(11)
それから夕方まで、私はスミを撫でていた。スミはたまに起き上がり、背筋を伸ばして部屋を歩き回ったり毛づくろいをしていたが、長い時間、私の膝の上や私の隣の畳の上で丸くなっていて、近くにいる時はその体を私は撫で続けた。夕飯を挟んで陽が沈んでからも同じようにしていたが、特に何の変化も見られない。
(やっぱり、志月さんの勘違いじゃないかな?)
スミはどう見てもただの猫だ。確かに大人しいし、猫が好きな私にとっては可愛く思えて心が休まる感じもするが、それ以上のものではない。
辺りが真っ暗になり、寝る準備をお富が始めようとしていた頃だった。
「申し上げます。殿がお越しでございます」
虎政の声が聞こえた。お富もハッとしたように障子に近寄って再び座った。私は隣で丸くなっているスミの体を撫でていたが、スミは急に体を起こして座り込んだ。虎政の声に驚いたのかもしれない。落ち着かせるように、頭の辺りを手で撫でる。すると、障子が開けられた。
「夜分にすまぬな」
そこには、鎧を着た勝頼の姿があった。私は畳に手をついて頭を下げた。彼は、ガチャガチャと甲冑を鳴らしながら私の隣まで来て、ドスンとそこに座り込む。そこで私は頭を上げた。
「これから裏切り者の木曾義昌を成敗しに参る。既に信豊を先鋒に差し向けた。儂自らの手で、かの者を成敗してくれるわ」
ハッハッハと大声で笑った彼は、私の顔を見つめた。木曾ナントカというのが誰なのか分からなかったが、私はただ黙って少しだけ頷いた。相手が誰であろうが、勝頼が出陣すると決めたことに、娘である梓姫が何か意見できるはずもないだろう。
その時だった。
『行ってはなりませぬ! 近いうちに浅間山が噴火して、兵も動揺して大敗いたしますぞ』
えっ、と思って、思わず左右を見回した。近くから女性の声が聞こえたような気がしたのだ。その声はお富ではなく、もっと若そうな女性の声だった。そこでふと、隣にいたスミが目につく。スミは私の方を見上げている。
「どうした?」
勝頼が不思議そうに尋ねてきた。すると、再びはっきりと『行ってはなりませぬ』と言う声が聞こえた。その声は隣に座っているスミの方から聞こえてきたのだ。スミは勝頼の方を向いている。
(まさか……)
私は茫然としながら、その声と同じ言葉を繰り返した。
「行かないでください」
勝頼が少しだけ首を傾げた。
「行くな、と? 何故じゃ」
「あの……浅間山が噴火をして、皆が動揺してしまう……ような気がします」
「浅間山が——」
勝頼はじっと私の顔を見つめた。私も彼の顔を見つめて黙っていると、彼は再びハッハッハと大きく笑った。
「何を言っておる。そなたも先のことが分かるとでもいうのか。まさかそのような事はあるまい。心配せずともよいぞ。地の利は我らが知り尽くしている。わが武田の強さを見せつけてくれるわ」
そう言って勝頼は立ち上がった。そして私に背を向けて歩いていく。すると、数歩進んだところで彼は立ち止まり、少しだけこちらを振り返った。彼の細い顔の大きな瞳が私の方を見ていた。
「そなたは……必ず生き延びよ。それが早月の願いじゃ」
それだけ言って勝頼は部屋から出て行った。
『お待ちを』
再び女性の声が聞こえた。私が隣のスミに顔を向けると、スミは座ったまま、勝頼が出て行った障子の方をじっと見つめていた。
「お富……少し、一人になりたいのですが」
私がそう言うと、お富は「分かりました」と言ってすぐに部屋を出ていき障子を閉めた。一人きりになった部屋は、薄暗いロウソクの灯りに照らされて、物音一つ聞こえない。そして、私は隣に座っていたスミをそっと抱き上げた。スミは少し足をバタつかせたが、私の顔の前まで抱き上げて、その顔を見つめる。
「あなたよね? さっき喋っていたのは」
スミの金色の瞳がじっとこちらを見る。そしてさっきと同じ声が聞こえた。
『な、何をする! 我は本当の梓姫なるぞ』
「梓姫?」
スミの口は動かないが、目の前からはっきりと女性の声が聞こえた。私は目の前で起きた事実に、言葉を無くしてしまった。
(本当の梓姫は、スミになってしまったってこと?)
そう思ってスミを見つめていると、再び声が聞こえた。
『そなた、私の声が……聞こえるのか』
「あなたこそ、私の声が聞こえるの?」
するとスミは少し頷いたような気がした。私もそれに頷いてから、立て続けにスミに向かって尋ねる。
「ねえ。一体、これはどうなってるの? 私は悪い夢でも見ているの?」
『な、何を言っているのじゃ?』
「あなたが本物の梓姫なの? どうして猫になってるのよ。それに、どうして私が梓姫になってしまっているのよ」
『どういう事じゃ? 言っていることがさっぱり分からぬ。そなたこそ、何者じゃ』
私はそこで大きく深呼吸して答えた。
「私の名前は、山本真穂」
その名をスミに向かって伝える。しかし今度は、スミはじっとこちらを見つめるだけで動かない。
「どうしたの? あなたはどうして……」
ねえ、と言いながらスミの体を揺らすが、さっきまで聞こえていた声の代わりに聞こえてきたのは、ニャアという猫の声だ。ハッとして畳の上にスミを降ろすと、障子の隙間からあっという間にどこかに走っていってしまった。
「待って!」
そう呼びかけたが、スミは戻って来ない。一人になった部屋の中に静寂が広がる。
(さっきのは一体、何だったの……)
私は訳が分からないまま、その場で大きくため息をついた。