(1)
その日、伊織は掃除当番だった。他の3人のメンバーとともに掃除を終え、教室を出て行こうとしていた時だった。
「おい、伊織」
同じ当番の一人だった高野が声をかけてきた。他のメンバーがいなくなり高野と二人だけになると、彼はニヤッと笑った。
「お前さあ。山本さんと、うまくいったのか?」
彼はそう言ってバシンと背中を叩いてきた。
「いや……どうにもなってないけど」
「そんなことないだろ。この前まで同じ教室にいても全然話す感じでも無かったのに、彼女の方は明らかにお前の方を見てるぞ」
「そ、そう……?」
「でも何か様子がおかしい感じがするんだよな。前はもっと、女子達で休み時間とか放課後に楽しそうに話していたのに、最近、席で寝ていたり一人で本を読んでたりして、何か人が変わったみたいだよな」
「そうかなあ……」
「もしかして、お前にベタ惚れか。この幸せ者!」
高野は再びバシンと背中を叩いてきた。
「い、いや、勘違いだから。まさか僕なんて」
伊織はそう返してから、急いでカバンを持って教室を出た。
高校から自転車に乗って学校を出ると、少し離れた場所にあるコンビニに自転車を停めた。店内に入り、雑誌の陳列スペースの前に立っている人間に声を掛ける。
「ごめん。遅くなって」
「ああ。大丈夫じゃ」
山本の姿をした梓姫が読んでいた雑誌から視線をこちらに向けた。
「しかし、この世界は色々な書物があるのう。何やら向こうの方には妖しげなものもあるが」
「えっ……もしかして、あっちの雑誌を呼んだの?」
成人向けコーナーと書かれた棚の方を見てそう尋ね返すと、梓姫は少し顔を赤らめて「いや……」とだけ答えたが、すぐに「そういえばこの書物じゃが」と手にしていた雑誌を指差した。
「ここにある『信玄公祭り』というのは、御館様の関係の祭りか」
伊織は彼女が示す場所に視線を向けた。それは観光関係の雑誌で、イベント情報として毎年4月に開催される信玄公祭りの情報が載っていた。
「そうだよ。毎年、有名人が信玄公の恰好をして、武者行列を連れて甲府駅周辺を歩くんだよ」
「そうか……。ということは、やはり、御館様はこの時代でも尊敬されておるのじゃな」
「そりゃあ、もちろん。甲府駅前には信玄公の像があるし、今でも間違いなく山梨県の一番の有名人だよ。多くの県民は誇りだと思ってるよ」
「なるほどのう。それと、この『湖衣姫コンテスト』というのは、お婆々《ばば》様——つまり、諏訪姫様のことか」
「ああ、そう。山梨県が好きな女性で、我こそはという人が、湖衣姫として選ばれるコンテストだよね。諏訪姫には会ったことがあるんだっけ?」
「ある訳なかろう。私が産まれるよりかなり前に亡くなっておる。大変お美しい方だったと聞いておるがな。……しかし、ここにおる姫たちはどれも派手な化粧と着物じゃのう。このような姿は、嫁入りの時でも見たことがないわ」
梓姫はそう言って雑誌を閉じた。店を出て伊織は自転車を押しながら二人で歩き始める。彼女は自転車に乗れないので、徒歩通学になっていた。海未のアドバイスにより、梓姫は母親に、「この前、自転車で事故に遭ったことをきっかけに自転車に乗るのが怖くなった」と伝えたらしい。ただ、徒歩だと通学時間が40分ほどかかることになり、道順はもちろん、交通ルールにも不安があったので、家と学校の近くまでの間は、伊織と古屋が交替で一緒に通学するようにしていた。
(でも、これって本当に付き合ってるみたいだよな)
彼女と隣り合ったり、その前を歩いたりしながら思う。今週はとりあえず、彼女は部活を休みにしている。学校では琉美が色々とフォローしてくれて、「真穂は自転車事故に遭って、痛み止めの薬の影響で体調が悪い」ということにしている。梓姫自身もなるべく喋らないようにしていることもあって、クラスメイトもその話を信じており、意外にも学校では大きな問題は生じていない。
「のう、伊織」
歩道で隣を歩いていた梓姫が声を掛けてきた。
「何?」
「学問のことなのじゃが」
「学問? ああ、高校だから難しいよね。たぶん。僕も数学とか苦手」
「いや、そうではなくて……何と言うか、不思議なのじゃが、分かるような気がするのじゃ」
「分かる?」
「うむ……。その、学問の考え方というか、中身というのか」
伊織は驚いて立ち止まった。
「そうなの? それって、勉強が分かるってこと? すごいじゃん!」
本心からそう言った。この世界に来て、いや高校に通い始めてまだ3日目だ。それで高校の科目の内容が理解できるとは、彼女は天才ではないだろうか。しかし、梓姫は伊織の方を見つめて黙っていた。
「どうしたの?」
伊織は尋ねたが、彼女は黙って道路を行き交う車の方に顔を向けた。それで再び声を掛けようとした時だった。
ワンッ、ワン!
突然、犬の声が聞こえた。その瞬間、「きゃあ」と声を上げて梓姫が伊織の体に飛び込んできた。
「コラ! ダメでしょ。止めなさい」
柴犬を連れていたおばさんがそう怒ってから、「ごめんなさいね」と言って去って行く。しかし、梓姫は伊織に体を寄せたままだ。胸の鼓動が激しくなっていく。
「ど……どうしたの?」
自分に抱きついている梓姫。しかもそれは山本真穂の姿をしているのだ。自転車に乗った高校生が、伊織たちをジロジロと見ながら通り過ぎていく。すると、梓姫は伊織の顔を見上げた。目の前にある彼女の瞳がしばらく伊織を見つめる。
「す……すまぬ」
彼女はそう言って、体を離して俯く。伊織はまだ胸がドキドキしていたが、慌てて言葉をかけた。
「い、いや……大丈夫?」
「犬は、苦手なのじゃ」
「あっ……そう、なんだ」
そう答えると、梓姫は顔を上げて伊織を見つめた。
「そうじゃ……。会ったような気がする」
「えっ? 会ったって、誰に」
「山本、真穂に——」
「ええっ!」
伊織は思わず声を上げた。彼女は急に何を言い出したのだろう。「どこで」と伊織は尋ねたが、彼女はそこで空を見上げて目を閉じた。必死に何かの記憶を辿ろうとしているように見える。しかし、彼女はやがて首を振った。
「すまぬ、駄目じゃ。思い出せぬ」
そう言うと彼女は再び歩き始めた。