どうなのだろうか。よく分からぬ」
後部座席の梓姫はそう答えた。なぜか彼女の表情は不機嫌そうだ。
「分からないって、どういうこと?」
伊織が尋ねると、彼女は首を振った。
「何というか、私が知らなかった記憶が、知らぬ間に頭に入っているような気がする、とでもいうのか……。そのかわり、たまに自分のことがよく分からなくなる」
そう言って梓姫は横を向いて黙ってしまった。しばらく彼女は黙っていたが、静かに口を開いた。
「私は……梓姫であろうな」
「えっ——」
伊織は再び尋ねようとしたが、梓姫は窓の外の方にずっと顔を向けていた。どこかそれ以上話しかけて欲しくないと言っているような気がして、それ以上尋ねるのを止めた。
しばらくバイパスを走ってから、車は郊外の道を抜け、盆地を取り囲む山の方に向かっていく。FMラジオのパーソナリティの声が車内に流れる中で、伊織も黙ってただ窓の外の風景をぼんやりと眺めていた。